遭遇戦 U] V
背後からの問いに、は思わず眉を寄せる。クロムの言うあの時が、彼女の中では思い当たらなかったからだ。
「クロムさん?あの、何を……」
「……お前は笑ったんだ。あの時、俺の腕の中で、満足そうに。満足そうに笑って――」
腕の中、と言われて記憶を遡る。正直にいつのことだと聞いても良かったが、イコール覚えていないと答えているようなもので。
と。そこで、何かが意識に引っ掛かった。
抱き締める強い腕。自分はこの感覚を覚えている。それは一体どこで?
「あ……」
思わず声が漏れた。
確証は無いが、そう古くない記憶を身体が覚えていた。肩を、身体を包んだ温かな腕。
「クロムさん、私……」
「教えてくれ。どうしてあの時……俺の腕の中で笑った。どうして、あんな……!」
そう、は笑ったのだ。
クロムを庇って傷を負い、死にかけながらも満足そうに。笑って――その腕の中で逝こうと、した。
覚えていない、との逃げ道は使えないだろう。最も一から十まで明確に覚えているかと問われれば首を横に振るしかないのだが。しかし今のクロムの問いに関してだけ言えば――確信に満ちた答えを返す自信があった。
「私……ちゃんと笑えてたんですね。よかった……」
そう言って背後から抱き締めたが、本当に安心したように笑うから。
益々抱き締める腕に力を込めざるを得ないではないか。
クロムが腕に力を込めた意味を正確に悟ったのだろう、彼女は少し苦笑してその腕を軽く叩いた。
「私だって女の端くれですので。最期の顔を苦悶に歪んだものには、したく無いじゃないですか」
まるで用意されていたような返答に、クロムの眉間に皺が寄る。嘘では無いのだろう、ただ真実では無いと言うだけで。
「」
寄せた唇で低く呟く。
仲間内では、最も長く時間を共にしているのだ。そんなおためごかしで誤魔化されてやらんと軽く肩に吸い付けば、しなやかに身体が震えた。
しばらく沈黙の攻防が続いたが、意外なことに白旗を上げたのは彼女の方だった。
「……だって」
身勝手なのは百も承知だ。
「だって。笑っていれば――少しは、救われるでしょう?」
誰が、とは言わなかった。
触れた箇所から伝わる温もりに目を伏せて。守りたかった人の傷が深くならないことだけを、今更に願う。
いつでもその覚悟はできている、そう答えた女の身体を力一杯抱き締めてクロムはその先の言葉を飲み込んだ。
「……だから、誰のせいでも無いんです。今回のようなことが起こったら……仮に時間を巻き戻せたとして、何度同じ選択を迫られたとしても。私はこの方法を選びます。いいえ、それしか選べない――選ばせて下さい」
「……それは、お前が近々俺の元を離れるからか?」
その言葉に弾かれるように背後を振り返る。背後から肩口に顔を埋めるようにしているせいでその表情を窺うことはできなかったが、告げられた言葉は違えようがなかった。
「なん――何で、それを」
「知ってるか、か?……悪いとは思ったが、聞いた。フェリアで……お前とスミアが話しているのを」
「な……!」
フェリアでがスミアに個人的に接触したのは、あの夜だけだ。
祝勝会の、政にも自分の気持ちにも一区切りの付いたあの日の夜。そして、その会話は。
「すまん……その、本当に聞くつもりは無かったんだ。会場を出たお前を探しに行って……偶然、な」
「…………」
何処から何処まで聞かれたのか、確認は取るべきだ。だが、聞いてしまったら最後、もうそれを覆すことはできない。どうすべきか、と言葉を探している間にも身体を抱く腕に益々力が籠って。
「……だから、スミアにも伝えてきた。思いには応えられないから、と」
「!クロムさ……!」
「もう伝えてしまった。一度口にしたことは撤回が効かない、だろ?それに撤回するつもりは無いし、その必要も――無い」
いつかが言った言葉をそのまま使われ、口を噤む。確かに、もう取り消しは効かない。だが。
「ですが、でも」
「俺とスミアのことはいい。、約束通り聞かせてくれ」
「やく……そく?」
「忘れたとは言わせないぞ。あの変な森から抜け出す際にお前の気持ちを。俺に答えると、約束したはずだ」
「…………」
確かに、半ばヤケクソ気味に約束した記憶はある。だが、それはクロムがあの夜の会話を知っているとは夢にも思わなかったからで。
少なくとも、双方にとって最良の答えを嘘だと判じられる筈では無かったのに。
「……今更、聞くまでも無いでしょう?」
「だとしてもだ。お前の口から、直接聞きたい。他ならぬ、愛したお前の口から」
言質と言うわけでは無く、ただから。彼女の口からその言葉が聞きたかった。
なのに。
「……駄目です」
次の瞬間、クロムの耳朶を打ったのは静かな拒絶の言葉だった。何故、と問うまでも無くはその先を紡ぐ。
「全て聞いておられたのなら、私がそう言えない理由ももうご存知でしょう?お願いです、これ以上は……」
聞かないで欲しい、との願いを込めて回された腕に顔を埋める。
表情を見られては駄目だ。今の自分の顔は、どうしようもなく¨女¨の顔をしているだろうから。
「出自がそんなに大事か?お前はお前なのに。俺の傍に居るためにそれ以上、何が必要なんだ」
「必要ですよ、貴方だからこそ。他ならぬ、誰よりも何よりも大切な貴方だから……」
傍らにあるのは、であってはならないのだ。
だから――傍を離れると決めた。
自分でない誰かがクロムの傍に居るのを見たくない、そんな身勝手な理由もこの際否定はしないけれど。
「だったら!だったら、傍に居てくれ。俺だって、誰より大切に思っているからこそ離したくない!俺以外の誰にだって渡したくない!」
幼稚な独占欲と言わば言え。
自分を庇って崩れた身体を抱き止めた瞬間、クロムは思い知ったのだ。もう二度とこんなことは許さない――自分の目の前で、ましてや知らぬ所で朽ちるなど絶対させないと。
「俺にはお前が必要なんだ。お前に俺が必要でなくとも、そんなことは関係無い。俺が傍に居て欲しいと願っている、それだけで十分だ」
「……随分、勝手なことを仰いますねぇ……」
呆れたような声音だが、反面身体が震える程の歓喜を覚える。生涯ただ一人と決めた相手にこうまで言われて、嬉しくない女が居るはずが無い。
だが、だからこそ。
は首を縦に振ることはできない。否、自らに許さない。
「嬉しい。そのお気持ちは本当に嬉しいんです、クロムさん」
「なら」
「……でも、駄目。駄目なんです。大切だからこそ、愛しているからこそ。私は貴方の傍には居られない……こんなことになるなら、もっと早くに傍を離れるべきでした。分かっていたのに、分かっていた筈なのに。貴方の傍は、居心地が良すぎて……結局、離れられなかった」
鉄錆た味がする、と感覚が告げる。いつの間にか唇を噛み締めていたと、後になって気付いた。
「だから何故だ!?自惚れで無く、お前の心が俺にあるなら何故離れなければならない!?先に言っておくが、身分や出自なんて理由では納得しないからな!そんなもの、後付けでどうにでもしてやる!」
このままが自分の本心を明かさない限り、平行線の一途を辿るだけだろう。分かっている、分かっているがあれはもう禁忌に近いのだ。口にしたら、現実になってしまいそうで――否、それ以上に。
(知られるのが、怖い……)
そう、怖い。
知られることで、クロムに厭われることが――何よりも、恐ろしい。
逃げているのだと非難されても仕方がない、だがどの道離れなければならないのならこのままの関係で終わりたいと思うのは自分の弱さだろうか。
つくづくあの時気配に気付かなかったことが悔やまれる。知ってさえいれば、もっと別の立ち回り方だって採れたのに。
「……話したくないのなら、話さなくてもいい。だが、俺は絶対お前を手離さないぞ。この先何があっても、な」
「話したら、このまま黙って行かせて下さいますか。私のことを――忘れてくれますか?」
「行かせる訳も、忘れる訳も無いだろう。それにさっきから言っているぞ。俺は、何があってもお前を絶対に手離さない、と」
「クロムさん……」
結局堂々巡り、おまけにこちらの話し損ではないか。身勝手さに少々腹が立つも、良くも悪くもそういう男だったと少しばかり苦笑する。不器用な迄に真っ直ぐで、目を逸らすことを許してくれない残酷な人。
――だからこそ最初から、解決方法なんて一つしか無かったのかもしれないが。
今の関係を全て絶ち切って、出逢ってからの今までを。そして今、この瞬間からのその先を。
(捨てるしかないのね……)
例え自分にはそれだけしか無くても。
「――夢を」
暖めるように抱き締めていた身体から、小さな声が漏れた。
「夢を、みたんです」
「……?」
どこか望洋としたその声に、訝しげに腕の中を窺う。
「覚えていらっしゃいますか、初めて会った時のことを」
「あ、あぁ……」
「初めて会った筈なのに、私は何故か貴方のことを知っていた……」
そう、きっとあの瞬間から歯車は回り始めた。
「理由があるんです。でも、あの時は言えなかった。言い訳に聞こえるかもしれませんが、あの時は……私、自身も。混乱していたから」
「それは……そうだろう。だってお前は記憶が……」
「そうですね。記憶を失っていて……でも、その直前に見た夢は忘れていなかった。良いのか悪いのか、今となっては分かりませんが……」
それはの正直な気持ちだ。
「本当……そう本当は。忘れてしまいたかったのかも、しれません。だから、言いたく無かった。言ってしまったら、あの夢が現実になってしまいそうで……」
「」
「でも」
言葉を切ったの身体が小さく震え始める。クロムとしては初めて見る姿――怯えているのだと。触れた箇所から伝わってきた。
「でも、決めたんです。誰より何より貴方を選ぶと。貴方の命に比べれば――私の恐怖など、取るに足らぬこと」
「、待て。ちょっと待て」
言えと言ったり待てと言ったり格好のつかないクロムだが、それもそうだろう。ただ理由が聞きたかった、いやどんな理由だろうと納得するつもりの無い身にとって彼女を怯えさせるつもりなど無かったのだから。
それこそ自分の死すら恐れていないを、ここまで怯えさせる事実とやらを口にさせるなど不本意以外の何物でも無いのに。
「……いいえ、聞いて下さい。貴方が納得して、私を手放して下さるのなら。その方が貴方の為になる」
「馬鹿!だから、さっきから言っているだろう!誰が何と言おうと、お前を手放すつもりなど無い!その誰かに、他ならぬお前自身を除外した覚えは無いぞ!!」
分かっている。だから告げる羽目になったのだ。
せめて共に居られぬのなら、せめて――優しい思い出だけを抱えて去りたかったのに。
「ならば尚のこと。聞いていただかなければ」
肚は括った。
だから――もう一度だけ。あの日を、辿ろう。