「―――我が君。」
石造りの部屋、本来の意味で睡眠などを必要としない『それ』は呼びかけられて目を開いた。
未だ慣れぬ視界に焦点を合わせれば、自らの前に額付く痩身の男が一人。
「御瞑想をお邪魔致しまして、誠に申し訳ございません。実は今一度、御身にお引き合わせしたい者がおりまして……」
「……何者か。」
「この地に
「……よい。謁見の間か。」
「御意に。」
言って、それは緩慢な動きで深く腰掛けていた場から立ち上がった。その拍子にふ、と先程まで無かったはずのものが儚げに震える。
「これは、大変御無礼を。傍仕えの者が勝手を……」
痩身の男もそれの目に留まったものに気付いたのだろう。端の者の失態に慌てた様子で頭を下げるが、それは全く気にした風でも無く視界を留めている。
「……構わぬ。つまらぬことで、我に捧げられし血肉を減らすことこそ相成らん。そう、よく心に留め置け。」
言ってそれは踵を返す。無言で付き従う男が何かを言いかけたが、この男の位相であっても本来であればそれに声をかけることなど許されていないのだ。ましてや意見を返すことなど。
「……御意にございます、我が君。」
男のことなど眼中に無いと足を進めるそれの脳裏に、供え置いて置いて行った傍仕えの娘の紺碧の長い髪が――
何故か、過ったのであった。
「……まぁ。本当にお目に掛かれる日が来るなんて。」
痩身の男を伴い訪れた謁見の間――常人であれば一刻も持たぬであろう、空気の支配する場でそれを出迎えたのはこの場にそぐわぬおっとりとした女の声であった。
「控えい、サーニャ。貴様如きが許しも無く頭を上げ、声を掛けるなど……」
「まぁ、そうは仰いますけれど。生憎私は彼の方を崇める者ではございませんので。」
「サーニャ!貴様……っ!!」
「よい。……驚いたな、地鎮の一族の者か。」
「御意に。お初にお目にかかります。地鎮の一族、族長サーニャと申します。以後、お見知りおきを。」
女は嫣然と微笑むと、何の恐れも無くそう呟いたのだった。
「……我が同胞と同じ運命を辿ったものと、今日までは思っていたが……」
「私共が仕えるは地の竜の方々。――例え母なる大地と同化し還られたとしても、存在そのものが消えたわけではございませんのよ。御姿は無くとも、その偉大なる御霊が大地と共に永久に生き続ける限り――彼らを祀る祭祀たる我々もまた後世に命と術を繋げる義務がございます。」
「よく言うた。だがそなたらと対を為す一族は女一人を残し、他は全て潰えたぞ。」
「それもまた宿命……肉体を捨て、魂のみとなった真竜の一族にもう祭祀は要らぬとの思し召しやもしれません。」
「要らぬ、か……」
石の玉座に身体を沈めたそれに、頭を上げたままサーニャは続ける。年齢を誰何させない妙齢の彼女に何を思ったのか、それはぱちりと右手を小さく鳴らした。すると瞬く間にサーニャの傍らに彼の人が腰を落ち着ける物に酷似したものが地中から競り上がる。
「御配慮、痛み入ります。」
「よい。――長い話にはならんだろうがな。」
「左様でございますわね。地竜であったことを捨て、邪竜と御姿を変えられてしまったあなた様を……我ら一族は、神と崇めることは許されませぬ故。」
「サーニャ!!貴様……っ!!」
「黙りおれ!!貴様何の権があって我が言を遮るかっ!?」
思ぬ方向からの叱責に身を縮めた痩身の男がそのようなことは、と平身するが激高したそれが聞き入れるはずも無く。
下がれと言う冷たい言葉に食い下がる男に、再度恫喝を込めた声を投げかける。
「下がれ!
「……はっ……」
痩身の男は主の言葉には頭を下げたが、悠々と足を組む
「――とても稀有で、歪なご復活をなされましたのね。先の時代に生きられた御方。」
「……分かるか。」
「分かります。憑代とされた娘御の……その罅割れた魂を抱かれ、肉体を乗っ取られた。どんな御無体をなさいましたの、星震の一族最後の娘御に。」
「……絶望を与えてやっただけだ。己が魂を自らの手で砕くような、深淵の絶望をな。」
表情を変えず語るそれに、サーニャが痛ましそうに瞳を伏せる。笑えば花が綻ぶような美しい造作の娘の顔には、何の感情も浮かんではいない。それどころか――仮面のように無表情が張り付いてしまっている。
「……哀れな事を。ここまで魂が傷ついてしまったら、彼女はもう死ぬことすらできない。」
「いわば死んだも同然の
「同然であっても、その生は終わらぬのです。不死に近いあなた方と違い、我々は限られた短い刻を生きる身。死ぬことすらできず、苦痛を抱えたまま永遠に近い刻を生きる――それを苦行と言わずして何と言うのでしょう。」
冷たい石造りの椅子から身を起こし、一瞬でそれの傍らに転移した女魔術師は感情を表すことなく淡々と言葉を綴る
「――ああ。ほら、やはり。星震の血を継ぐだけあって、とても――哀しいくらいに毅い娘御(かた)。例え己の命を失おうとも――その魂の裡に抱いた記憶までは、何一つとして失ってはおられませんのね。……御身の母御前と従者と過ごした、何も知らないで居られた幸せな日々、その二人を喪い
「貴様っ!!」
鋭い言葉と共に、触れていた指先がそれによって振り払われる。初めてサーニャに向けたのは、先程痩身の男に見せたものとは別の――怒り。
「………人間とは。母とは。強い生き物でございましょう?自我を自ら砕き、肉体を乗っ取られても――何一つ。自身の大切なものは何一つ。あなた様に渡してはいない。」
振り払われた姿勢そのままに静かに言葉を紡げば、射殺さんばかりの視線と重圧を向けられる。人間の心臓など簡単に止められそうに強い視線も、目の前の女呪術師にとっては柳に風も同然のようだった。
地に潜む狂信者達から神と崇められ、その咆哮は大地をも砕くとされた邪竜が不機嫌そうに唸る。
「――何を見た。」
「色々と、でございますわ。記憶として残っておらずとも、魂は全てを覚えています。粉々に罅割れ身体と共に消えるはずだった彼女の魂は、あなた様の魂に繋ぎ止められ融合し、歪ながらも再び一つの魂と相成った。……そうそう、このような記憶も見えましてよ。光溢れる庭で藍色の長い髪をした少女と、濃茶の髪をした男児。緑色の髪の少女と……燃えるような赤い髪の少女が。泥だらけになりながら、可憐な花弁を持つ淡い色合いの花を手に駆け込んでくる様も。……ふふ。彼女らの背後で誰ぞの悲鳴と倒れる音も聞こえましたが――」
「――黙れっ!!」
一閃、振り上げられた腕が闇色の軌跡を生み空間を切り裂いた。逃げ遅れた漆黒の長い髪が二、三本宙を舞う。
「我が君っ!!」
流石に室内の異変に気付いたのだろう。外に居た筈の痩身の男が、数名の手勢を引き連れ駆け込んできた。激高し立ち上がっていたそれの姿に、色めき立って各々の得物を掲げる。
「――止めい。」
「は!?し、しかし……!!」
「―――
サーニャごと階下を睥睨し、それは踵を返す。――謁見は終了、との意だろう。
全てを拒絶する後姿を見、女呪術師もまたその背に一つ頭を下げた。無言のまま緞帳の奥へと歩みを進めるそれを見送り、完全にその姿が消えるとふぅ、と彼女は息を吐く。
「サーニャ!貴様!!あの御方に何を……!!」
「黙りゃ。己が妻子を自らの野望の駒にする下種が触れてよい
胸倉を掴もうとした男を片腕一つで牽制すると、その男の部下をも一喝する。気圧され一歩後ずさった彼らの前を、サーニャは悠然と歩き出した。
「――良いのか、サーニャ。貴様の言う、自らの子とやらは。今、あの男の麾下にあるのだろう。」
「……それで妾を脅しているつもりかえ?確かに我が娘は国に仕えておるがの。」
背後からかかった昏い笑いを含んだ言葉に、足を止めしかし振り返ることなくサーニャは続ける。
「あの娘には、生きる為の術を全て叩き込んである。もし今居る場が己の居るべき場でないと他ならぬあの娘が判断したのなら、あの娘は躊躇なくその場へ赴くであろうよ。」
「な………!?」
「何を驚く?あの娘は妾では無い。この国、一族の在り方一つ取っても同じ考えを踏襲するわけが無いだろう。あの娘にはあの娘の生きる道がある。それの邪魔になるなら、重荷にしかならぬ
「あの御方を裏切るか、サーニャ……!!」
「……ほんに頭の悪い男よのぉ。我らが使えるは地竜の一族、その在り様を著しく損ねたものは我らが頭を下げるに能わずと申しておろうが。そして他ならぬ彼の方がそれをお認めになられた。――そんなことも分からぬから、妻君に愛想を尽かされ挙句子供を連れて逃げられるのだ。」
「サーニャ、貴様ぁ……っ!!」
激高した痩身の男が禍々しい呪詛と共に黒い稲光をサーニャへと向けたが、それは標的を貫くことなく誰も居ない空間を舐めただけで。
「ク………ッ!!」
『そうそう、忘れていた。私から彼の方への献上の品だ――渡しておいておくれ。この言葉と一緒にな。』
たった一瞬で転移魔方陣を紡いだ女呪術師の消えた場に落ちていたのは、一輪の――
スイートピー、花言葉は門出