ひらひら……ひらひら……
「……何だこれ。」
その日、野営地の見回りをもう間もなく終えようとしたクロムの前を、何やら白い物体が横切った。
思わず反射的に空中で掴んでしまったものの、握った後で何だと訝しむ気持ちが湧いてくる。
雪が舞うにはまだ早い時期だし、かと言って綿毛のような頼りない浮遊感も無かった。
では、何か?
訝しみながら掴んだ右手をゆっくり開き、その中を覗き込む。
果たして――
「……花弁?」
開いた掌の中には未だ瑞々しい白い花弁が一片、鎮座していたのだった。
「……すき……きらい……」
「スミア?」
自分の他は誰も居ない筈の場所で急に声を掛けられれば、誰だって驚くだろう。
しかも、それがつい先程まで自分の思考の大半を占めていた相手ともなれば尚更。
「クククククロム様!?」
「うぉっ!?そ、そうだが!?」
泉のほとりで一人物思いに耽っていたスミアは、いきなり背後から掛けられた声に飛び上がりその声の主の正体に気付くと更に驚いて目を見開いた。
「ど、どどどうなさったんですか!?」
「あ。あぁ、いや。花弁が流れてきたんで、少し気になってな。」
「花弁……あ!」
そう、風に乗って流れてきたのは白く小さな花弁で。花の種類に疎いクロムでさえも見覚えのある――と言うか、乏しい知識の中でも答えられるくらいには見知ったものだったのだ。
その答えに原因に思い至ったスミアは、慌てて手に持っていたものを背後に隠す。別に疚しいことでは無いが、何とは無しに知られるのは恥ずかしかった。
「……マーガレット、だろう。これ。」
「あ、は、はい。偶然、見つけて……」
野営地の近くにあった小さな泉と、そのほとりに群生する白く小さな花。
うららかな日差しに誘われるままそこに腰を下ろし、何とは無しに手近にあったそれを一輪摘んで。いつの間にか心に浮かんだ淡い想いを、花弁ごと風に乗せていたのだった。
「そうか……」
納得したように頷くクロムの眼下には、スミアの趣味の産物が散っていた。彼女がどのくらいここに居たのかは分からないが、その周囲に横たわるかなりの数の花の名残に僅かにだが眉を寄せる。
「……何か、悩み事でもあるのか?」
「え!?い、いいえ!あの、いえ!ある……と、言うか……その……」
まさか正に悩みの種であるクロムに面と向かってあるとは言えず、しどろもどろに言葉を濁せばクロムも自分の発言が私事に突っ込んだことであるのを察したのだろう。座ったままのスミアの頭を二、三度軽く叩いてそれ以上は追及しなかった。
同じ自警団に属する者として、当たり障りのない言葉を選んで紡ぐ。
「そうか。それなら、いいんだが。何か悩み事があるなら、一人で抱え込むなよ?俺……は、あまり向いてないかもしれんが相談事ならいつでも乗るし。……いや、俺よりもの方がいいか。あいつの方が多分的確で明確な答えを出してくれる。」
「あ……は、はい……」
クロムが先頃拾ってきた記憶の無いとその軍師は、役柄故か人の話を聞き又その疑問や悩みに関して的確な答えを出す術に長けていた。最もその軍師曰く、自分はただ聞いて時折質問を返しているだけで特に変わったことはしていないと言うのだが。
そんなはずはない、と目下この自警団内で最も彼女に話を持ち込むことが多いクロムが先日そう反論したところ、彼女は肩を竦めたままこう言ったのだ。
結局答えは己の中にしか無く、自分はそれを探し出す為に少しの手助けをしているのに過ぎないのだと。
決して押しつけがましいわけでも無く、まして突き放したわけでも無い。当たり前のようにそう言ってのけた彼女に、随分と肩の力を抜いてもらったことは記憶に新しい。
その彼女ならスミアの悩みとやらも、解決――例え、するまでには至らずとも――するのでは無いかと思ったのだが。少なくとも、ここで環境破壊に勤しむよりかは余程建設的に思えた。
彼女の趣味が花占いだと言うことは人伝てに聞いたことがあったし、そのことをどうこう言うつもりも無い。だがこう幾輪も摘み取られ、花弁を千切られた小さな白い花を見ているともっと別の解決案を模索した方がいいと思ってしまったのだ。
……多分、きっと。それが、白いマーガレットの花だったから、余計にそう思ったのだろう。
まさか、思い人の口から別の女性の名前が出るとは思わなかった――と言うか。
スミアの悩みの正にもう一つの種である、に相談しろと薦められるとは思いたくなかった。因りにも因って彼女の思い人であるクロムその人から。
「そ……そうです、ね。そう……します。」
「ああ、もし何だったら時間を取るように言っておくぞ。」
「え!?い、いえ!クロム様のお手を煩わせるなんて、そんな……わ、私が、さんの所へ伺いますから……」
「ぅお!?そ、そうか。それならそれで構わないが……」
急に立ち上がって首を横に振るスミアに、一歩後ろに跳び退きながらクロムが頷く。まぁ確かに、男である自分の口から悩みがあるようだと相談を持ちかけるよりは、スミア自身が直接伝えた方がいいかもしれない。年頃の女性故、デリケートな悩みもあるだろう。
と、そこでふとクロムは思い立つ。せめて、と思ったのは否定しない。
「なぁ、スミア。ここにある花、少し俺が貰っても構わないか?」
「え?あ、は、はい。それは……でも、どうされるんですか?」
元々野生に咲いている花だ。自分がたまたま見つけただけであって、それは全く問題無い。恐らくクロムは自分が花占いをしていたからこそ、尋ねてきたのだろうが。
「ああ。少しな……に持って行ってやろうと思ってな。」
「え……?」
考えもしなかった答えと、考えたくなかった
「あいつの天幕……こう、何と言うか。殺風景でな。必要最低限の物しか置いて無くて……勿論、今は行軍の最中だから当然と言えば当然なんだが。花の一つでも活けてあれば、多少は変わるだろう?」
「そ……そう、ですね……」
言いながら早くも花を摘み始めるクロム。スミアが手慰みに摘んだ花以外にもまだ大分残っており、僅かの間で白い可憐な花束がクロムの手によって作られた。腰に巻き付けてある小ぶりのポーチの中から適当な紐を出して茎を縛り、よし、と満足げに頷く。
「クロム様……」
「ん?あぁ、すまん。邪魔をした。それより、スミア。野営地からそう離れていないとは言え、あまり一人でいるなよ?何が起こるか分からんからな。」
「は、はい……」
一人になりたい時もあるだろうが、それでなくとも物騒なご時世だ。辺りなら有無を言わさず相手を黒焦げにするか、のして簀巻きにして根城(山賊・野盗であれば)を聞き出し貯め込んでいる財宝の一部を嬉々として分捕りに行くだろうが。
あ、絶対やると思わず漏れた苦笑を何とか噛み殺しながら、スミアの肩を一つ叩いて踵を返す。
手に持ったのは小さな白い花束。早く活けてやらないと萎れてしまう。それでは救出した意味が無くなってしまうではないか。
「じゃあ、後でな。スミア。」
少々気が急いて足早になっていたクロムは気付かなかった。
自分を見送るスミアの目に―― 一粒、涙が光っていたことに。
「マーガレットですか。」
に与えられている天幕に足を踏み入れるなり、手に持った小さな花束を言い当てられた。ああ、と小さく頷き花瓶の有無を尋ねれば難しい表情であると思います?と質問を質問で返された。
「確かにな……」
「でも、このままじゃ萎れちゃいますし……とりあえず。」
そう言って古びたトランクから出してきたのは、彼女が常使用している金属製のマグカップだった。水を汲み、クロムからマーガレットの花束を受け取る。
「可愛い。……いいんですか、クロムさん?」
「ん?ああ。殺風景だからな、花の一つでも飾れば多少は違うだろ。」
「……いえ、そうじゃ……何でも。それでは、頂きます。ありがとうございます、クロムさん。」
「あ、ああ。」
仮にも花束なら何も殺風景を理由に渡すなと言いたかったのだが――それに相手も――クロムの言うことも最もだったので、それ以上の言及は避けた。まぁあれだ、花を貰って怒る女はまず居ないということで。
クロムの手から花束を受け取り、嬉しそうに微笑んだ彼女の姿にどきりと心臓が跳ねた。そのまま安定の悪い不格好な花束を、本来の用途とはかけ離れた器に何とか見栄良く活けようとあれこれ細かい動作を施す後ろ姿にじっと見入る。
「……と。これで、いかがでしょう?」
本来であれば剣山がなければ真っ直ぐに立たない弱々しい茎を、どんな手法でか真っ直ぐに立たせたは持ってきたクロムにお披露目をする。摘みたての白く小さな花が、凛々しく可憐にクロムに微笑んでいた。
「ああ。いいな。」
「でも急にどうされたんです?私の天幕が殺風景なのは、今に始まったことじゃありませんし……」
流浪の性質が骨まで染み込んでいるせいか、は不要なものを身の回りに置かない。と、言うか。
必要最低限のものしか、持っていないのだ。リズやマリアベルなどはそれを非常に嘆いているが、にとってはそれが普通だったし――否、それが普通の生活しか送ってこなかったのだろう。
いつ何時、その身に何があっても。――立つ鳥が、その後を濁さぬように。
「ん……ま。ちょっと、な。――生まれた以外の、なにものにも成り得ないと昔、お前が言っていたのを思い出して。」
「はぁ………」
記憶を辿れば確かに言った記憶があったが、それがどうこの花束に繋がるのか流石のにも分からなかった。
目の前のクロムの様子から何となく、深く聞き出そうとは思わなかったが。
歯切れの悪いクロムにそれ以上は何も言わず、とりあえず花を置いた卓の椅子を勧める。その間に手早くお茶の支度を始め、別の話題を振った。
「それにしてもちょっと意外でした。」
「何がだ?」
「クロムさんが花の名前を知っていたことに。」
「お前な……」
俺だって花の名前くらい知っているぞ、と反論すれば後はバラとかユリでしょう?と返されて、う、と言葉に詰まる。
確かに目立って誰でも知っていそうな種類の名前しか、咄嗟に思いつかないが。
「マーガレットは、何と言うか……あまり、目に止まる花でもないでしょう。一輪だけですと、特に。」
「まぁ、確かにな……でも、この花はよく覚えているんだ。姉さんが私庭に植えていた花だからな。」
「エメリナ様が。」
ああ、と頷くクロムは目の前の花を通して、彼の場所を見ているのか懐かしそうに眼を細めて続ける。
「子供の頃……あれは、まだ。両親も存命で、姉さんもまだ王位を継いでいない頃の話だ。相手は詳しく知らないが姉さんが誰かから、一株マーガレットの花を贈られたらしい。とても嬉しそうで……王宮の一角の、姉さんに与えられていた庭に植え直したんだ。俺と、姉さんと……リズの三人で。」
「そうだったんですか。」
そう言えば(主に密談の為に)何度か招かれたことのある彼女のプライベード・ガーデンには、この花が群生していたなと記憶の淵を掘り起こす。
「母が……その後、くらいか。亡くなって。その前に一度だけ、本当にたった一度。家族五人だけで、その植えた花を見たことがあってな……」
心ここにあらずなクロムの様子に、振り返っていたが動きを止めた。暫し考えるも熾していた火を、
「……その後はお前も知っての通りだ。母が亡くなり、戦争が起こって。父が……死んで。姉さんが、王位を継いだ。国も俺達も……随分変わってしまったが。その花は、毎年咲くんだ。姉さんの庭で、毎年。変わらず。」
ともすれば幻だったかと疑いたくなってしまうような、過去の幸せな記憶が本当にあったことだと証明するかのように。
「だからかな……この花には思い入れがあって。少し……大人気なかったかもしれないが。」
「…………」
急に反省するようなことを呟くクロムに、しかしは何も言わず。いつの間にか、硬く握りしめていたクロムの手に自分の手をそっと重ねた。
「マーガレットは毅い花ですから。」
困ったように微笑むの、紡ぐ言葉に込められた真意に気付く。背後に立ったまま慰めるようにその拳を何度も撫でると、瞳を閉じたクロムがその身体を預けてきた。
「……すまん。お前をだしにした。」
「構いませんよ。さっきも言ったでしょう?花を贈られて、怒る女性はそうは居ません。」
クロムの拳を撫でる右手はいつの間にか彼に捕えられており、代わりに預けられた頭を――濃紺の髪を。左手で繰り返し梳く。
まるで幼子を宥めるかのような仕草に、何とも言えぬ面映ゆさはあったが結局されるままを選んだ。
背後にある暖かさが、自分にとって何物にも代えがたいと気付いたのはいつだったか。
――もう少し。もう少しだけ。この温い関係を保っていたい。自分の為に……彼女の、為に。
「……なぁ、。お前、マーガレットの花言葉、知っているか?」
「花言葉……そういったものがあるのは知ってますが、生憎と個々のものまでは。精々薬効くらいですね。」
「…………」
そう言えばこいつはこういう女だったと脱力するも、だがそれがあまりに彼女らしくて思わず笑いが漏れてしまった。
途端に髪を梳く手が止まり、むににと左頬が伸びる感触が。
「ほい。(おい。)」
「どーせ私は女らしくありませんよーだ。」
彼女にしては珍しい子供っぽい拗ね方に更に笑いが込み上げてきたが、今はそれより止まった手の方が重要だった。
元よりそんなに力の入っていない手は簡単に外れ、先程と同じ位置に戻す。閉じていた目を開き、上目遣いの視線を送れば全く、との呟きと共にこそばゆい感触が再び生まれる。――身体にも、心にも。
「……マーガレットに限らず、花言葉は諸説色々ある。色によっても違うから、定説があるわけでは無いんだが。」
「それでこその花束、ですね。贈るのは花と花言葉。――そして。自分の、こころ。」
「ああ……」
クロムの記憶に残る幸せの象徴が、どんな言葉と心を籠められて姉に送られたかは分からない。姉に聞いても静かに微笑むだけで、無論彼女が知っていたとも限らないのだが。
だが、今となって何となく思うのだ。
姉は――エメリナは。恐らく知っていた。知っていて――きっとあの庭に植えたのだろう。相手の心を。
そして――自らの、こころを。
確かめる術はもう、永遠に無くなってしまったけれど。
だから、自分もこの花に託した。言葉にするのはまだ、照れくさいから。
「なぁ、。白いマーガレットの花言葉はな………」
白いマーガレットの花言葉――心に秘めた、愛。