視界を覆う白い靄に彼は目を細めた。

その遮蔽の向こう、深い森と同化するように身を竦めた懐かしい姿を瞳に焼き付けんばかりに――


「……おかえりなさい」
そう声を掛けられて、彼ははっと我に返った。ほんの一瞬前まで冷たい外気に曝されていたはずが、一転薄く紫煙漂う室内に立っている。
否、戻ってきたと言うのがこの場合正しいのか。

「ああ」
軽く頭を振って僅かに残っていた違和感を払う。それから掛けられた声の主の前に足を進めた。

「……どう?会えた?」
尋ねるのは陽光を紡いだような金糸の髪と、高い空の色をそのまま閉じ込めたような蒼の瞳の女性。暗い色の野暮ったい男物をその身に纏い、だがそのはっとするような美貌は健在――僅かに曇ってはしたが。

「……美しい娘に育っていた」
最低限のことしか口にしない男に対して、慣れているのだろう彼女はそうとだけ相槌を打った。ただ答えそのものは安心するに足るものだったのだろう。その短いやりとりでも十分、当初の憂いは色を潜めていたので。

「髪と瞳の色こそ違え、今のお前に生き写しだった……あの跳ねっ返り具合は誰に似たのかは知らんが」
「あらまぁ」
女の驚きは話の内容にか、男の言葉が続いたことにか。それともその両方か。彼女は唇の端に僅かに笑みを履くと、でも、と続ける。

「……元気でいてくれるのなら、それで十分よ。それで、彼にも会えたの?」
「……まだまだ頼りない青二才だ。あれもどこが良いのか、正直理解に苦しむが……」
辛辣な評価に、今度こそ彼女の唇から笑いが漏れる。苦虫を噛み潰したような男の表情に、堪えきれないとばかりに。

「仕方ないわ。まだ若いんだし……彼も、勿論あの子も」
鋭い目付きで笑い声を咎める男に一層の笑いを掻き立てられたが、話が続かないとばかりに極力それを飲み込もうと唇を結ぶ。最も小さく震える肩ばかりは消しようが無かったのだけれど。

「……本当によかったのか?」
と、真剣な声に尋ねられて彼女は今度こそ笑いを飲み込んだ。出発前にも散々話し合った、答えの決まっている問いを。

「……あまり私を買い被らないで。遠目からでも会ってしまったら、自制ができるとは思えない。あの子の口から……ただ、一言。たった一言の言葉を聞きたいと願う勝手な心を、止める自信なんて無いわ」
今もその問いかけが悪意から来るものではなく自らを慮った故であることを百も承知だからこそ、こうして冷静を装えるのだから。

「……でもね。そんなことをしたら、他ならぬあの子に一番害が降りかかるわ。私はあの子に触れられた時点で、言葉を交わせただけで十分。その瞬間に絶命したって悔いは無い……でも、あの子は違う。まだ自分の時を十分に生きていないあの子には、悔いでは済まないでしょう」
ましてや、と言葉を切った女に男は無言で頷いた。

「……すまん」
「いいえ。貴方が私を思って言ってくれているのは十分分かっているから……それに、この苦しみは私に与えられた正当な罰。私が犯した罪への咎ですもの。甘んじて受ける覚悟は、とうの昔にできているわ」
犯した罪に対して見合わぬ軽い贖罪であることは自分自身が一番良く知っている。だがその罰さえも最愛の者の幸せの糧になるのなら、喜んでこの身に享受しよう。誰に知られずとも、その命が永らえ穏やかな時を送れることだけをただただ祈って。

「……貴方こそ、本当にいいの?まだ、今なら間に合う。このまま私と居ても、先に有るのは滅びの未来だけ。でも……」
「それこそ愚問だ。どうせ一族最後のこの命、俺の好きに使わせてもらう。愛した女と、その願いの為に果てることができるなら本望だ」
「……頑固な(ヒト)
「おまえもな」
頬に触れる褐色の手に寄りかかり、目を伏せる。口でああは言ったが、心強いのは確かだ。結果が同じにしても、万に一つの光明を見出だせるかもしれない。いや、だが。

「……そのように気に病むな。お前が言うように、先の未来が罪の因果だと言うのなら、座視した俺とて同罪――否、分かっていた分だけ罪は重い。その報いが己の命だと言うなら、それこそ甘んじて受ける。何の罪もあろうはずの無い、あの娘の未来(さき)の為に――」
だから泣くな、と武骨な指が涙を拭う。精悍な顔立ちの中、一つしか無い瞳が困ったように細められた。
腰の辺りまである見事な銀髪が、暖炉の炎に煽られ揺らぎを起こした。まるで今の彼の心境、そのもののように。

「……ごめんなさい。ありがとう……」
巻き込んでしまって、傍に居てくれて。溢れる涙は堰を切ったように止まらない。狼狽する男の耳に、か細い声が届いた。視線を下に落とせばそれまで大人しく眠っていた小さな命がぱちりと目を開け、抱擁を強請っているところで。

「……ただ、もう少し。男を見る目は養わせんとな……」
呟かれた独り言に、う?と分かっているんだかいないんだかな反応が返る。いや、絶対に分かっていないのだが。
漆黒の瞳が更に丸くなり、伸ばされた両腕が更なる求めに揺れる。

その請願に負けた手が頬から離れ、暖かな重みへと向けられた。おねだりが叶いそうで上機嫌な赤子は、あーあーとの言葉にならぬ音で催促をする。
と、暖炉の炎から生じた照り返しが揺れる紅葉の手をくっきりと浮き上がらせた。

――その右手に刻まれている、彼女を縛る刻印と共に。


抱き上げた身体は未だ幼く、また稚い。身に刻まれた過酷な運命に抗うには哀れな程に。

それでもただ、今は。

腕に抱いた赤子の、垣間見た娘の行く末を。
その生に幸多からんことを、祈らずには居られなかった。






 過去からの(おとな)い人