砕かれた日常 T
先頃リズが懸念していた通り、クロム達一行は目的地である王都までの途中で夜営することと相成った。
「やっぱり夜になっちゃった……」
ほーほーと何処かで梟が鳴き、昼間は気にもならない虫の声がやけに耳に響く。だから泊まらせて貰えばよかったのだと呟けば、じゃあ次回から付いてこなくていいぞとクロムから論外な提案が返される。
「まぁまぁリズさん。何事も経験ですし。」
「さんまで!野宿なんだよ?嫌じゃないの?」
「いえ、私は別に……多分、今迄も似たり寄ったりの生活をしていたんだと思います。」
と言うのも、纏ったローブの下から夜営のための装備品一式がかなりコンパクトに纏められて出てきたからである。
「確かに旅慣れしているようだな。」
「手掛かりが少しでも残ってるといいんですけど……」
少なくとも手持ちの荷物からは、何かを辿れるようなものは無かった。
否、唯一、文字通り手がかりと呼べるものはあったのだが――
「それはおいおいだな。さて、リズ!薪を集めるぞ!」
どうもこの男は記憶のこととなると話を逸らすな、とはため息を吐く。クロムに話してどうなるものでもないのは百も承知なのだが。
「ひぁっ!?くひにはひっは!!」
素っ頓狂な声が返事をする。何事かと振り返れば、涙目になったリズが口に入ったらしい羽虫か何かをペッペッと吐き出しているところだった。
「ひ〜〜ん〜〜これだから野宿なんて嫌だったんだよぅ〜〜」
「これも経験だな。」
何が経験だよ!と兄に噛みつく妹を横目で見やりながら、は込み上げてくる笑いを噛み殺す。ジロリとリズからの恨みがましい視線が向けられたが、そこはそれ鮮やかに躱した。
「お兄ちゃんは男だからいいけどさ!私はか弱い女の子なんだよ!」
うきー!と兄に詰め寄るその姿は「か弱い」からかけ離れているように見えるのは気のせいだろうか。
……無論思っただけである。だって命は惜しい。
「お腹は空くし、変な羽虫はいるし……おうちのご飯とベットが懐かしいんだよぅ!」
と、そのリズの声に重なるようにぐぐぅ〜〜と聞き慣れない――割と皆聞き覚えのある音がした。
他愛ない喧嘩を繰り広げていた兄妹と、それを微笑ましく黙って見守っていたフレデリクの視線が音源――に集中した。
「……し、失礼しました。」
空気を読まない自分の腹の虫に真っ赤になったが、ばさりとフードを被る。日も落ちてきて真っ赤になった顔などわからないかもしれないが、女としてやはりここは顔を隠さずにはいられなかった。
「野営の場所はここでいいとして、後は食料の調達ですね。」
紳士的な振る舞いとして聞かなかったふりを通してくれたフレデリクに感謝の念を奉げつつ、は耳では聞こえない『声』に意識を傾ける。
「……あまり近くに獣の類は……あ。」
「いたか?」
「いましたけど……」
ちょっと大型ですよ?とが小声で尋ねれば、食べ応えがあっていいだろうと剛毅にクロムが頷く。
何故小声かというと、
「よし。狩りは俺とフレデリクで。とリズは……」
「水と薪の調達をしてきます。あちら側に清水が湧いているようですから。」
「ああ、助かる。……やっぱり便利だな、その力。」
「平和利用ですしね。」
戦闘に用いるよりよっぽどいいと同意し、顔を見合せて笑い合う。便利扱いするな!とはリズの弁だが、流石に今回はそれを否定しなかった。
「気を付けてください、クロムさん。フレデリクさん。」
「ああ、そっちもな。リズ、あんまり我が儘言ってを困らせるんじゃないぞ。」
「お兄ちゃんこそ暴走してフレデリクを怒らせないでよね!」
「さん、リズ様のことを……」
「お任せ下さい。」
リスがいーッと舌を出し、しかし兄や守役からの小言が飛び出す前にの腕を掴んで森の中へと逃げ込む。
その逃げ足の速さに全く、とため息をつくことしかできなかったクロムとフレデリクも、肩を竦ませながら森の中へと分け入って行った。
四人の姿が森に消えて暫くののち、ピシリと何かが罅割れるような音が辺りに響いた。
ほんの幽かな、だが紛うことなき小さな異変。
その砕かれていく日常の前兆に――けれど、気付く者は誰一人としていなかった。
「熊はひさしぶりだが、美味いもんだな。……どうした、リズ。遠慮しなくていいぞ?」
程良く焼けた獣肉を焚き火から外したクロムが、先ほどから全く手の出ていない妹に差し出した。食欲をそそる良い匂いが鼻腔を刺激するが、そこはそれリズはやはり手を出そうとしない。
「もう!なんでそんなの獲ってくるの!」
「そんなの……って、言われてもなぁ。熊しかいなかったわけだし。」
「ちょっとどころでなく大型でしたけどね。」
と、これはフレデリク。心の準備ができていなかったら、クロムと二人でちょっと踵を返していたかもしれない大きさだった。
これは流石に持って歩けないとその場で簡単に捌き、食べる分以外は他の獣へと撒いてきた。だからこそリズには何の肉だか分らなかったのだが――
「だからって熊!熊なんか食べれないよ!!ね、さ……」
「ふわい?」
それをバラした張本人は、特に気にした様子も無くこてん、と首を傾げた。二串目だか三串目だかの熊肉をもぐもぐ、ごっくん、と咀嚼してはい、何でしょう?とリズに向き直る。
「さん……」
そんなにお腹減ってたんだ……と呆然と呟くリズに、取り出した手巾で口元を拭ったは、いえ普通でもいけますよと実にワイルドな答えを返した。
「ほらリズ、お前も好き嫌い言ってないで食べてみろ。」
「好き嫌いの問題じゃないの!固いし獣臭いし!か弱い女の子の食事じゃないよ!」
「うーんまぁ、それは確かに……」
自分がか弱いなどと欠片も思っていない同性の呟きに、はぅあ!とリズが奇声をあげる。
「あ、あの、そのね。決してさんが女の子じゃないとか、そう言う意味じゃ……」
「大丈夫ですよ、リズさん。自分でもか弱いなんて思ってませんから。」
あっさりと首肯するに、それもどうかと思うぞとクロムが突っ込む。
「でも、何も食べないわけにもいきませんし。……しかたないですね。」
とりあえず空腹を満たしたが、何やらローブの中をごそごそと探る。暫くしてそこからひょい、と取り出した赤い果実を数個リズに差し出した。
「あ、リンゴ!」
「食後の口直しに剥いて差し上げますから、とりあえず食べてしまいましょう。せっかくクロムさん達が仕留めてきて下さったんですし、熊も熊でまさか人間に食べられるなんて思ってなかったわけですから。食物連鎖とは言え、尊い命の糧を無駄にはできないでしょう?」
「……はぁい。」
相変わらずリズの扱いが上手い、などと感心しながらクロムがどうしたんだ、それ?と尋ねる。
「先ほどの町で頂いてきました。」
「町で?買い物する余裕なんて……って、おい。まさか。」
「なんでしょう、クロムさん?」
半眼になったクロムが眉を寄せるが、睨まれたはどこ吹く風だ。小刀で器用にリンゴを剥きながら、余った木串に適当に刺していく。
「我々だって霞を食べて生きてるわけじゃないんですし、根こそぎ分捕ってきたわけじゃないんですからそう目くじら立てないで下さい。
転んでもタダで起きたら貧乏人、って言うじゃないですか。」
「どこの格言だよ、それは……」
いりませんか?と切り分けたリンゴを串ごとクロムに差し出せば、渋い顔をしながらもいる、と受け取る。
フレデリクも火事場泥棒には感心できないが流石にそれを返しになどとは言わず、やや眉間に皺を寄せながらも黙って受け取った。
ごちそうさまでしたぁ、と少々涙目になりながらも熊を完食したリズが、リンゴ!と今度は打って変わって目を輝かせる。直ぐに頬張った甘酸っぱい果肉に美味しい〜!と呟いたり、中々に忙しい。
「まさか他には手を出して無いだろうな?」
「さぁどうでしょう?」
ふふ、と悪戯っぽく微笑った彼女に、すぐさまクロムが咎めるような声を上げるが、冗談ですよと軽く往なされてしまう。
どうもこの手のやりとりになると一枚も二枚の上手のにやり込められる感がある、と内心面白くない反面やはり得難い人材だと思ってしまう。
政治や駆け引きにはどうしても苦手感を隠しきれないクロムだ。このままで良い訳が無いとは思いつつも、一朝一夕で身に付くものでも無いのが現実で。色々と考えあぐねていた時に出会った、身元不詳の飛び切り優秀な軍師――やはりどうしても自警団に欲しいと、再び切り出そうとした、その時。
「……何であんな酷いことができるんだろう。」
え、リンゴが?とクロムとが同時に振り返る。だが無論そんなはずも無く、ぽつりと溢したリズの表情は真剣で僅かに固い。膝を抱えながらじっと焚き火を見据える彼女の瞳には、炎とは別のものが写っているのだろう。
ふと心に落ちた、人間として当たり前の疑問。突き詰めた問題として、根源は同じなのにと考えてしまうのは果たして正しいことなのか。
「……難しい質問ですね。」
静かな声に、はっとリズが我に返る。声のした方向を見れば、困った表情をしたがこちらを見ていて。
「あ、あの。」
声に出したつもりは無かったのだろう、慌てたリズが何かを言おうとするがはゆっくりと首を左右に振った。
「いいんですよ、リズさん。逆に疑問に思う方が、私は正しいと思います。」
「そう……かな。」
ええ、とが頷く。困った表情ではあったけれど、どこか人を安心させるような不思議な表情だった。
「きっと今、リズさんが持った疑問を百人に尋ねれば百通りの答えが返ってくるでしょう。だから突き詰めて考えれば、正解なんてきっとどこにも無いんです。」
全く同じ思考を持つ人間など、世界中探したとしても一人として居ないのだから。
「正解が、無い……」
「そう。だからこそ疑問に思う事が、リズさんのように何故と思うことが大切なんだと思います。……疑問にも思わず、慣れてしまうことが。当たり前になってしまうことが、私には一番恐ろしい。でも自分で気付いて疑問に思ったことならば、ふとした時に思えるでしょう?自分の今の行動が、正しいものかどうか。」
「でも……正解なんて、ないんでしょう?」
「そうですね。ですが、何と照らし合わせての正解で不正解でしょう?算式じゃないんです、答えが一つなんてこと決してあり得ない。」
「……答えが一つじゃないなら、どうやって選ぶ?」
と、クロム。リズほど素直には思わずとも、理解しがたいことはクロムにもある。
「それもまた、人それぞれですよ。人の数だけ正解があり、不正解がある。問題は選択肢の数じゃないんです。それぞれの裡にあり、その答えや形は余人に理解し得るものとは限らない……」
の右手が自らの心臓の辺りを抑える。
しっかりと『今』を刻む音。不確かな自分の裡で、最も確かだと思える『
「だから。今はまだ――答えを急がなくてもいいんです。明日、答えが見つかるかもしれないし――もしかしたら一生、答えなんて出ないのかもしれないけれど。」
でも、とは誰にともなく微笑みかける。
「今の自分が、絶対ではありませんから。」