砕かれた日常 V
――夢を、見ていた。
一目で夢とわかる夢。
『私』は目の前をひた走るその背中を追いかけ、追いつこうとし――――
(……だめ。)
伸ばした手は届かない。否、届かせない。
(いくら『私』でも、あの子に手出しはさせない。)
そんなことは絶対に赦さない、と自分の内側へと告げる。
(逃げて。お願い、早く――ここから、一刻も早く――!)
願いも空しく、身の内から溢れ出た力が『形』を成す。蠢くそれが、先を走る背中に手を伸ばし―――
「行きなさい!!私の――――っ!!」
――『私』が、目を覚ましたのはその瞬間だった。
クロムは唐突に目を覚ました。
何かがあったわけではない。だが、突然誰かの――よく知った声の、絶叫のようなものが聞こえた気がしたのだ。
だがそんな筈もなく、辺りには火の消えた焚火の名残と思い思いの格好で眠る仲間達の姿があるだけ。
――否、あるべきものが、無い。
「なんだ……?」
耳に痛いほどの静寂。――静かすぎる。
チャリ、と僅かな剣擦れの音をさせ、抱えていたファルシオンを腰に佩く。
「んーー?おにぃひゃん?」
「すまん、リズ。起こしたか。」
一番近い場所に居たせいか、はたまた誰よりも早く寝入ったせいか寝ぼけ眼のリズが大きな欠伸をしながら身を起こした。
「うぅん。それはいいんだけど……あれ?私いつの間に……?」
「の歌を聞いてるうちに、な。それより。」
「ん?」
ファルシオンを帯びた兄が油断なく周囲を窺っている様子を見て、リズも漸く異変を感じたのだろう。傍に置いてあったライブの魔杖をしっかりと握りしめる。
「何か……妙な気配がするな。お前は何か感じないか、リズ。」
「妙な気配……?うぅん、特に……あれ、お兄ちゃん、虫の声が……」
「あぁ。皆無と言うわけでは無いが、殆ど聞こえない……おかしいな。リズ、お前はここに居ろ。少し、辺りを調べてくる。」
言うが早いか踵を返そうとする兄の腕をリズは反射的に掴んだ。
「駄目だよ、お兄ちゃん。まさか一人で行く気?」
「大丈夫だ。少し辺りを見て……」
「……今日、じゃなくてもう、昨日か。さんに大目玉喰らったの、もう忘れたの?」
「ぐ。」
忘れるわけはあるまい、あれほど特大の雷を喰らったのは本当に久しぶりだった。本物でないだけマシだったにせよ、もう当分は遠慮願いたいと思う程度には反省させられたのだから。
「何も無いかもしれないだろう。俺の勘違いなら、二人を起こすのも何だしな。……疲れているんだろう。」
特には、横になるなりすぐに寝入ってしまったのを知っている。戦場であれほど頼もしく思えた身体も、存外細く華奢であることをクロムは知っていた。初めて出会ったあの場所で、助け起こした時の身体の軽さクロム自身が一番よく知っている。
「……駄目だよ、危ないもん。どうしても行くなら、私も行く。」
「リズ。」
言い出したら聞かない気のある妹だ。どうにか諌めようとするも、自分で駄目ならフレデリクかを起こすとまで言い出し、渋々同行を認める。
「考えても見てよ、お兄ちゃん。これでもしお兄ちゃんを一人で行かせたら、お兄ちゃんは勿論だけど私にだってさんの雷が落ちるんだからね。……たぶん、今度は、本物の。」
「……それは――遠慮したいな。」
一度だけで御免被る、特にその威力を目の当たりにしたことのある本物の雷は一度でも御免だと兄妹揃って頷く。
「……わかった。頼む。」
何もなければ、それに越したことは無い――そう、考えつつクロムはリズと共に森の中へと足を踏み入れたのだった。
(やはりおかしいな……)
リズを伴って森に分け入ってすぐ、クロムはその異変を肌で察した。
「お、お兄ちゃん……」
「あぁ。やはり何かおかしい。……静か過ぎる。」
森に入る前は若干聞こえていた虫の声が、今では全く聞こえてこない。小さな生き物と侮るなかれ、異常事態を察する力は非力だからこそ人を遥かに凌ぐ。
「……やはりを連れてくるべきだったな。」
広範囲に渡って周囲の状況を察知できる彼女がいるだけで、危険回避の確率が全く違う。
「ねぇ、お兄ちゃん。」
「何だ、リズ?」
「さん、一緒に来てくれるかなぁ……」
うやむやのうちに此処までは連れてこれたが、先はどうなるか全く分からない。兄でなくとも、彼女が居るのと居ないのとでは状況がかなり違ってくるというのが分かる。
無論損得勘定だけでは無く、リズ自身が一緒に居て欲しいのが本音だけれど。
「そうだな……」
どうも人目を避けるきらいがある、と思うのは自分だけだろうかとクロムは考える。何か悪事でも働いたのかと思わないわけでも無いが、証拠を残すようなヘマを犯すようには見えない。後は、と考えた所でクロムは足を止めた。
――何かが、聞こえる。
何かが迫ってくるような音。それも人の足音とは比べものにならない振動と音だ。咄嗟に振り返れば、その正体が割れた。
背後で連鎖的に倒れる木々、それもまるでクロム達を追いかけるように一直線に。見えない何かに踏み倒されるような勢いに、クロムとリズは瞬間的に蒼褪めた。
「リズ、走れ。」
「え?」
「いいから走れ!」
言うやいなや、妹の背中を押し出し自らもまた走り出す。途端に背後で響く轟音、何がと振り返ればついさき程まで自分達が立っていた場所が、倒れこんできた木々と共に崩れ落ちていくところだった。
そして、一気に噴出した灼熱の帳。
「な……何、あれ!」
「振り返るな、リズ!足元をよく見て走れ!」
「む、無茶言わないでよ〜!」
天まで届きそうな勢いの溶岩の壁に、周囲が真昼のように明るくなった。
「きゃあ!」
溶岩が噴出した際に吐き出された、燃える礫が傍らを擦過したようだった。走る速度を落とさぬまま背後を振り返れば、流星のように大地に降り注ぐ炎の塊が降っている。
「リズ!大丈夫か!?」
「あ、あんまり平気じゃないけど、平気!」
拳大の溶岩に馬鹿な、と周囲を見渡せば、あちこちから噴出している炎とそれらに焼かれた木々が煙を上げている。
火山などある筈の無い場所で一体何がと疑問に思うも、今はとにかく逃げるのが精いっぱいで。
漂う火の粉と煙から目や喉を庇いながら、まだ炎に侵されていない場所を一心不乱に走る。炎のおかげで真昼のように明るく、足元が確かなのが唯一の救いだった。
「お、お兄ちゃん前!!」
「くそっ……!!」
だが、一足遅く断層に回り込まれてしまった。せり上がる足元、沈む対岸――迷いは、一瞬!
「うっきゃぁぁぁぁっ!?」
足を止めた妹の身体を掻っ攫い、割れた大地を一足飛びに飛び越える。間一髪、二人が飛び越えた後を追うようかのに溶岩が一気に噴出した。
「走れ、リズ!!」
「ぅわぁぁんっ!もうやだーっ!!」
炙られたのは一瞬、しかしその恐怖は後々まで残る。泣きごとを言いながらも足は止めない、止めたらそれが最後だ。
「もう、少し……っ!」
地殻の変動によって一瞬せり上がり、そして沈んで溶けた大地はごく一部だったのだろう。断層からそれた若干低い位置、延焼を免れたその場所でクロムとリズは漸く足を止めることができた。
「だ、大丈夫……か、リズ……?」
「だいじょ…ぶ、じゃ、ないけ……ど、何とか……」
肩で息を繰り返し、どうにか呼吸を整える。リズは地面に座り込み息も絶え絶え、クロムも座り込むまではいかずとも暫くその場を動けない。二人の喘鳴音が炎上するあたり一面の轟音に掻き消される頃になって、漸く周囲を見渡す余裕ができる。
「何だったんだ、一体……」
「本当、急にだったもんね……フレデリクとさん、大丈夫かなぁ……」
「多分な。方角から言って野営したのがあの辺り……大丈夫、炎は回っていない。」
「そっか。ならひとあんし……お兄ちゃん、あれ何!?」
今度は何だとクロムが背後を振り仰ぎ――硬直した。
空の一角に、罅―――?
「いや、違う……!」
罅のように見えたそれは、細かな光だった。だが、上空――それも、空を振り仰いでの角度から見ての大きさだ。とても細かいとは言い難い筈。しかし、感覚的に細かいと思わせる光の粒子が一点に収束し、次の瞬間には爆発、上空の一角に罅のような文様を描く。
「魔法陣……?」
クロムの隣で同じ光景に意識を奪われていたリズが、小さく呟く。罅と思われたそれは、だがある意志を持って描かれたような模様――否、陣だ。
幾何学模様にも似た空中の陣、だがその肝心の中心部が抜け落ちている、そうクロムが訝しんだ途端、それは生まれた。
蒼い閃光を孕んだ―――瞳?
「なっ……!?」
そんな筈はと思うも、だがそれは数度瞬きのようなものを繰り返し、呆然と空を眺めている『彼』の存在に気付いた。
気付いた、のだろう。瞬きを止め、目を細めたのだ――それはそれは嬉しそうに。
「………ッ!!?」
一瞬にして背筋に怖気が走った。
全身の毛穴と言う毛穴から嫌な汗が吹き出し、冷水を浴びせ掛けられたような緊張と収縮が全身を襲い硬直する。
生理的な嫌悪なんて生易しいものでは無い、あれは――本能的に相容れないものだと何かが叫ぶ。
「何なんだあれは……!?」
逃げなければと頭では分かっているのに、身体は目の前の光景に吸い付けられたように動かない。そして、
「や……何、あれ……!」
一部始終を目撃してしまった。
魔法陣がら滲み出てきた、闇色のタール――否、形だけなら人の姿に酷似した何かだ。それが魔法陣から吐き出され、重力に従って滴り落ちる。
「!?」
ドサリと重いものの落ちる、鈍い音。魔法陣の描かれた位置からして、人であるなら到底助かる筈も無い高さ。
だが、クロムが人の姿に酷似したと断じたその何かは、そんな常識をものともせず緩慢な仕草で身を起こしたのだ。
うぉぉぅ……
獣のそれより低い唸り。吐きだされる息は闇、そのもので。
振り返り、人であれば双眸に位置する部分を真紅に光らせ――
(――来る!!)
「下がってろ、リズ!」
先程の仕草からは考えられぬ速度で間合が詰まる。
だが追えない動きでは無い。すでに抜き放っていたファルシオンを翳し、詰まる間合いを自ら一歩踏み出す。繰り出される大振りの一撃――がら空きの胴を一閃、一薙ぎした。
「……なッ!?」
確かな手応えに勝利を確信するも、だがそれは僅かにも怯んだ様子を見せなかった。きしんだ音と共に首だけをあり得ない方向へ回し 、深紅の瞳でクロムを見据える。その反応に生半可な手傷では倒せないと瞬間的に悟り、殆ど本能的な動きで続く第二撃をファルシオンで受け止めた。飛び散る火花、戦斧と封剣の鍔競り合いに純粋な『力』の差を感じ取る。長引けば、不利――!
は、と僅かに息を吐き、その分だけ身体から意図的に力を抜く。押し負けたわけでは無い、半歩分の後退にそれは思惑通り僅かに体勢を崩した。畳み掛けるように右肩を軸に自ら突っ込み、傾いだ体勢を更に大きく突き崩す。
「っ!」
虚空に描く、封剣の軌跡。
こちらに背を向けるような形で崩した体勢、即ち大きな隙を逃すクロムでは無い。小さな気合いと共に地を蹴り、急所と思しき場所に思い切り剣を突き立てた。剣ごと地面にその巨躯を縫い止め、更に止めをと剣を引き抜こうとした瞬間。
「!?」
まるでその存在が嘘だったかのように、巨躯が崩れて落ちて――否、黒い塵と化し虚空に溶けて行く。
どんな仕組みで理なのかは分からない。だが、黒い塵そのものが本体だったかのように、全てが消えた。
夢では無い。その証拠に地面に突き立てたままのファルシオン、そして何よりクロム自身の感覚が全て現実にあったことだと叫んでいる。
「………」
思わぬ事態との遭遇に、疲労が重く全身にのしかかる。未知の恐怖が疲労を何倍にも感じさせ、思考を阻む。剣を握る手の感覚が恐ろしく遠く感じられ、寄りかかるように膝が折れそうになり――
「きゃぁぁぁっ!!」
聞こえた高い悲鳴に、我に返った。
考えるまでも無い、あの声は―――
「リズ!!」
顔を上げれば、岩場に追い詰められた妹とその妹に向けて斧を振りかざしている異形の後姿があった。
あの魔法陣から出現したのは――
「何を……!!」
やっているのだとクロムはとファルシオンを地面から引き抜いて、自身を盛大に罵倒した。戦場で一瞬たりとでも気を抜くなど、あっていいはずがない。ましてや自分は出現した敵の数を確認している。自分に向ってこなかった残りが何処に向かうかなど、考えるまでもなく分かっていた筈なのに!
「リズ!!逃げろ!!」
そうは言っても退路は断たれているし、何よりリズ自身が目の前の敵に委縮してしまい動くことすらできそうにない。
彼女との距離はそう遠くない。だが、振り上げられている凶刃とリズとの距離は更に短い。
(間に合わない―――!?)
須臾の間、だが永遠にも近い絶望が思考を埋め尽くす。
伸ばした手の先に、ライブの魔杖を掻き抱いたまま身を竦める姿と止まらない異形が――
前方の事態に意識を集中していたクロムは気付かなかったが、その瞬間、上空に停滞したままだった魔法陣が再び瞬いた。
明滅する光、その中心部から生まれる黒い――否、蒼い影。
その影はもがくように、何かを求めるように光の中を泳ぎきり―――
「!」
鈍く高い金属音。
宙を駆けた蒼い影は躊躇うことなくリズと異形の間に割り込むと、振り下ろされた戦斧を背中で――負うように背に翳した剣で受け止めた。
突然頭上から人が降ってきたことに驚いたのか、斧を受け止めたその技量に魅せられたのかクロムはその場で思わず足を止めしまった。
華奢、それが第一印象。
だが、それを払拭する度胸と技量。金属同士の拮抗する耳障りな音が、闖入者の力量を証明している。背中越しに敵の得物を受け止めるなど、普通では適わない芸当は恐らくその実力の片鱗でしかないのだろう。
「……?」
何時まで経ってもやって来ない痛みに気付いたのか、リズが僅かに顔を上げた。恐る恐る、だが視界に広がった予想もしていなかった光景に息を飲む。
異形の者を押し留めている、表情を黒い仮面で隠した――蒼い少年。
ふと、リズは現在置かれている状況も忘れて、妙な既視感を感じた。
「早く!」
まだ変声期は迎えていないのだろう。少女のように高い声が、クロムの硬直を解く。
頭で理解するより先に身体が反応した。
「おう!」
応えながら剣を構え直し、隙だらけの異形へと躍りかかる。背後から迫る殺気に気付いたのか、力比べを余儀なくされていた異形がその注意を逸らした。背を向けていても気配で察したのだろう少年も受け止めていた斧を力押しで弾き、迎撃の態勢を整える。
僅かに、一瞬―――
正面から胴を薙いだ一撃と、背後から笠懸に斬り付けた一撃。
見る者が見ればほぼ同じと判じただろう断ち筋の一撃が、ほぼ同時に異形に叩きこまれた。刃同士が噛み合うことなく、ほぼ水平に走り――身体を大きく痙攣させた異形の活動を停止させた。クロムが先程仕留めたものと同様、欠片も残さず塵と消える。
「………」
脅威が完全に去った光景を見て、リズの肩から力が抜けた。
そして、ふと先程感じた既視感が今なお目の前に広がっていることに眉を寄せる。
お互い背を向けるように剣を振り抜いた兄と、見知らぬ少年。その姿があまりにも酷似しているのだ。振り抜いたその形だけでは無い、背格好そのものに共通する何かがあるとリズの眉間に更に皺が寄った、その時。
キン!
甲高い、剣を鞘に収める音によって思考を中断させられてしまった。
真っすぐ伸びた背中も誰かを連想させる。とりとめのないことを考えていると、ふと抜き身の剣を握ったままの兄の姿が飛び込んできた。恐らく警戒しているのだろう、突然現れたことといいその技量と言い――何より、表情を読み取らせないその
「妹を救って貰ったことには礼を言う。だが……」
ゆっくりと、円を描くように少年の周囲を歩きながらクロムが口を開く。
「お前は、一体何者なんだ?」
応える者は無く、だがただ微かに――剣が震えたような、気がした。