新たなる歴史 Ⅰ


 最初、それを見つけたのは少女の方だった。

好奇心旺盛な性格が災いし、しばし厄介事を招く少女ではあるが時に計り知れない幸運を齎すこともある。……ほんの、たまにだったが。

「あ!大変!お兄ちゃん、人!人が倒れてる!」

空が蒼く高く、絶好の視察日和――の、帰り道。僅かに先を歩いていた少女の声に、兄と呼ばれた青年ははその指先が示す方向 に視線を向けた。

目の良い彼女の言う通り、視界の先には暗灰色の何か――人、か?が転がっている。

「お兄ちゃん、早くはやく!!」
「あ、おい、リズ!不用意に近づくんじゃない!」

シスターという職柄か、はたまた彼女自身の資質故か。躊躇いなく駆け出す小柄な身体に彼――クロムも慌てて走り出した。どん な理由があるにせよ、不用意に近づくのが危険であることには変わりないのだから。
走り出した彼に合わせて、やや後方からも人の気配と大地を蹴る音が近づいてくる。誰だと考える必要も無い。

「クロム様!」
「ああ、わかっているフレデリク。まったくリズのヤツ……!」

武芸の師範にして、頼れる副官のグレートナイトと並走しながら緩やかな斜面を駆け降りる。
眉間に皺が寄っているところを見ると 、小言の30分から1時間コースといったところだろう。その良薬の恩恵を受けるであろう妹は、既に件の塊を覗き込んでいた。

「リズ!」
「お兄ちゃん、早く!女の人だよ、気絶してるみたい!」

だから、お前は少し危機感を持て!女――女?、いや女性でも、危険かもしれないだろう!!等々――そっくりな表情をした兄と護衛の心知らずな少女の覗きこむ先の塊は、確かにピクリとも動かない。

(死んでいるのか?)

「はやく~~~~!!!」
「ああ、もうわかった!とにかく離れろ、リズ!!」

地団太を踏まんばかりの様子に、クロムはヤケ半ばに叫んだ。隣では聞き慣れたため息が聞こえ、クロムの心情を代弁する。


まだ平和で幸せだったこれまで――比べられないものではあるけれど、確実に幸せだと言えるこれからの。

それが、初めての出会いだった。




唐突に破られる微睡みほど、否、その微睡みを破る何かほど腹立たしいものは無い。

「……!…!」
「……?……」

(う…る、さい……)

「……!!……!」
「……!……!!」
「…!……!!」

(だから、うるさいって……)

「…!……!!」
「……!……!!」
「……!!……!」

「だからうるさいって言ってるでしょうが!!」

今一距離感の掴めない言いあいに、そんなに長くもない気がプチンと切れたのは彼女のせいでは無い。……せいでは無い、筈だ。
心地良い微睡みを破られた憤りも相まって、彼女は声を張り上げた――張り上げた、つもりだった。


「お兄ちゃん。ねぇ、大丈夫かなぁ……」
「駄目かもしれんな」
「そ、そんなぁ~」

(駄目かも……って、失礼な。私はこうして、しっかり生きて――生きて?)

当り前の事実に対する、恐ろしい程の違和感。

(いき、て?いる?)

当り前だ。こうして、息をして、思考を構築して――でも、何故?と訝しむ何かがいる。

(あのひとが。私の、誰よりも――何よりも大切なあのひとが居ないのに)

訝しみ、それを嘆く『私』がいる。

(――どうして私、いきてるの?)




唐突な、取り留めのない思考と疑問に身体を委ね、『彼女』は薄っすらと瞼を開いた。先程とは違い、それはつもりでは無く身体はきちんと動いてくれたけれど。
聴覚より後に飛び込んできた光源を背負った影に、『彼女』はゆっくりと瞬きを繰り返した。思考と感覚が追い付いていない。だが、 わかる。人だ。それも、二人。年若い男性と、女性。少女、と言った方が正しいかもしれないが。

「あ!」

フードの影から注がれる、ぼんやりとした視線でもそれなりに力はあったのだろう。少女の方が、いち早く彼女の視線に気づき喜声 を上げた。

「気付いたか」

失敬な事に人の真上で言い合いをしていたのだろう、残った青年の方が同じように視線を向けた。
途端に、ドクン、と心臓が跳ね上がる。

「大丈夫?」

少女の気遣ってくれる声も、耳に入らない。

『私』は。 『私』は―――『彼』を。

「まだ呆けているな。……何があった?」

彼を、知って、い、る?




「おい!本当に大丈夫か?リズ、ちょっと……」
「ちょっとお兄ちゃん。少し静かにしてってば。まだ意識がしっかりしてないんだよ。……大丈夫?」

彼女の混乱を意識の混濁と判断してくれたのだろう、リズと呼ばれた少女が覗き込んでくる。しかし、それを兄と呼ばれた青年が僅 かに身体で阻み、彼女との距離を縮めた。当然の警戒だ、もちろん腹は立たない。――立たない、筈だ。

「……………」

まだ声は出せなかったが、視線で意志を伝える。即ち、是と。
意識が戻ったのを皮切りに、目まぐるしく身体のあちこちが動き出す。最も早く動くのは、動きを伴う必要のない脳。思考、記憶。

(………記憶?)

どうやら何故か、彼女は緩やかな土手の下に寝転がっているようだった。仰向けの体勢のまま、リズとその兄とやらに覗きこまれているらしい。
視界からその情報が脳に伝達され、漸く自分の置かれた状況を自覚する。……どこだここは。

身体を動かそうとするが、まだ上手く力が入らない。もがくような仕草に、リズと呼ばれた少女がそっと肩に触れた。無理はするな、の意だろう。視線で感謝を伝え、一度目をつぶる。
――訪れる暗転、沈む一瞬の思考。繋がる、動作。

パチリ、と目が開いた。

パズルのピースが嵌るように、今度は問題無く思考が巡る。力が全身に行き渡る。
――ああ、やはり生きているのだ自分は。

罪悪感しか感じない生の喜びに、だがそれは身体の底にすぐ沈む。生物の本能であり、罪悪感そのものに該当する何かが――幸か不幸か見当たらないから。

『見当たらないこと』に僅かな不安と多大な安堵を覚え、『彼女』は腕を眼前に翳した。


「眩、しい………」
呟いた言葉が恵みを投げかける太陽のせいなのか――不思議なことに、彼女自身にも分らなかった。



漸く言葉を発した眼下の行き倒れに、クロムとリズはほっと一息を付いた。発見したリズは怪我をしていると騒いでいたが、ぱっと見たところそれらしい外傷はない。眠りこけているのかとも疑ったが、それにしては顔色が悪く、何より。

(涙の跡、だったな……)

顔を見るより早く視界に飛び込んできたそれは、頬を伝いのけぞった首筋を通って鎖骨辺りまで落ちてきていた。

だが、たった一筋。

リズは気付かず――気付かれなかったと思いたいが――クロムは思わず息を飲み込んでしまったのだ。

表情も無く、声も無く。潔ささえ感じた、たった一筋の涙の跡。
その煽情的な光景に僅かに喉を鳴らし、間髪入れず耳を打ったわざとらしい咳に正気に戻ったが。国が誇る朴念人による説教一時間コースは、リズでなくとも勘弁願いたい。

幸か不幸か、ほどなく意識を取り戻したらしい行き倒れに意識を向けたふりをして無かったことと無視を決め込む。

「ほら、こんなところで寝てると風邪ひくぞ。立てるか?」

後頭部に突き刺さる視線が痛いが、極力気付かないフリをしてクロムは行き倒れ手を差し出した。……視線の量が増す。何でだ、リズ。

暗灰色のローブをすっぽりと頭から被った当の行き倒れは、光を遮るかのように翳した手をそのままにぼんやりとしている。
……の、だろう。

何ゆえ推論かと言うと、サイズが合っていないのか纏ったローブは女性には若干大きいらしく、その表情から何からのを殆ど隠してしまっているからだ。クロムより先に検分を始めたリズの言、身じろぎした時に見えた白く滑らかな喉から女性だと言うことは間違いないだろうが、何故こんな陽気の下ローブなどを着込んでいるのだろうか。

疑問に思いながらも差し出す腕に躊躇いは無い。と、漸く思考が回り出したのか、翳していた右手を躊躇いがちに伸ばしてきた。
「あり、がとうございます。」
耳に心地良い、メゾ・アルトの声。乗せられた手を掴み、手前に引き起こす。

(軽いな……)

と、その拍子にそれまで目深に被っていたフードが背後に流れる。目を差す光量が増えたのだろう、眩しそうに目を眇めた彼女の表情が初めてクロムの視界に飛び込んできた。

(う、わ……っ!)

厚手の男物の外套から現れたのは、クロムと同じ年か、やや下くらいの黒髪の女性だった。少女と女の中間あたり、外見と(見えなかった)中身とのギャップに思わず背筋に緊張が走る。

「わ、美人!」
傍らのリズが何故か嬉しそうに声を上げた。だから何でそこではしゃぐんだ、リズ。

「お、おい。大丈夫か?」
いや、動揺なんてしてないし、こ、声もうわずってなんかいない!……さっきから咳がうるさいぞ、フレデリク。

「大丈夫……です。あの、手……」
「あ。あ、あぁ!す、すまん!」
無意識のうちにきつく握り込んでいた手を慌てて離す。笑うな、リズ!フレデリク!!
ぎろりと睨んだクロムなどどこ吹く風で、リズが彼女に微笑みかけた。

「よかったぁ、生きてて。最初、もう駄目かと思ったよ」
「はぁ……」
自分のことだと言うのに、いまいち反応が薄い。未だ寝惚けているのかと思うほどだ。 だが、表情は大分しっかりしてきたし、右手に何か違和感でもあるのか開いたり閉じたりを繰り返している。

「何があったんだ?特に争った形跡も無いようだし……」
賊らしき姿も、目立った外傷も無い。不審に思って尋ねれば、ようやく納得がいったのか 手の動きを止めてクロムに向き直った。

「いえ、特には……ありがとうございます、クロムさん」
何、と思う間もなかった。


「何者!?」
傍らから割り込んだフレデリクが、止める間もなく銀の槍を繰り出したのだ。

「フレデリク!」
「っ!?」

いきなり何を、と視線を移せば警戒感を顕にした表情を彼女に向けている。

「……いきなりは、いくらなんでも無いんじゃないですか?」
突然の暴挙にも動じた気配の無い声色。見れば、素早く間合いを取った彼女は青銅の剣を構えていた。
隙が無い、そこそこには腕が立つだろう立ち居振舞いにフレデリクの気配が更に厳しいものになる。

「何者か、と聞いている。」
「助けていただいておいて何ですが、それを貴方に説明する必要が?」
フレデリクの発する威圧感をものともせず、真っ向から対峙する女。外見に依らず、気は強いらしい。
思わず口の端が上がってしまったクロムだったが、一触即発の空気に気圧されたリズが服の端を掴んだのに至って間に割って入った。

「おいおい。いきなり武器を突き付けることは無いだろ、フレデリク。それと、こちらにも非はあるが、不審に思われても仕方無いだろう。お前は俺の名を呼んだが、俺もフレデリクもお前に心当たりが無いんだからな。……とりあえず、お前も剣を収めてくれないか。」
フレデリクは主家の意を、彼女もクロムの言を最もだと思ったのだろう、各々得物を引っ込めた。互いへの警戒感は消さなかったが。

「……で?お前は誰なんだ?」
「私ですか?わたし、私、は」
最も建設的な質問をしたクロムに、彼女が弾かれたように振り返る。耳元の赤い色が光を反射してクロムは一瞬目を眇めたが、視線は外さない。何事かを呟こうと震えている唇、その一言でも聞き洩らすまいと、吸い寄せられるように――

「私、は誰……?」
思わず耳を疑ってしまった。

「は?」
「わ、私、は誰ですか!?」
「い、いや俺が知りたいくらいで……」
さっきまでの気の強そうな表情から一転、真っ青になってクロムに迫る。流石にこうくるとは思っていなかったのか、フレデリクやリズまでも唖然とした顔をしていた。

「え、嘘、どうして!?わ、私。私……!」
辿った記憶の先が無いことに狼狽し、存在を確かめるかのように自身を抱き締める。そんな彼女を目の前に、クロムも掛ける言葉を探すが、何とこえを掛けるべきか見つかるはずもなく。
と、弾かれたようにその視線が追いかけてきた。

「ここ、何処ですか!?何処で、何でどうして、私……!」
「落ち着け!」
完全に混乱している女の両腕を掴んで、意識を引き戻す。 加減を忘れた、痛いほどの力だったがそれを彼女が気にした様子は無い。むしろ射抜くようなその瞳と力の強さに安堵したのか、僅かに身体の力を抜いた。

「……もしかして、記憶喪失ってやつ?」
こてん、と首を横に傾げたリズが誰ともなく呟いた。空気を和らげる柔らかな声でありながら、状況を示す言葉は実に適格だ。途端にぎょっとした当事者とクロムが、顔を見合わせる。

「……どう言うことでしょうか」
と、冷静で硬い声音がその視線を遮った。その先の声の主――フレデリクに集中する。

「彼女はクロム様の名を口にしました。自らのことも直前の行動も思い出せない――記憶喪失と言うならば、何もかも忘れていなければそうは言わない。おかしな話です、そのような都合の良い話……簡単に信用できるものではありません」
ましてや腕の立つ身であれば尚のこと、と冷たい視線が彼女を射抜く。本気では無かったとは言え、自身の一撃を避けた使い手だ。フレデリクからしてみれば、警戒するなと言う方がおかしい。

「フレデリク、だが……」
「いえ、私もそう思います」
反論しようとしたクロムを、意外なことに当の本人が押し留めた。一時の取り乱した様子など、微塵も感じさせないその姿に思わずその先を飲み込む。

「私が彼の立場でもそう言うと思いますよ。まぁ、変な話ですが。疑ってかかるべきです」
「疑ってかかるって……疑われてるのはお前なんだぞ?いいのか?」
「いい訳ありませんけど、事実ですから仕方ありません。私の記憶が無いのも、疑わしい立場であることも」
まさか肯定されるとは思っていなかったのだろう、フレデリクも彼にしては珍しい表情で彼女を凝視する。

「ですから、と言うわけではありませんが。まずはお礼を。助けてくださったのは事実ですし。後は――まぁ、放置してくだされば。たぶんこれが、最も無難な解決方法だと思いますよ」
「いや、無難ってお前な」
いい加減と言うか、投げやりと言うか。最も困るべき当事者だと言うのに、まるで他人事のような口調にふと、クロムが眉を寄せた。

――震えて、いる。
ほんの僅かではあるが、掴んだ腕から確かに伝わる微かな震え。
動揺とは違う、何か疚しいことがあるわけでもない――真っすぐな視線を逸らさないからだ。身体中に恐怖や脅えが満ちているのに、それを意志の力で無理やり押し込めている――そんな、強がりとも言える姿に、クロムは何故か苛立ちを覚えた。必然的に声も低くなる。

「……困っているんじゃないのか。自分のことだろう」
「そりゃ困ってますよ。自分のことですから。思い出せないってことは、過去が無いってことと同意義で――どうして、ここに居たのか何をしていたのか……これから、何をしなければならなかったのか。過去だけじゃない『これから』も無いのと同じなんですから」

だったら、と言いかけたクロムをだが、それを彼女はたった一言で封じ込めた。

「――でも『今』がありますから」

否、夜の闇を宿したような瞳――そしてそこから真っすぐに向けられた、視線と共に。

「私はこうして生きています。生きて、息をして、考えて。不安じゃないと言えば嘘になりますけど――それでも生きてさえいれば。どんなに細く、少ない道でも。生きていれば、その先があるんです。……今は思い出せない過去だって、見つかるかもしれない。」

だから、と嘘付きな彼女は笑顔で続ける。

「私は大丈夫です。ありがとうございます。クロムさん」                                  
  

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