新たなる歴史 U
彼女は焦っていた。
記憶の失っていたことはもちろん、だがその事実以上に。
『それ』が囁くのだ。
傍に居てはならない。
『彼』の傍から一刻も離れなければいけない――そう、繰り返し、何度も、何度も。
『私』が誰で『彼』が誰かは分からない。
何故かは分からない。けれどその『誰か』は知っている――記憶を失ったはずの、心が、身体が覚えているのだ。
(だから、お願い。)
今、自分を支えてくれている両手を離して欲しい。
『私』が『貴方』を傷つける前に―――
「……だとしても。今、困っているのは事実なんだろう?」
理由の分からない内心の焦りを、そうとは悟られぬように気を使いながらクロムは尋ねた。
「それは……まぁ。」
「おまけに野盗や山賊の類で無い保証はどこにも無い。」
その言葉には流石に異論があったのか、ムッとした表情で彼女はクロムを見据えた。その反応に安堵を覚えて、クロムは更に続ける。
「だったら、とりあえず捕まえて町まで連れて行く。」
果たして、彼の出した結論は凡そ彼女の予想と希望の斜め上を行くものであった。
「は?」
捕まえる、より連れて行く、に過剰な反応を示した彼女が目を見開く。何を言って、と視線で尋ねれば、ふ、と目元を和らげた表情が向けられた。
「話は町で聞いてやるよ。いいな?リズ、フレデリク?」
彼女とほぼ同じ表情をしていたフレデリクは渋面を作り、何となく予想がついていたリズは問題無しとばかりに大きく頷く。
そして、最も異論があるであろう彼女はと言うと。
「〜〜〜〜ッ!?」
口を魚の如く開閉させるだけで、全く言葉になっていない姿を晒している。それはそうだろう。放り出せと言っているのに、その真逆の宣言をされてしまっては。だが、クロムはそんな彼女の反論などどこ吹く風だ。
「そんな嫌そうな顔をするな。悪いようにはしないさ。」
言うが早いか、クロムは掴んでいた両腕を離す。と、その動きが途中で思い出したようにピタリと止まった。
「!」
「そう心配するな。さ、行くぞ!」
無骨な指で払われた、涙の跡。
僅か一瞬で逃げるように離れていったその熱が、抵抗の一切を奪う。
「………」
両腕と頬に残る熱に促され、彼女は恐る恐る一歩を踏み出した。
彼らの、後を追って。
それはいかにも人目を引く一行だった。
まず先頭には銀の肩当てと大ぶりな剣を佩いた紺蒼色の髪の青年がおり、その隣には金の髪の愛らしい少女が。
似通った目元から二人が血縁関係にあることを、見る者が見れば看過したかもしれない。
そしてそんな二人の背後に従うのは騎馬を引いた、重装備の騎士。背が高く、体格にも恵まれた彼は歩きながらも油断無く周囲の気配を探っている。
ここ数日はこの三名だけだったが、少し前――時間にして、ほんの数十分ほど前のこと、この一向に奇妙な輩が加わった。
最後尾、騎士からやや斜めの位置で歩を進めている、ローブを目深に纏った魔道士だ。
彼――否、彼女は本日何度目かになるため息を、こっそりとローブの中で零した。
(全く、何だってこんなことに……)
空は青く、頬を撫でる風は心地良い。暑苦しいフードなどとっとと外して、のんびりと歩きたいと言うのに。
「暑くないのか、?」
彼女――そう、記憶を失って行き倒れていた彼女は、自らをと名乗った――は、フードを被らなければならなくなった元凶ののんびりした問いに努めて平坦に答えた。
「暑いですよ。」
当り前だろうが、との声は内心で付け足しておく。
「……脱げばいいんじゃないのか?」
「大丈夫です。慣れてますから。」
たぶん、とはやはり心の中だけで呟く。記憶の無い状態で慣れもへったくれも無さそうなものだが、身体から抗議の声も上がっていないし、何よりこの身体が真っ先に行ったことだ。何かしらの意味はあるのだろう。
「そう、身構えなくてもいいんだぞ?お前がイーリスの敵じゃないと分かれば自由になれるんだし。」
「身構えてるわけではありませんよ。単に暑いだけですから。」
ならば脱げば……と、似たようなやり取りが先程からずっと続いている。
この無限ループに音を上げたのは、の方だった。
「イーリス、ですか。」
「うん。今、私達が居るここがイーリス聖王国だよ。王都まではあと一日ってところかな。」
同じようなやり取りに辟易したのはリズも同じだったのだろう。彼女が意図したわざとらしい方向転換に嬉々として乗ってくる。
「やはり聞き覚えは無いのですか?平和を愛する、聖王エメリナ様が統治する大陸で最も素晴らしい国です。」
誇らしさの中に含まれた、僅かな別の感情におや、と片眉を上げたが何も口には出さず首を横に振る。
「……そう言えば、まだ俺達からちゃんと名乗っていなかったな。」
会話の端々から名前は把握しているようだが、自己紹介がまだだったとクロムが足を止めた。
「俺はクロム。で、こっちのちんまいのが妹のリズだ。」
「ちんまい言うな!」
打てば響くような可愛らしい抗議にクスリ、と笑みを漏らせば途端に矛先がこちらに向かってくる。
「さんまで!ひどい!」
あらいけない、と唇を押さえながらも肩が震えるのをどうしても止められない。
流石にこう改まって自己紹介をされたのでは、黙っているわけにもいかないかとはフードを取った。途端に風を孕んで踊る髪を背後へ流しながら、クロムに向き直る。
「です。」
ああ、とクロムが頷く。どうもが顔を隠したままだったのが嫌だったようだ。子供かお前は、と突っ込むも口に出さないだけの分別はある。
「リズだよ、忘れないでね。それでね、私達はイーリスの平和を守る正義の自警団なの!」
「は?」
「自警団!じ・け・い・だ・ん!分かんない?」
「いえ……そう言ったことは、分かりますが。えっと、その、リズさんも?」
愛らしい少女の口から思いもかけない言葉を聞かされて、反射的に尋ね返してしまった。その問いかけが不満だったのか、リズが頬を膨らませる。
「そうだよ!私だって戦えるんだから!」
「シスターだろう、お前は。」
間髪入れない兄の言に、頬の膨らみに口の尖りが追加される。
「戦い方は人それぞれですよ、クロムさん。……失礼しました、リズさん。女性の口から自警団と言う言葉が出たので、少し驚きまして。」
の柔軟な謝罪を、リズは驚きながらも嬉しそうに受け入れる。
「ううん。頭の固いお兄ちゃんより、よっぽど分かってくれそう」
「悪かったな、頭が固くて。」
「お兄さんの身としては、色々と考えることもあるんですよ。多少頭が固くても、心配の裏返しなんです。そこはきちんと分かって上げてくださいね。」
今度はやんわりとリズを窘め、だがはぁいと素直に頷かせる。頭が固いと決めつけられたクロムだけは渋面だったが。
傍で聞くだけに留まっていたフレデリクは、その手腕に密かに感心し早計だったか、と自らの性分に苦い笑みを噛み殺した。
「クロム自警団の副団長を務めております、フレデリクと申します。……先程は失礼致しました。」
「いえ、お気になさらず。私も申し上げましたが、フレデリク、さんの行動こそが当然で正しいものだと思いますから。脅威は最小限に抑えてこその組織の長であり副官でしょう。特にクロムさんみたいな方が上役ですと。」
「おい、なんだ俺みたいなって。」
「胸に手を当てて考えてみて下さいな。心当たりが無いとは言わせませんよ。」
出会って僅かな時間のやりとりでそう多くのことを知ったわけでは無いが、それでも彼の人となりを知るには十分過ぎるほどの情報があった。そしてまた、青年の名を冠した組織名に目まぐるしく思考と可能性を巡らせながらも、クロムの抗議を鮮やかに切って捨てる。
ぐぅの音も無く黙りこむクロム、それを見ておぉ〜と拍手をするリズ。フレデリクですら思うところがあるのか、敢えて言及は控えた。
孤立無援、戦略的撤退も難しいこの状況で、だが援軍は思いもかけないところからやってきた。
ですが、と続くメゾ・アルトの声。
「それもクロムさんの魅力の一つなんでしょう。困ったことに、そんな貴方にどこかで魅かれている自分がいるから――きっと仕方のないことなんでしょうね。」
愚直とまでは行かないまでも、彼の真っ直ぐさは組織の長としてはいかがなものかと意見の分かれるところだろう。だが、少なくともは嫌いでは無かった。
身元不詳の自分に躊躇いなく手を差し出した寛容さも含め、自分には無いその真っ直ぐさが羨ましく思えて。
風に弄られる髪を押えながら、困ったように微笑む姿とその爆弾発言に、三者三様思わず声を飲む。特に誤爆されたクロムなど、耳まで真っ赤になった。
「?」
突然動きを止めた三人の様子に首を傾げ、特に顔を真っ赤にしているクロムにどうしたのかと尋ねかけ――
「クロムさん!!」
一転、鋭い声でクロムの背後を指差す。あれは――炎!?
建物の落とす影を確認できる距離まで迫っていた一行の視界に、たなびく黒煙と臭気とが飛び込んでくる。
「お、お兄ちゃん!あれって、まさか……!」
「くそッ、例の賊か!?」
例の、と聞いたがそう言えば山賊呼ばわりされたっけ、と心の中で呟く。だとしたら、全く以てとんだとばっちりである。
どこか呑気に事態を眺めていると違い、自警団の三人は空気を一変させ素早く目配せを交わした。
「フレデリク、リズ!行くぞ!!」
剣帯から得物を引き抜き、真っ先にクロムが声を上げる。良くも悪くも眼前のことに一直線な彼には、もう既に町のことしか頭に無いのだろう。今にも駆けださんばかりの姿に、とフレデリクの視線が一瞬交わった。
「クロム様、彼女は……」
「町を救うのが先だ!後にしろ!!」
考えてもいないだろう『後』にされたは、一瞬ム、と眉間に皺を寄せたがそこはそれ、口を挟む様な愚行は犯さない。
捨ておくと言うのなら、願ったり叶ったりだからだ。
「急げ、二人とも!!」
言いながら既にクロムは走り出している。クロム様!と叫んだフレデリクが、更にリズが。動かないに物言いたげな視線を残し、それでも前を見据えて走り出す。為すべきことが、彼らにはあるからだ。
「…………」
消えて行った後姿を眇めた両目で見送り、は左手で自分の右手を掴んだ。
踵を返すべきだ、と頭では結論が出ている。
町が山賊に襲われている、といった事実を突き付けられても彼女には動く理由が無い。自警団と名乗った彼らとは違い、見ず知らずの他人を助ける義理も義務も、自らの命を危険に曝す必要も無いのだから。
きっと記憶があっても、自分一人だったら迷いなく関わることを避けただろう。降りかかる火の粉は降らせた相手にまんべんなく油を振り注いでから入念に振り払うが、自ら厄介事に首を突っ込む様な真似は絶対しないと言い切れる。
記憶が無い今それが何故かは分からなくとも、理由無く動くような人間では無かった筈なのだ。
無い筈、なのに。
「なんで………」
ぎゅ、と掴む手に力が籠る。そこはクロムが触れた場所、痛いほどの熱と真っ直ぐさで『私』を引きとめた跡――
腕に爪を立て、唇を噛み締め――それでも、迷って。
「迷う………?」
無意識に自分の感情を口にして、はっと我に返り否定するように固く目を閉じる。
答えは出ていて、でも身体はそこから動かない。理屈と感情が身体の中で真っ向から対立している。どうしたら、いい?
否――
「私、は………」
ふわり、と場違いなほど柔らかな風が彼女を撫でた。そのまるで労わるような愛撫に、ふと右手を掴んでいた手が外れる。
「あ………」
無意識に力を込め過ぎたのか、爪の間に紅いものが滲んでいる。
右手の甲に浮かんだ『痣』。それに爪を立てるように。
何故かはわからない。分からないが――それを見た瞬間、何故か無性に泣きたくなった。
「…………ッ!」
まるで祈るように口元を抑え、唇を噛み締める。微かに血の、戦場と命の味がした。
それが、一瞬。
何かを振り払うかのような仕草と、強い瞳では走り出す。
彼女の望むもの、その為だけに。