「ぅ〜〜〜………」
エリダが退出した後も飽きる事無く寝台の上の酔っ払いを眺めていたクロムだったが、その紅唇が苦しげに呻くに至って漸く我に返る。
見れば呻きばかりでなく、眉間にもくっきり皺が寄っているではないか。
「?どうした、苦しいのか?」
身体半ばに越し掛けていた寝台に身を乗り出せば、苦しげな表情のまましきりに胸元のあたりを探っている様子が見て取れた。どうしたとその肩に触れれば、外套越しにでも熱の高さに嫌でも気付いて。
「ぁつい………」
片言で現状を伝えてくるに苦笑を抑えきれず、酔いに浮かされたままでは外套を脱ぐことすらままならぬだろうとその袷に手を伸ばし――
「…………」
ぴたり、とクロムの動きが固まった。普段纏っている外套の下、見るのはこれが初めてでは無い。基本彼女は戦闘を防刃の役目も担っている外套を着たまま行うが、より機敏な動きを要求される白兵戦に於いては普段外套の下に隠されている姿を惜しげも無く晒す。
それはもう、憖っかな男などより遥かに潔く。
(い……いやいやいや。な、何を考えているんだクロム。別に、何も躊躇うことなど……)
無い、と胸中で呟いた矢先にクロムの脳裏に甦ったのものは件の。街道での、国境での、長城での、中庭での―――
「ぅおわぁぁぁぁっ!?」
クロムが暴いたのは隠された、では無く秘されていた白い肌。一度目は無断で、二度目は制止を押し切って。
目撃してしまった柔肌が。今、クロムの目の前に――
「……ぅ〜〜〜?」
うるさい、と青年の心知らずな酔っ払いが素っ頓狂な悲鳴に迷惑そうに目を上げた。定まらない視界の中で、顔を真っ赤にしているように見えるのは見知った姿で。
「……くろむさん……?」
上手く舌の回っていない口調で問いかければ、ぐぶっ!?と訳の分からない答えが返ってくる。普段の彼女であればその異音に訝しげな表情を作っただろうが、生憎(かどうはか分からないが)今のはその明晰なる頭脳の約九割を強烈な睡魔と酔いに支配されていた。
故に挙動不審な軍主の行為にも、全く警戒や懸念を示さない。
「………あつい。」
だからこそ、の行動だったのだろう。
何の躊躇も躊躇いも無く外套の袷を解し履いたままだったブーツに手を掛け、目を見開いたまま光景に魅入っているクロムの前でその暑さの原因を勢いよく取り払ったのは。
「〜〜〜〜〜〜〜っ!!??」
「……あつい。」
声を上げることなく盛大に狼狽するクロムの目の前で、やはり同じ言葉を繰り返したが再びベットに沈んだ。
ぼて、と鈍い音が耳朶を打ったが、それを理解する前にクロムの頭が爆発する。奇しくも彼女がベットに沈んだのと同じタイミングで。
「お……おまっ!おまっえっ……!!おまえとっい、いうっおんなはっ……!!!」
何を考えている、だとか女としての自覚が、だとか自制心を試しているのか、だとか諸々の苦情やら本音やらがクロムの胸中を駆け巡ったが、言葉に詰まってそれ以上は声にならない。いや、もしなったところで言葉になるかどうか怪しいものだったが。真っ赤になったまま口を開けたり閉じたり、手を握って開いてと身体中を駆け巡る激情とどうにか戦っていれば、軍配が上がったのは人としての理性だったようで。
「お前、今後一切、酒、飲むの。禁止な。」
がくり、と大仰に肩を落としたクロムが真っ赤な顔をして呻くの、額に掛かった髪を静かに払う。その仕草が少しむず痒かったのか、僅かに顔だけを震わせた彼女に思わず苦笑が零れて。
本当に――本当に、不思議な女だと思う。歴戦の猛者を彷彿させる力を持ち、艶やかな微笑で宮廷内の有象無象を薙ぎ払う。孤独を厭い、怯えるような子供のような姿を垣間見せたと思いきや、一国の王と堂々と渡り合うだけの胆力と冷酷さを披露する。
そして極めつけは意地の張り合いの末に見せた、無防備極まりない表情――
「反則だろう、……」
イーリス王城で女に見えないだのと暴言を吐いたクロムだったが、もうそろそろその言葉の裏に隠していた感情に気付かぬ振りができなくなってきている。街道や長城の中庭で物理的に自覚させられてしまったことも、理由の一つだと否定はしないが。
「それだけじゃ、無い……」
対屍兵の戦列から外されたことも。長城での軽率な行動の結果、思いっきり殴られたことも。そのどれにも込められた、彼女自身の想い。それは決して自惚れでは――がこの旅に加わってくれた理由については、恐らく姉が絡んでいるだろうことは容易に想像できたが――無いはずだ。
戦いの度に、打ち寄せる困難を乗り越える度に。交わす眼差しに深い信頼とそれ以外の物が、徐々に増えてきているのを――幼いころから絶え間なく人間の機微が交錯する場所に居た、居ざるを得なかったクロムが気付かぬはずが無い。
それに気付かぬ振りをしていたのは、きっと恐らくいつの日かこの微笑みを手放さなければならない時が来るのだと無自覚な予感を覚えていたからだ。
だが、どうしたら、今更。手中にいる、この蝶をそう簡単に手放せると言うのか。
「どうしたら、いいんだろうな……」
自問自答するも、答えそのものはクロムの中にもう既にある。だが、それを果たして伝えていいものかどうか――伝えるだけの、踏ん切りがつかないのが正直なところで。
寝台の傍らで一人らしくもなく葛藤しているクロムの耳に、ふと苦しそうな呟きが届いた。意識が戻ったのかと慌てて顔を寄せれば、薄っすらと涙目になったがはくはくと唇を動かしていた。
「どっ……どう、した!?」
「くる……し……くろむ、さん……うしろ、ゆるめ……」
扇情的と言っていい表情の彼女からそう囁かれて、瞬時に硬直する。だが内容の苦しい、という言葉に呆けても居られずの言う後ろ、とやらに視線を移した。正確に言うなら細い指先が腕ごと窮屈に折り曲げられて、掴もうとしているそれに。
「――――っ!?」
それ、とやらは背面にある編み上げビスチェの端だった。身体を矯正している下着にも等しいそれの、端。つまり。
「ぅおおおおおおおぉいっ!?」
途端に響く絶叫。周囲に人が居れば何事かと駆け込んで来てもおかしくない音量だったが、幸いにもそのような状況には陥らなかった。
「おま……おまえ、何い……いや、あの、だからな!?」
「ぅ……くるし……くろむさん、はや……」
クロムに頼みながらも、指先は今にもその布の切れ端に触れそうだ。だが体勢が悪いせいか指が切れ端を掴むことは無く、しかしながら身体を苛む負荷は更に増すという悪循環に陥っているようだった。
とは言え、苦しそうに喘ぎながら早くと懇願するその様は彼女本来の意図を激しく逸脱し、クロムを盛大に煽るという結果にも繋がっていたわけで。
「…………反則だろう、……」
最早自覚の有る無しレベルの話では無い。酔っ払いに言っても詮の無いことだとは重々承知しているが、苦情の百や二百言っても許される程度だとクロムは思う。だが、このまま放っておくのも気が咎めるし、それこそ自分以外の人物がこの部屋を訪れないとも限らない。暫し自分の本能と理性の狭間で懊悩していたクロムだったが、段々弱くなっていく呻き声に叱咤されてよし!と顔を上げた。今は圧迫に呻く彼女を救うのが優先だと、自らに言い聞かせながら。
「お、おい。……その……緩める、ぞ……?」
念のため、と声を掛けても返ってくるのは苦しそうな呻き声のみ。これはまずい、と沈没した軍師に視線を落とせば先程までは真っ赤だった顔が若干ではあるが青くなっていた。慌ててビスチェの切れ端を掴み、その結び目を引っ張って解く。そんな僅かな動作であっても、多少の改善にはなったのだろう。緩んだ編み上げ部分を確認するまでも無く、の肩から力が抜けたのが分かった。
そう、そこまでは良かったのだ。
結び目を解いた指をそのまま引っ込めて、この部屋を出るか若しくは備え付けの椅子に腰を落ち着ければ。
だが酔い潰れたに近寄ったクロムの視界には、僅かに緩んだビスチェとその下に隠されている白い背中が無防備に広がっていて。
ごくり、と我知らずに生唾を飲み込む。掴んでいた布の切れ端を取り落とし、指の先が背骨に沿って僅かに窪んだ肌に触れた。
とくん、と肌越しに伝わる命の脈動。息遣いに倣って上下する、薄い肢体。とても戦場の最前線で指揮を執るような――戦うような、そんな人物にはとても見えない。
確かめるつもりだったのか、否確かめるまでも無く彼女が彼女であることは知っていたのだが、身体が――指が。勝手に動いていた。
「…………」
剣を扱う、無骨な太い指が白い素地を走る。背骨のラインに沿って辿るその指先は、頼りない布と肌の間に潜り込むと正に滑るようにその下を掻い潜り―――
「んっ………」
擽ったかったのか、僅かに身を捩った振動に指も一旦動きを止めたが、継続して聞こえる安らかな寝息に再び動きを取り戻した。
傷一つない、滑らかな背中。視覚で確認できずとも、最も鋭敏な触覚器官たる指先がそれを知る。つつ、と僅かな摩擦と熱が指先から生まれ、緩んだだけだった編み上げ部分が徐々に解かれて行く。
「んぅ……っ」
零れた声に、ぞくりと背中が震えた。一切逸らせない視線の下、解かれていくのは戒めと言う名の理性。
小刻みな反応を見せる肢体に、しかし指は動きを止めることは無い。時に緩慢と、時に性急に。確かめるよう、味わうように布下を潜り抜け――
「ぁ……んっ!」
「!?」
僅かに力が入ってしまったのか、沈んでいた肩が小さく跳ねた。それと同時に漏れた、小さな悲鳴。しかし、クロムの意識を正気に戻すには十分すぎる威力を持った喘ぎだった。
何を、と我に返れば中途半端に覆い被さり若い女性の、それも未婚の、仲間であり部下でもある彼女の背に指を走らせていた自分と、圧迫感から解放されてすやすやと眠りこけるのややあられもない姿が。
「○▲×□★◎〜〜〜〜〜っ!!???」
咄嗟に飛び退こうとしたクロムだったが、何しろ手の一部分が服の下に残っている状態だ。飛び退ける筈も無く、ぶち、と言う不吉な音が更にクロムを狼狽させた。
何のことは無い、飛び退こうとした衝撃で引っ掛かった細布の部分が悲鳴を上げて敢え無くその寿命を全うさせた音である。となれば、今以上に無粋な細布による拘束が緩むわけで……
真っ赤な顔で部屋を飛び出し(幸いなことに、その瞬間を目撃した者はいなかった)、自分の為に用意された部屋に飛び込んだクロムは何を思ったのかいきなり鞘ごとファルシオンを抜き――
盛大に響いた物音に
白磁の誘惑 V