神剣闘技 Y
人が集まれば物が動く。物が動けば金が動く。
金銭は血液のようなものだ――スムーズに流れていれば害は無い。だが一度滞ったが最後、人体に致命的かつ夥しい弊害を与えるのだから。
そう教えてくれたのは、誰だったのだろう。彼か、彼女か――その名も、顔すら覚えていないのに。そんな言葉だけは嫌になるくらいによく覚えている。
刻一刻と近づくイーリスの命運を決める、一戦。
様々な興奮に沸き立つ城下を見下ろしながら、彼女は我知らずに溜息を吐いたのだった。
「……?」
ノックを続けること三回、未だ何の反応も返ってこない状況下では怪訝な表情を作った。
武の城、フェリア東城内に割り当てられた貴人――クロムの部屋の前で。
城下での情報収集から戻った後、拐かされるように連れて行かれたのはこの城の王族専用の浴室。酒と煙草の臭いに辟易していたのはも同じだったので、湯浴みそのものに文句は無かったのだが。何も王族の浴室に放り込まずとも、しかも再び酒を持ち出してこなくてもいいだろう、と言う苦情は浴室の湯気と共に消えた。
至福、その一言に尽きる。――例え、その至福の間に持たれたのが密談と言っても過言で無い時間だったとしても。
城下で調べてきたことを踏まえた上で今後の方針を話しあっている中で、はフラヴィアから直々にあれをどうにかしてくれとの要請――半ば、命令だったが――を、受けた。
どうにかしてくれと言われたあれとは今、彼女が目の前にいる部屋の主、イーリス王弟クロムのことである。
彼は何を思ったのか昨晩、割り当てられた室内で素振りを始め寝台の枠を破壊。今日に至っては自警団の団員であるソールやヴェイクと共に、フェリア兵との模擬訓練――と言えば聞こえは良いが、単なる八つ当たりだとは後程フレデリクとリズから聞いた言である――で城壁の一部に大穴を開けたとのことだった。
無論悪意があったわけでも無く、だが彼女が不在の中で謝り倒すことしかできなかったフレデリクやリズには申し訳ないと言うしか無く。
その彼女曰くどれも大元の原因は自分らしいので、今、こうして彼の人の部屋の前に居るわけなのだが。
「……不在ってどう言う事ですかねー……」
後で話があるとの言伝をたまたま居合わせたヴェイクに頼み、自身は所用を二、三片付けてきたのだが。
とは言え、分かっていないわけでは無い。北の街道の一件があってから少々自分の動向に過敏に反応しつつある軍主にとって、昨日今日の単独行動など心配性に拍車を掛けるだけなのは。
依存、では無いだろう。一人で立つことを知っている男であるし、一人で立つことが難しいその時は。自分でない誰かが、彼の隣に居ることが赦される誰かが彼を支えればいい。それが――お互いの為のはずだ。
(……私の感傷でしか、無いのだとしても。)
そう、感傷でしか無いのだ。こんな、締め付けられるように胸が苦しいのは。何かの暗示のような、あの惨劇の夢。身元の不確かな自分など、傍に居ることが許されるはずが無い。
否。誰が許しても、他ならぬ自身がそれを絶対に赦さない。
(……少しずつ、慣れて頂かなきゃ困るんですよ。クロムさん。)
の居ない時間に。居ない空間に。別離の時間はすぐ近くでは無いが、そう、遠いものでも無い。クロムもそうだが、自分も慣れなければならないのだ。クロムの居ない時間に、空間に。独りに戻ることに。
「……そう、戻るだけ……」
無意識のうちにドアノブを握り締める。
向けられる、陽光のような笑顔の無い――寄せられる無条件の信頼の視線の無い無機質と断言できる日々へ戻る畏れと共に。
戻らねばならない、他ならぬクロムと――自身の為に。
「!?」
自分で思っていたよりも遥かに大きい衝撃を噛み殺した拍子に、余分な力が入ったのだろう。ドアノブが回ってしまった。
――回ってしまったのだ。
「…………」
何でだ、と疑問にも思うにも答えは一つ。あの阿呆王子は、自室に鍵も掛けずに留守にしていたのだ。
「いっそ、フレデリクさんと同衾してもらいましょうか……」
半分以上本気の嫌がらせは、クロムにとって幸運なことに彼が生きている間に実行に移されることは無かったのである。
「クロムさーん?」
八割方答えが無いのを知りながら、念の為声を掛けながら部屋の中に足を踏み入れた。この距離で風の精霊の視界を借りる必要も無く、気配が無いのを文字通り肌で感じる。間者の類も居ないようであり、部屋そのものに特に問題はなさそうだった。
内側から鍵を掛け、室内を見渡す。が与えられているのと同じ作りの貴賓室、二間続きになっている居間の隣には寝室が設えてある。構造上の問題か、クロムに与えられた部屋は居間から簡易浴室に抜けられるようになっており、寝室から簡易浴室へ抜けられるようになっているの部屋とはこの一点のみで違うようだった。
「やっぱり留守か……」
水音がしないから浴室には居ないであろうし、念の為と居間を横切って寝室の方へと足を進める。居所を風の精霊に尋ねてもいいが、話があると伝えてあるのでそのうち戻ってくるだろう。室外で待っているのが本来なら妥当であろうが、寒冷地であるだけあって廊下は冷える。人目も気になることだし、居間で待たせて貰おうと結論を出したの目が覗き込んだ寝室の床に散らばった衣服を見咎めた。
「全く………」
王族とは言え、自警団を組織するなど自主性はあるはずなのだ。自国の王城でそれは罷り通らないだろうが、他国に赴いて自分の事は自分でするように仕込まれているはずなのに。
仕方がない、と寝室に踏み込んで放り出されている衣類を拾って歩く。寝台に腰を下ろして畳みながら、ふと手にした上衣を広げてみた。
「……大きい……」
無論、クロムは男性なのだから当然と言えば当然なのだが。ぴたり、と自らの上半身に張り付けてみればその違いが顕著に分かる。
(ああ、そうか……)
知っているのだ。南の小さな町で、初めて屍兵と相対した原野で。背後から抱き竦められ、守られた長城で。
体格の差だけでは無い、彼自身のおおきさ。
身元も記憶も定かでない自分を受け入れて、信頼を寄せてくれる彼の人としてのおおきさを。
「まるで蜘蛛の巣ね……」
そして自分はその巣に引っかかった小さな羽虫だ。ただの羽虫なら食われて捕食者の滋養となるだけであろうが、
「……本当に、どうか、してる……」
原因は分かっている。浴場でフラヴィアに言われた、あの言葉のせいだ。分かっていて――動揺させるつもりはなかったのだとしても、この下らない思考を持たせる切欠には十二分に役目を果たしてくれている。
この大事な時期に、と苦情を言いたいところだが内心の動揺を悟られるのは更に癪に障る。つまらぬ思考の一端となった上衣を親の仇のような乱暴な手付きで畳み(しかし形は崩さず)、その他の衣服と一緒に重ねる。
腹立ち紛れに叩き付けてやったのは、この際ご愛嬌だ。
「あーーーっ!もうっ!!」
乱暴に頭を掻き、そのまま寝台へとダイブする。軍師でありながら何も考えたくない、と思うのは自分の弱さのせいか。
仰向けに寝転がり、天井を睨みつけ――しかし、何故か肩の力は抜けたまま。
は、静かに目を閉じたのだった。
「あーくそ。フレデリクのやつ、ああも長々と説教せんでもいいだろうに……」
割り当てられた自室の前で、未だ若干痺れた足を摩りながらクロムは呟いた。フラヴィアにを拉致された後、慌てて後を追おうとしたクロムをフレデリクが当然のように捕獲し笑顔を貼り付けたまま滾々と諭していたのである。
かなり早い段階で分かった分かったと降伏の白旗を上げたにも関わらず、何故か途中で仁王立ちしたリズまでが加勢に入り解放されるのに大分時間が掛かったのだ。
「何で俺がの後を追うのをああも、目くじら立てて阻むんだ。リズまで一緒になって。」
それなりの時間拘束されたクロムであったが、腹心と実妹のコラボレーションによる説教は案の定と言うかやはり功を奏していなかった。
ブツブツと呟くクロムにしてみれば、単にを追って行ったつもりかもしれないが行き先が行き先でしかも滞在している(自分達が同盟を望んでいる相手でもある)国の王までが一緒なのだ。
何か一歩でも間違いがあれば、交渉決裂どころでは済まないだろう。無論が一緒であるから、そこまで深刻な状況に陥るまでに何らかの手は打つであろうが。先手を打っておくに越したことは無い。
「全くもだ。また俺に無断で……!」
途中まで同行していたと言うソール(これにも正直腹が立ってしょうがなかったが)を撒いてまで、何を調べてきたのか。知りたいと思うし、知る権利も義務もクロムにはあるはずなのだ。を信用していないのではない、彼女が自分の知らぬ所で何かをしているのが――大方、何か危険なことに首を突っ込んでいたに違いないのだ――容認できないだけで。
過保護だと言わば言え、執着だと言うのなら大手を振って肯定してやる。
は、自分が見つけた軍師――出会った瞬間に生まれ直した、子供も同然なのだから。
「いや、子供……は、違う、な。子供だったらあんなにそだ……」
呟きかけた瞬間、忘れなければと頭の片隅に封印していた白い記憶が鮮やかに甦った。途端に頭がボンッ!と音を立てて爆発し、顔と下腹部に熱が集中し出して。
「〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!?」
一目散に室内に飛び込み、鍵をしっかり掛けて浴室へと駆け込む。
健康な青年には色々と深い事情があるのである。