静謐を讃える無人の神殿。
明日になれば祝福と祈りに溢れるであろうその場所も、今はまだその居住まいを崩さない。

そんな空気の中―― 一つの影が、建物内に足を踏み入れた。


「……やっぱり此処か。」

花の多く咲く季節になろうとも、まだ十分夜は冷える。普段着に身を包んだままの侵入者は、もう一枚上衣を持ってくるんだったかと思いつつもその視線の先に足を進めた。

「……。」
視線の先――明日の主役の一人たる、彼は自らの半身の名を呼んだ。だが、彼女は振り返らない。
その正面にあるナーガ神の神像――物言わぬ石造りの神の姿を見上げているだけだった。

。」
聞こえていないわけでは無いだろう。しかし彼女は振り返らず、頑なにクロムに背を向けている。普段なら腹の一つでも立ったかもしれないが、今日の今日はそうは思わなかった。流石のクロムであっても。

「……明日の主役が風邪っぴきじゃ、様にならないと思うんだが?」
歩み寄った背後からその華奢な身体を抱き寄せ、自らのマントで全身を覆う。別段衣装に拘りの無い彼女だが、流石に王宮内に居る場合はそれと相応しい身なりをしている。――普段なら。

だが、今日。今に限って言うのなら、彼女はクロムの最も慣れ親しんだ出で立ち――軍師としての衣服を纏って佇んでいた。

「明日の主役は貴方でしょう、クロムさん。」
「リズ曰く、結婚式の主役は花嫁だそうだ。夫は添え物のパセリだと。」
「随分豪勢なパセリですねぇ……」
一国の王(代理だが)になろうとする人物に、実兄とは言え中々言えることでは無い。
親友と並び、クロムにそう高々と宣言した実妹の姿を思い浮かべて苦笑を零せば、抱き込んだ人物からも漸く小さな笑いが漏れる。
同時に僅かに強張っていた肩から、ふっと力が抜けたのも。

「……どうした。」
それを見計らって問えば、腕の中で小さく首が横に振られる。何でも無い、と言うのであろうが何でも無ければ彼女は今此処には居ない。勿論、分かっていての問いだ。
明日、婚礼の儀を上げる――まだ『クロム』であることが許されているクロムからの。

「ただ……少し、眠れなくて。一日中作法だ祝詞だと女官や神官に追い回された割には、目が冴えてしまったんです。それで、少し。散歩を。」
「散歩、ね……」
らしからぬ下手な言い訳と弁解に、含みを持たせて答えればクロムに預けられる重みが増した。――降参の合図だろう。

「一人で抱えるなと俺は言ったぞ?」
「……ええ。でも……」
考え出したら止まらなくなった、と。以上に女官や神官・文官に追い回されていたクロムだ。恐らくその疲労は自分以上だろうと口にすれば、腹部に力を込めずにしっかりと抱き寄せられる。

「……肝心のお前を追い詰めてまで、守らなければいけないものがどこにある?」
「貴方の肩に。」
間髪入れず返ってくる答えに、クロムが渋面を作る。やはり舌戦では彼女に敵わんなと、攻め方の変更を余儀なくされる。

「……すいません。本当に。少し――本当に、少し。考えていたら、止まらなくなってしまったんです。」
「旅装を整える程度の少し、か。」
咎める声に、今度は謝罪は返ってこなかった。分かっている、とその沈黙が語る。

「私の場合、マリッジ・ブルーの一言で片付けるには色々あり過ぎて……あまりにも、何も、無さすぎるから。……何ででしょうね。気付いたら、此処に来ていました。」
神を信じないと言った――否、今も信じていない。その自分が何故、と繰り返す。

「聖王家の末裔たる俺が言うのも何だが――確かに、そうだな。一般で言われているような神を、俺もお前も信じていない。信じているのはお互いであり、仲間であり――」
「そして、自身の神である。自分自身の意志、のみ。」
神が何かと問われたら、クロムもも自身の意志と答えるだろう。
その意志を貫くためになら、どんな犠牲をも――無論、自らの身に限定してのものだが――払う覚悟がある。
昔、クロムにお前を犠牲にするつもりは無いと言われたことがあるが、それに対しては答えたのだ。自らのなすことが犠牲だと言うならば、自らにとっての神は――その犠牲を支払うべき対象は。自身の意志だと、傲慢にも言い放った。

納得しろとは言わない。だが、その信念こそが。自分を――彼女を。支えていることを、分かって欲しいと。

そして全てが終わり。荒れた国土を前にしながら、彼がに告げたのだ。

――理解するために、納得するために。そして……未だそれができない、自分を赦すために。
傍に居て欲しい、と。

そして明日――その願いを後世に遺す為の形骸(かしょく)の日を迎えるのだ。

その日が近付くにつれが時折その表情を曇らせる回数が増えていくのを、クロムは忙しさに感けて見逃すようなヘマはしなかった。
諜報技能に優れている――と、言うかまんま盗賊稼業――仲間の一人にの見張りを頼み(表向きは彼女の安全を確保するためと称し)、そしてつい先程。その彼からが部屋から抜け出したとの報告を受けたのだ。
報酬を受け取りに厨房へ向かう彼と入れ違いにクロムは、その甘党からこうも言われた。
逃げ出すんなら手を貸すぜ、と。

。」
腕の中の彼女の髪に顔を埋め、何度もその名を呼んだ。幾度となく自分を救ってくれた彼女に、クロム(じぶん)のできることの何と少ないことか。
――過去、同じような体勢で自嘲気味に呟いたことのある彼に、は言ったのだ。

貴方は生きて――そして、今。此処に居てくれる。ただ、それだけでいいのだと。

微笑みながら言ったに、手を伸ばさないでいられるはずも無い。改めて求婚し、彼女が躊躇う理由も不安も全て二人で分かち合おうと囁いて。
だがやはりそれは彼女の中でのみ堆積していたのだと、神殿の扉を開いた先に佇む頼りなげな背中を見た瞬間、理解した。


それでもクロムはその手を離せない。自分の為にも、彼女の中に宿る、新しい命の為にも。

「……戻りましょう、クロムさん。明日は早――」
。」
どこか空ろな、自分の感情に無理やり蓋をしたような表情をしたまま帰りを促す溜息交じりの言葉を奪い、クロムはその腕を引いて歩き出した。戸惑いながらも逆らうことをしないは、クロムの手に引かれるまま先程居た位置よりも更に祭壇に近づいた場所に導かれる。

「時間、はそろそろか……位置は、問題無いな。」
「?クロムさん?」
向かい合う形で佇むのは、祭壇の真正面。の記憶が正しいなら、明日、二人でこの場に並び神官からの洗礼と祝詞を誓い合うのだ。

「ほら、これ。」
「これ………」
ひょい、と渡されたのは白いバラの花束。
――白バラをメインに、淡い空色の小花やカスミ草で彩を添え、純白の絹のリボンをあしらった――

「……ブーケじゃないですか。どうしたんですか、これ。」
「借りてきた。」
式当日までは秘密だと嬉しそうにマリアベルと示し合わせていたリズの声が脳裏に甦り、思わずクロムを凝視してしまう。今クロムによって省略されたのは、恐らく『無断で』であろう。大丈夫なのかと視線で問えば、しっかり彼の目が泳ぐ。

全く、と溜息を吐くにクロムがすまんと答える。後でこっそりブーケを戻すなら、どうしたっての協力が不可欠だからだ。
バレる前に戻りたい――結婚式の当日、義妹やその親友、果ては女官長にまで夫婦揃って説教を喰らったなどと言う不名誉な歴史は生まれてくる我が子の為にも残したくない。
いざとなったら聖王代理並びに聖王代理妃の権力で以て、歴史から抹消してやる――少々権力の使い所を間違えている新米夫婦、の一歩手前の二人は同時に考えた。

「もう少し……ああ、ここでいい。後は少し待ってろ、。」
「はぁ……」
ブーケを互いの手で支え、クロムの言う通り暫し待つ。別に待つことが苦ではないが、やはり何があるのか全く見当の付かない状態で待ち続けると言うのは――少々、覚束ない。

と、いい加減何を待っているのか、が尋ねようとしたその瞬間だった。

頭上から蒼い光が降り注ぎ、手に持った純白のブーケを一瞬で染め上げたのだ。
この世に存在しない筈の、青薔薇に。

「な………!?」
何が、と驚いて頭上をふり仰げば頭上を覆う天井の一角――青い、ステンドグラスが嵌め込まれた小窓から差し込んだ光が、ピンポイントに純白のブーケに降り注いでいるのだと知る。
目を見開いて驚くに苦笑し、ブーケを見てろと囁く。驚くのは分かるが視線が忙しなくクロムとブーケを行ったり来たりしていては、折角の花束が台無しだ。

明日になればクロムもも公人として拘束されることが時間の大半を占め、今までの気ままな王太子やその婚約者と言う立場のように『自分』でいられる時間が著しく制限されるであろう。
無論クロムももそう言った全てを承知の上で互いの手を取り、そして受け入れた。後悔が微塵も無いかと問われれば、否と答えるしかないが――それでも、何度でもこの選択をするのだろう。クロムも――そして、も。

だから、今日。そして、今。
未だクロムがクロムとして居られることを許されている間に、どうしてもこの花束をに見せ――否、渡したかった。
神を信じていないと言い切る自分達に最も相応しくない――そして、これ以上無く相応しい幻の花束を。

「……クロム、さん……」
「いいから。もう、少しだ。」
その言葉通り、青い光はどんどん薄れて行き――否、光源の角度が僅かずつではあるが変わっているのだ。名残惜しげにその光と染められる花束を見ていたの唇から惜しむ音が小さく漏れる。

「………消えちゃいましたね……」
「そうだな。」
目の前で起こったことが信じられなさそうな、未だどこか夢を見ているような眼差しと口調にクロムが苦笑する。彼女の意識の焦点になっているブーケを放り出し、今度は正面からその身体を抱き締めた。
強く、優しく。そして決して逃がさないと、その絶対の意志を込めて。

「……愛してる。」
万感の思いを込めたその一言に知らず涙が溢れ――閉じたの瞳から一筋、頬を伝った。
一言。たったその一言で、それまで身体を支配していた鬱屈な感情が全て溶かされて行く。
何かが解決したわけでは無い。何も解決など、していない。

それなのに、クロムの一言で――たった一言で。その全てに立ち向かうだけの気力が、意志が湧いてくる。
クロムは自分ができることの何と少ないと、そう嘆いたことがあるが――傍に居てくれるだけでいいと、そう思える人に。傍に居てくれるだけで、真っ直ぐ立っていることができる人に出会えたことが、どんなに稀有で幸運なことか。
きっと、彼は知らないのだろう。

クロムがクロムで居てくれるだけで――自分がどんなに幸せなのかを。


「私も……愛しています。」

――貴方を。

そう続く筈の言葉はクロムの口内に消える――重ねられた、唇と唇とによって。


一瞬で消えた幻の花束(ブーケ)。至高の存在のみが創り出せる、神の青薔薇(パーフェクト・ブルー)

                                      

                                       
――花言葉は、神の祝福。





余談ではあるが――

花嫁のブーケが持ち出されたことは、実はかなり早い段階で発覚しており。
室内の甘い残り香によって、犯人は即座に特定された。

その犯人は恋人達がその甘い時間に浸っている間、王妹、その親友、自身の恋人エトセトラ。
早い話が血相を変えた複数の女性達に詰め寄られ、あれっぽちの砂糖菓子(ほうしゅう)じゃ割に合わんとぼやいていたそうな。


 BACK