ホワイトデー・アソート〜赤司征十郎の場合〜
「………何であたしはこんな所に居るんだろう………」
鹿威しのカッ…コンッという高い音が、彼女のその呟きに応えるかのように音を震わせた。
「湯豆腐を食べに来たんだろう。……ほら、もういいぞ。」
「あ、ありがとう。――じゃなくてね!?」
出汁の張られた鍋から手ずから掬い上げた湯豆腐の入った器をに渡したのは、赤司征十郎――洛山高校男子バスケットボール部一年にして主将、その人である。
「授業が半日で終わった貴重な土曜日の、その放課後に!いきなり赤司家のリムジンに拉致されて、東京から京都へ連れてこられたと思ったら目の前に湯豆腐出されて!元々征ちゃんの思考を辿るなんて面倒なことはするつもりないけど一体何考えてるわけと言わせてもらってもバチ当たんないよね!?」
「懐石にした方がよかったか?」
「そうじゃなくてね!?」
ああああ相変わらず話が通じない〜!!と頭を(内心だけで)抱えながら、は手渡された小鉢を持ち上げた。湯豆腐の入った、器はじっと持つには少々熱い。
「……ま、いいや。とにかく話は食べてからにしよう。いただきます、征ちゃん。」
「ああ。」
文句を言いながらも彼女の切り替えは存外早い。それが食に関することであれば特に顕著であることを、知らぬ赤司では無い。
若干16歳でありながら、老舗料亭で湯豆腐をつつく――傍から見たら一種異様な光景も、彼らにとってはつい先頃までは日常的な光景であったのだ。
東京と京都。その物理的な距離が、二人の間に生じるまでは。
「おいしいねぇ……この湯葉あんかけ、サイコー。」
「そうか。こっちの九条葱と鶏のつくねもいけるぞ。」
「ありがと、征ちゃん。あ、銀杏。征ちゃん、茶碗蒸しの中に銀杏入ってるよ。はいあーん。」
「……美味い。」
「好きだもんねぇ、征ちゃん。銀杏。」
現チームメイトは勿論、元チームメイトらが見たら目を剥くことだろう。中には気を失ってひっくり返る者もいるかもしれない。
諄い様だが彼と彼女においては、特別な光景では無いのだ。ここ1年――物理的な距離が生じてしまってからは、とんと無くなってしまったが同じ食卓を囲み差し向かいで食事をとることなど。
時折他愛無い会話を挟みながら、過ごす何の変哲も無い時間は。変哲が無いからこそ、今の二人にとって掛け替えのない時間であった。
「ふーーっ……お腹一杯。御馳走様でした。」
「御粗末様でした。」
招待した赤司の締めの言葉に、は持っていた湯呑を置いた。同じように湯呑を卓に置いた赤司に対し、彼女はさて、と中断させていた疑問を再び口にする。
「で?」
「……で?とは?」
「質問に質問で返さないでよね。さっきの質問。何だって、あたしはここに連れてこられたの?記憶が確かなら、約一ヶ月前も似たようなことがあったと思うんだけど。」
「そうだね。」
そうだね、ってお前なぁ……と眉間に皺を寄せれば、冗談だよと大して表情を変えずに返す。そしてああそうだと、脇から何やら色々詰まった紙袋をに手渡した。
「?何これ?」
「玲央達から預かってきた。お前の言う1ヶ月前の礼、だそうだ。」
「おぉ!?」
受け取ったは驚きながらも嬉しそうに、紙袋に詰められた物を取り出す。
「あ、これ玲央姉からー祇園の月でしょ。コタ先輩は……はは、らしいね。ガムボトルだ。えーきち先輩は、え?牛丼屋の割引券でーうわ。白金先生もくれてる。抹茶のパウンドケーキ―!」
次から次へと中身を取り出しては子供のようにはしゃぐ彼女に、赤司は呆れと慈しみの混じった表情を向けている。
「1ヶ月前っつーと、バレンタインデーの?でも、あれって征ちゃんに拉致されただけだから……」
「それでもの作った菓子の相伴に預かったことは事実だからな。かなり前から玲央に考えろと脅されていたぞ。」
「はは、玲央姉からのメールの正体はこれか。うん、嬉しい。後でお礼のメール送っておくね。」
「ああ、そうしてやってくれ。」
今から約1ヶ月前、はやはり授業が半日で終わった貴重な土曜日の、その放課後に赤司家のリムジンに拉致された。あれよあれよと東京から車が走ること約5時間、連れてこられたのは私立洛山高校――の、家庭科室で。
「いきなり連れてこられて『オペラ』作れ、って。全く征ちゃんは何時まで経っても征ちゃんだよねー」
「何だその全くの脈絡の無さは。」
「良くも悪くも変わってないってこと。喜んでもらえたから、あたしとしてはそれで十分だったのにな。」
何なんだと目を白黒させたの前で、昔馴染のこの男は材料と器具はこちらで揃えておいたから心置きなく作れ足りないものがあったら先に言え部員に買ってこさせる、などと公私混同上等なことをのたまい。
怒りを通り越して呆れてしまった彼女は、笑いを噛み殺しながら彼の目の前で希望通りやたらめったら手のかかるバレンタインデーの貢物を完成させたのだ。
そして要望した本人は勿論の事、男子運動部(マネージャーは同性)と言う潤いに欠ける環境の中、ちまこい女子高生がちょこまかと動く様を微笑ましく見ていた洛山高校男子バスケットボール部員並びに顧問にもほろ苦いチョコレートケーキを振る舞ったのである。
それが、約1ヶ月前の出来事。
「ってことは、今日のこれはホワイトデー?」
「漸く気付いたか。」
「うん。渡し方に色々問題あるって、征ちゃんもそろそろ気付こうか。」
偉そうな態度の赤司には怒ることも無く、仕方ないとばかりに苦笑する。この色々な意味で常識のネジがぶっ飛んでいる昔馴染みを、だが彼女は昔からそうやって寛容してきたのだ。
「まあ、これはついでだな。本題はこれだ。」
と、言って赤司が取り出してきたのは一通の封筒と小さな箱。封筒はどこにでも売っていそうなシンプルなものだが、箱の方――ベルベット地でできた正四立方体の箱は――の記憶が間違いでなければ、リング・ケースと言う奴ではなかろうか。
「えーと、征ちゃん?」
「開けてみろ。」
開けてみろと言われましてもねぇ……と思いつつも、パンドラの箱しかり開けてみなければ中身が何なのか分からない訳で。
――開けてみてから後悔したとしても遅い、と言う点でも。
「……………あかしせいじゅうろうくん。」
「何だ。」
「………………」
何だじゃねーよ何だじゃむしろあたしのセリフだわかってんのかコラ、と喉元まで出かかったの目の前にあるのは『婚姻届』と書かれた一枚の薄い紙っぺらと深紅の台座に納まった――キラキラと輝く多分どえらいお値段の石っころの指輪が一つ。
「……なにこれ。」
「見ての通りだが?」
見ての通りですかそうですか。もう一度言おう。大事なことだからもう一度。
――この色々な意味で常識のネジがぶっ飛んでいる昔馴染みの行動を、だがは昔から仕方無いと寛容してきた自負と経歴がある。
だがそれには大体の場合、と前置きが付くわけで。
「ちょっとあんた何考えてんの!?」
どかん、と爆発することがないわけでは。決して、無い。
「見ての通りとしか言えないがな。婚姻届に婚約指輪。結婚を申し込むのに、離婚届や死亡届を持ってきたわけでは無いんだから怒られる謂れは無いぞ。」
ああ、そのうち出生届は必要になるかと呟く赤司にはわなわなと震えるだけだ。
「だっ……だーかーらっ!!なんでっ!今っ!ホワイトデーの話からっ!結婚の話になるんだっつーの!大体そーゆーのはプロポーズの後に渡すもんでしょう!?」
「求婚ならもう済ませてあるだろう、5歳の時に。」
「あああああっ!?そんな遥か彼方記憶の先の過去の話しっかり覚えてるなよやな5歳児だなおいっ!?」
「何だは忘れたのか?」
「忘れてないわよっ!って、あっ!」
しまった、と咄嗟に口を塞ぐに、赤司はふ、と笑みを零す。
耳まで赤くなった彼女に向けられるのは、滅多に見せない心の底から満足そうな安心したような――そんな表情。
正直、忘れられていても仕方がないと思っていたのは赤司だけの秘密だ。
「そうか、よかったよ。なら、これを受け取らない理由にはならないな。」
「いやだからね……そうじゃなくてね、征ちゃん。婚約云々つーのは本人達だけでどうとするもんでもないし、第一この指輪どうしたの。あんまり宝飾品に興味無いけど、ものすっごく高いものだってことくらいは分かるよ。」
「まぁ安くは無かったな。だが手持ちの株を2、3銘柄売り払っただけだから気にするな。」
「さいですか……」
この昔馴染みと生涯徹頭徹尾合わないものがあるとしたら、それは恐らく金銭感覚だろう。共に裕福と言える家に生まれた赤司とだったが、後者に関して言えば実妹とのあまりの出来の違いに一族の末端に養子に出されたと言う経緯があるため金銭感覚は一般庶民そのものと言っていい。
頭を抱えながらも見上げるその顔に浮かぶのは、心配の色だけだ。
「……大丈夫なの?その、株って……」
「大丈夫。元々単なる暇つぶしのつもりで始めたものだから、それが無いからと言って親族からどうこう言われる類のようなものじゃない。」
「そっか。それならまぁ……よくは、無いけど。よかった。」
矛盾しているように聞こえるが、彼女の中では全く矛盾していない。彼の血縁たる赤司一族は、そう言った些細な油断を互いに虎視眈々と狙っているような環境なのだ。とて似た場所に居たのだが、彼女の場合総じて見込み無しと判断されたため、幸か不幸か中学一年の頃末端も末端の家に養子と言う形で放り出されたのである。
「そうだな……ちゃんと覚えていたご褒美に、本物の指輪を渡そう。、手を出して。」
「は?」
ご褒美だとか本物だとか、実に物騒――何しろ、ビリー・ウィンストンのダイヤのリング(箱にそう銘打ってあった。いくら金銭感覚が庶民と同レベルでも、都内の一等地に店を構えるセレブ御用達の宝飾店の名前くらい知っている)を持ってしてそう言う青年を物騒と言わずして何を物騒と言うのか。
しかし悲しいかな反射的に手を出してしまったのは、幼い頃からの刷り込み故と申し述べたい。
コロン、と転がった赤くて安っぽい光の反射。
「これ……」
ハート型をした――スワロフスキーですらない――大雑把に光る玩具の指輪。
「……昔、約束したろ。」
そう呟いてそっぽを向いたのは、案外照れ屋の昔馴染みで。
「……覚えててくれたんだ。」
「だからそれ、僕のセリフ。」
半ば呆然とした独り言に律儀に突っ込む赤司は、表情を見せない。こちらを向いている耳が僅かに赤らんでいるのは、流石に気付いていないようだが。
の手の中に置かれたのは、その昔まだ彼女が生家姓を名乗っていた頃。大人の集まりに飽いた赤司と二人、五百円玉一つ握り締めこっそり家から抜け出して訪れた、生まれて初めての縁日で見つけた玩具の指輪だった。
それと出会う迄に問題の軍資金は既に使い果たしており(そこで子供達は計画性、と言う大事な言葉を学んだ)。仕方ないからと軍資金を補充しに家に戻った所、子供達が居なくなった事に漸く気付いた大人がすわ誘拐かと大騒ぎをしていたのだ。無論赤司と二人でこっぴどいお叱りを喰らい、再びの外出など到底叶わなかった――つまり、赤司とは手に入れ損ねたのだ。
その、プラスチックでできた深紅の指輪を。
「その翌日、は帰ってしまったけれど。僕はまだ、あの家に居たから。」
「……もしかして、また抜け出してくれたの?」
おかげで祖父様に特大の拳骨を貰ったよ、と昔の些細な冒険譚を懐かしそうに語る赤司。その拳骨をくれた(にも)赤司家の祖父は、既に鬼籍の人だ。
「……どちらかと言うと。こっちの指輪より、あの時渡せなかったこいつの方が。僕の中にはずっと残ってた。」
の掌から摘み上げたそれを左手の薬指に嵌めようとするが、流石に子供の指に合わせて作られた安物の玩具はせいぜい第二関節位までで止まってしまう。
む、と眉を微かに歪ませた赤司には悪いが、さすがにそれ以上は無理だ。それだけの年月が――流れたのだから。
「覚えててくれただけでも十分。まさか買ってくれてるなんて、思ってもなかった。」
「約束したからね。……本当はもっと早くに渡したかったんだけど。」
「征ちゃんにも、色々あったし。しょうがないよ。」
ひょい、と自らの左薬指から指輪を引き抜いて小指に嵌め直す。流石にこの指にはすんなりと通った。
「とある占い師の言葉を借りるなら、この世に偶然は無いそうだよ。あるのは必然だけ。」
「必然?」
「そう、必然。」
僕らが今まで舐めてきた努力も辛酸の何もかもを、その一言で済ませるのは癪に障るがと物騒に呟くのは生まれついての帝王故か。
だが、は思うのだ。
その必然も、必然だからこそ。今まで彼が培ってきた努力の先に、存在できるのではないかと。
「じゃあ、私がこれを受け取るのも。必然なんだね。」
だから燃えるような赤い玩具の宝石がきらりと光るのも、そのプラスチックの面に目を伏せた二人の横顔が重なって映るのも――
また、必然なのだろう。
『……俺がにあの指輪をあげるから。そしたら、は―― 』