一方その、裏側で。

(タタタタタタヌキだ、タヌキになれ!タヌキになるんだ、クロム!!)

と、傍から見れば阿呆な、が本人にとっては至極切実でまっとうな事を念じている男が居た。

イーリス聖王国王弟、クロム。その人である。

彼の軍師が天幕を去った後、だがやはり彼女が居なければ軍議が進まないと早々にお開きになったまでは良かった。
深夜に近い時刻、一人で水浴びに行くと言っていたの事が気に掛かり、やはり念の為の護衛は必要だろうとフレデリクの目を掻い潜って泉に近づいたまでも良かった。

―――人目を気にすることなく、裸身になったのその背中を見るまでは。

咄嗟に茂みに身を隠し、その背後で跳ねる水音に生唾を飲み込む。見つかったなら、問答無用で消し炭にされるだろう。
そんな末代までの語り草になりそうな死に方はまっぴら御免である。

とにかく今は、周囲と同化しこの魔の時間が過ぎ去るのをただただ待つのみで――

そして、タヌキになるんだと阿呆なことを念じかけた矢先、不思議な旋律がクロムの耳朶を打ったのだった。
誰がなどとは思うまでも無い、正面から月と向き合いこちらに無防備な背中を晒している彼女が発生源だろう。

聞く者を虜にする、魔性の歌声――だがそう呼ぶにはあまりにも清廉な旋律。二律背反するその歌声に呼応して、彼女の周囲に水飛沫がいくつも舞う。クロムの目には見えないが、あれが恐らく水の精霊達なのだろう。



月の陰影に栄える横顔、傷一つない白い背中。心を捕える歌声に――クロムは、現状も忘れて魅入っていたのだった。

切り取られた一枚の絵画の様なその光景が、小さなくしゃみによって遮られるまで。



とある軍師の温泉学(バルネロジー)3  一方、その裏で