神剣闘技 Z

冷水を頭から全身へと浴び、立て続けに何度もくしゃみをしたクロムが漸く身体を温めて浴室を出ると、もう外は完全に夜の帳を下していた。開け放たれている露台(バルコニー)に続く大きな窓から、火照った身体に心地良い風が吹き込んでくる。

(……結局、とは何も話せず終いか……)
避けているわけでは無く、いや、そもそも避けると言う程時間が経過していない。実際の時間だけで言うのなら。
昨夜、酔っぱらった彼女を寝室に運んでその寝顔を最後に確認したのは自分であるし、その前の長城でも二人きりでかなりの時間を持った。だから実際にがクロムの傍らから離れたのは、ほんの数時間の筈なのだ。だが。

(何でこう……いや、実際の時間よりも、長く感じるんだ?)
体感する時間が実際の時間より遥かに長い。彼女を傍らに据え、言葉を交わし少々小言を貰い――困ったような笑顔が見たい。

そう――今、直ぐに。

「……部屋に、行くか。」
時間が時間だし、特に急ぐ用件も――無いと言えば、無い。未婚の、うら若き女性の部屋を訪ねるには少々遅い時間だとの自覚はあるが、思ってしまった以上自身を制止できなかった。腰布を巻いただけの恰好――勿論ファルシオンは手に携えている――で、足早に居間を横切る。普段なら着替えくらい準備してから浴室に入るが、今回はそれどころでは無かったのだ。

「……流石にくら……誰だっ!?」
無人の筈の寝室。だが、あるはずも無いと思っていた場所に何かしらの――誰かの気配があった。
推何の言葉と共に、抜刀の間合いを探る。間者の類か、と一気に緊張が高まったが室内の侵入者に動く気配は無い。
いや、それどころか――

「寝息?」
まさかな、と思いつつも僅かに緊張を緩めて寝台に近寄る。カーテンを開け放ったままにしているお蔭で、明かりが無くとも月明りで寝台の上あたりに何者かの影は見て取れた。目が薄明かりに慣れるまで、あと少し――

「!!??」
寝台の上にある何かの塊――夜目は利く方だと自負しているだけあって、塊が人であることは程無くして分かった。だがそれが誰なのかまで、は。

!?」
頭で考えるまでも無く、全身が知覚した。ガシャン、と携えていたファルシオンを盛大な音と共に取り落とす。

だが、今のクロムはそれどころでは無い。理由は分からないが、がクロムの寝台に丸まっているのだ。
細い月明かりが光を投げ掛け、その穏やかな寝顔を浮き彫りにしている。身体を丸めるくらいなのだから恐らく肌寒いのだろう、気配に敏い彼女のことだ。たちどころに目を醒まし、サンダーをぶちかまして(ここはクロムに割り当てられた部屋なのに)きそうなものなのに。

それなのにクロムが近くまで寄っても、目を開ける気配すらない。

「…………」
何かあったのだろう。だが、無防備に寝顔を晒す彼女を見ていると、これ以上近付くことすら憚られる。
ましてや、揺り起こすなど。

「なんで……」
しかしそれと同時に、目覚めた彼女の一番の視界を独占したいとの欲求にも駆られた。時折僅かに動く表情、苦しそうな姿は見て取れないから悪い夢を見ているわけでは無いのだろうけれど。
例え眠っている間でも傍らに居たい、と思うのはクロムのエゴだろうか。一分でも一秒でも、の中には自分の姿があって欲しい。吸い寄せられるように傍らに足を進め、眠る彼女を見下ろす。
――触れたい、と思った。

生まれた衝動を抑えられず、武骨な指をそろりと伸ばす。触れた白磁の頬、僅かに触れた指先から伝わる温もり。
生きているのだと、言葉を用いなくても教えてくれる安心感が指先に集中する。無意識に頬のラインを辿っていた指が、ふと止まった。
まるで口付けを強請るように僅かに開いた唇。口紅など使わなくても(あか)いそこが、クロムの理性を瞬く間に焼き付くし――

「…………」
ぱちり、と視線が合った。

誰と誰のものが、などと説明するまでも無い。
静謐な静寂に支配させていた室内が、地獄の沈黙へと変化していく。
ぱかりと開いた黒い瞳が、目の前にいる人物と置かれた状況を理解していくにつれて徐々に見開かれていって。吐息が交じる距離、ぎしりと彼女の身体が音を立てて硬直した。悲鳴が上がらなかったのは、に残された自制心故か。彼女が今、ここで盛大に悲鳴を上げればすわ何事かとフェリア兵が必ず雪崩れ込んでくる。
それは、まずい。恐ろしくまずい。クロムにとってもイーリスにとっても――に、とっても。

だからこそ彼女は全精神を使って悲鳴を飲み込んだのだし、クロムもそれは分かっているはずだった。
だが、どうしたことだろう。離れるはずの、離れなければならない身体が、むしろ徐々に縮まっているのは。
その証拠に二人分の負荷が掛かった寝台がぎしりとくぐもった悲鳴を上げ、何やらぱさりと聞こえた軽い音が互いの距離がもう殆ど無いことを教えてくれた。鍛え上げられた逞しい身体が半ば覆い被さり、向けられる毅い視線がの身体を縫い止める。

それは背けることを許さぬ捕食者の瞳。
逃げられない、否、逃げることなどを選ばせない絶対的な力だ。

「ぁ………」
理性の灯が急速に消えていく。
もう二人の距離はゼロに近い。唇から漏れる互いの吐息が交じり、瞼と視界が徐々に狭まって行く。寄せられる互いの面、僅かに開いた唇同士がもう間も無く重なって。

「っ!?」
瞼が下りれば視界も狭まり、限定される。そうなれば飛び込んでくる光景が自然と目につくわけで――

「……?」
突然びしりと固まった身体の持ち主の名を訝しんで呼べば、我に返ったらしいが慌てて後退った。まるで呪縛が解けたようなその様子に思わず眉を寄せれば、何故かそんな彼女の顔がみるみる赤くなっていく。

、どうし……」
「クロッ、クロムさんっ!な、なんで……っ!」
近寄ろうとすれば、牽制するかのように片手を突き出して前を見たまま後方へ這う。
顔だけでなく、首まで真っ赤にさせてぱくぱくと口を動かしているが言葉になっておらず。らしく無いその姿に、不機嫌を通り越して心配になってくる。とにかく彼女を落ち着かせようと腕を伸ばせば、逆効果なのか更に狼狽に拍車がかかった。逃げるには下りればいいと言うのに、とうとう寝台の背に行き当たり逃げ場を失ってしまう。

「ど、どうしたんだ。本当に!?何があ……」
「な、何で裸……!?クロ、クロムさん!な、なんて恰好してるんですかっ!?」
「はっ!?」
裸?と呟いて、自らの格好に目をやって。

「なっ!?」
果たして。飛び込んできたのは、ぽつん、と床に落ちている腰布だった。
つまり。

「うわぁぁぁぁっ!?」
「きゃあっ!?」
今の自分の姿を自覚した途端、何を思ったのかクロムは勢いよく身を起こした。それはつまり、の視界に全身を晒すことと同意義なわけで。

「ぃ……きゃあぁぁぁぁっ!!」
予想に違わず真正面からクロムと相対することになったが盛大な悲鳴を上げた。もうこうなってしまえば、外聞もへったくれも無い。あまりのことに茫然としているのか、隠しもしないクロムに向けて触れるものを正に手当たり次第投げ付ける。

「うわっ!ち、ちょっと待て!、おちつ……!」
「きゃあきゃあきゃあきゃあっ!!」
待てと言う言葉も聞かず、枕に始まり畳まれていた服から何からとかく投げるものには事足りているようだった。投げ付けられたクロムはそれを避けたり、真正面から受け止め(避け損ねた、とも言う)たりと防戦一方で。
投げるものがまだあるうちはいい、これで投擲物が無くなったらのことだ。懐の魔道書のことを思い出し、何の躊躇いも無く駆使するだろう。ここはクロムに割り当てられた部屋で、寝室だと言うのに。理不尽だという抗議ごと消し炭にされかねない。悲しいかなそれが許される状況で相手だ。だが――クロムだって命は惜しい。

!いいからちょっと……!」
落ち着け、と言おうとしたクロムの身体が硬直した。
後退した拍子に纏っている外套が弛んだのか、半ば脱げかかったその下から華奢な肩が覗いていた。普段の彼女からは考えられないほど狼狽し、顔は真っ赤で半泣きだ。天幕に(事故とは言え)押し入った時も似たような状況だったが、あの時とは決定的に違うことが一つ。
ここは密室で、クロムとしか居ないのだ。

「…………っ!」
馬鹿な考えが頭を横切らなかったと言えば嘘になる。だが、それを実行するほどクロムは愚かではない。――少々、切羽詰まっていたが。
とにかく一度彼女を落ち着かせようと、一歩距離を縮めればは傍目から見ても全身を硬直させて。これ以上進めないと分かっているはずなのに、後方へと逃げようとする。

、大丈夫だから、落ち着け。」
「〜〜〜〜っ!」
彼女にしてみれば何が大丈夫なのかと声を大にして叫びたいところだったが、とにかく今はそれどころでは無い。沸騰した思考で考えるのは、一秒でも早くこの状況から逃げ出すことだ。
ぐいぐいと後ろに進まない身体が、その勢いに負けたのかずるりと横に流れた。よこ、と新たな選択肢の生まれた思考に従って身体が逃げる。逃げる思考だけで頭が占められており、加えて視界はクロムに釘付けのまま。手探りで周囲を探るものの、手元不如意の言葉にあるように続くと思っていた寝台はある位置ですっぱりと途切れていた。
結果。

「きゃ………っ!?」
ッ!!」
傾きかけた――と言うよりは、落ちかけたの身体を咄嗟にクロムが引き戻す。

――どこへ、などとは聞くなかれ。

「…………ッ!!?」
逞しい腕によって落下を免れた華奢な身体は、次の瞬間には逆戻りしていた。あれ程逃げようとしていた寝台の、ほぼ中央へ。

引き戻したクロムも咄嗟の事で体の制御が上手くいかなかったのだろう。敢え無くバランスを崩して、と同じように寝台へ倒れ込んでしまった。せめてもの救いは、位置的に下にある彼女の身体を押し潰してしまわぬよう空いた片腕で身体を支えたことくらいで。
だが、それはつまり、若い、未婚の――そして、罷り間違っても、そうなってはならない二人が、


「…………」
「…………」
夜半の、密室。邪魔する者の無い寝室で。

押し倒し、押し倒されるような形で寝台の上で見つめ合うような事態に陥ってしまったのだった。

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