砕かれた日常 W
時は僅かに遡る。
野営地を離れたクロムとリズが、異形の者と対峙する僅か前。大地が鳴動した、その時――
クロム自警団の副長、フレデリクは混乱の極致に居た。
唸るような大地の振動に飛び起き、すわ異常事態と咄嗟に主家二人の姿を確認すればその姿は無く。もう一方同じように取り残されていた女性が突然頭を抱えて苦しみだしたのだ。
「いッ……!!……ぁ……っ!!」
「さん!!」
のたうち回る姿や眉間に寄った皺、滲んだ涙からして相当な痛みなのだろう。まるで胎児のように身体を丸め、間断なく襲う痛みから少しでも逃れようと身を縮めている。
流石のフレデリクもこの状況下では取るべき行動を決めかねていた。主家二人を探しに行かねばならず、さりとて眼前で苦しむ女性を放ってもおけない。だがこうしている間にも大地の揺れは段々と大きくなり、周辺がいきなり明るくなったことにも焦りの拍車をかけられてしまう。
「ぅ……いぁぁっ……!!」
「一体何が……!さん、しっかりして下さい!!」
気だけが逸る。痛みに翻弄されている身体を抱え、その顔を覗き込む。じっとりと浮いた脂汗、蒼白な顔色。噛み締めたと思しき唇には血が滲み、無意識に頭部に立てた爪先が同じ色に染まっている。
次の瞬間、それまでで最大の揺れがフレデリクを襲った。
中途半端に身を起していた姿勢が悪かったのか、揺れに弾かれ抱えていた小柄な身体を地面に投げ出してしまった。
「しま……っ!」
フレデリクは着込んだ鎧のあちこちに身体をぶつけ、だがしかし投げ出された身体は縮まった体勢が幸いしてか大きな衝撃は受けなかったようだった。相変わらダンゴムシの様に身体を縮め、痛みに苛まれてはいるのだが。
フレデリクは一体どうしたら、と痛む身体を叱咤しながらふと眉を寄せた。
(……揺れが収まって行く?)
あれほど激しかった揺れが、徐々に小さくなっているように思えるのは気のせいだろうか。否、気のせいでは無い。直に地面と触れている手も、振動を伝える金属製の鎧も僅かずつではあるがその震えを収めていっている。
そしてまた、徐々に納まって行く鳴動に呼応するように彼女の悲鳴も小さくなっていっている。
「フ……フレ、デリク、さん……」
「さん!?」
大丈夫ですか、と顔を覗きこめば激痛が余韻として未だ頭を苛んでいるのだろうが、真っ青な顔をしたま頷いた。
「大丈夫く……ない、ですけど……それより、も。クロム、さん達、が……!」
「お二人に何か!?」
「あ……あ、れ……」
緩慢に上げた腕が、フレデリクの背後を指す。はっとその方角を振り返れば、空に浮かんだ歪な文様――いや、陣、か?
「あれは……?」
「わかり、ま……せ……で、も……二人……あの、ちか……く……」
最後まで言えずとも、あの近くに二人が居ることだけは伝える。激しい頭痛のおかげで細部までは視えなかった、だがクロムとリズに加え黒っぽい何かが蠢いていたのだけは辛うじて読み取れた。それと同時にまともに動いていない頭でも、すぐに悟れた。
――あれは、禍々しいものだ、と。
「私……は、へい……き、です、から。早く……二人、のとこ……ろ、へ……」
痛みに身動きが取れずとも、少なくともこの場に危険は無い。だが、あの二人の居る場所は――あの二人の傍にあるものは、まず間違いなく危険な代物だ。痛みに呻きながら早く、と促すを前にフレデリクは、だが決断を下せずにいた。
このまま彼女の言う通り、クロムやリズの元へ駆けつけるべきなのだろう。だが、かと言ってをこのままにして行くわけにもいかない。
数瞬思考に沈み、だがもう次の瞬間には決断を下していた。
「失礼!」
「!?」
言うや否や、背中と膝を支えるように持ち上げられの身体が宙に浮いた。フレデリクに抱え上げられたのだと頭で理解したほんの数秒後、彼女は馬上の人となっていた。
「さん、クロム様達は……!」
「えんしょう、がひどい……馬、だと少し……遠回りになり、ますが……」
途切れ途切れに聞こえる声に従い、フレデリクは愛馬に拍車を掛ける。置いて行く置いて行かないの問答はこの際無用だ。
二人が二人とも、まず優先すべきことをきちんと把握している。
の指示通り馬を走らせていると、やがて森が途切れ一旦拓けた場所に出た。いや、拓けたと言うよりは無理矢理薙ぎ倒されたと言った方が正しいか。
「これは……」
「ここを突っ切るのが、いちばん、はやい……フレデリクさん、急いで……くだ……」
一抱えはありそうな巨木がどうやったらこうも連鎖的に、と愕然としているとくいくいと小さく注意を引くものがある。先ほどよりは血の気の戻ったが、木々の倒れた先を震える手で指差している。
「……ごめん、ね。たい、へんだ、ろうけ、ど、がんばって……」
乗っている馬の首を労るように二、三度撫でる。二人も乗せている上にこの悪路だ。いくら頑健な馬だとしても、大変なものがあるだろう。
の言葉を理解したのか、フレデリクの愛馬はぶるる、と一つ嘶きを返し彼女の労い応える。
「さん。」
「いき、ましょ……う。今は
交戦、と聞いたフレデリクの顔色が青くなった。それもそうだろう、主家の二人が戦っていながら騎士が寝惚けて遅参したなど恥以外の何物でもない。
「急ぎます!」
言うやいなや、再度拍車をかける。山火事のおかげで足元の確認が容易なのが、不幸中の幸いか。
激しく揺れる馬上でできる限りの忍耐力を発揮していたは、やがて途切れた森の更に先に見慣れた後ろ姿を見つけたのだった。
「クロム様、リズ様!」
同じようにフレデリクもその姿を確認したのだろう。漸く平坦な土地に出て、騎馬の真価を発揮させて傍らに駆け込む。
「ご無事でしたか……!」
を前に乗せたまま駆けよれば、そこにはクロムとリズ、そして見慣れぬ少年が一人。
遠目ながらクロムと共に敵を撃退したのは彼か、と一人納得する。
「フレデリク!さんも……さん、どうしたの!?」
駆けこんできたフレデリクに気づき、喜色を浮かべたリズが即座に声を上げた。少年に注意を注いでいたクロムも、フレデリクと共に姿を現したの様子に目を剥く。
「どうした!?」
「顔色真っ青……」
ついでに割れるように頭が痛いです、とは告げずに緩慢に微笑む。とにかく二人の無事が最優先だ。
「二人とも、怪我は……?」
「私達より、どう見たってさんの方が重傷でしょ!お兄ちゃん、ライブかけるからさん馬から降ろして!」
「あ、あぁ。」
何故か呆然としているクロムをつついたリズが、を馬から降ろすように兄に指示した。
戦時の彼女からは想像もできない様子に、おっかなびっくり馬上から慎重に身体を受け取る。
「………ライブ……!!」
ぽう、と光ったオレンジ色の光がの身体に移り、やがて身体に溶けるように消える。と、同時に強張っていたの身体から力が抜けていき、抱えていたクロムの腕に沈み込んだ。
「……ありがとう、ございます、リズさん。」
「大丈夫?どこか痛む場所、無い?」
「ええ、先ほどに比べれば格段に。頭痛が若干残っていますが、許容範囲内です。」
「……何があったんだ?」
「それが私にも……突然、死んだ方がましだと思えるくらいの頭痛に見舞われて……」
何だったのだろうとは、まさにこちらが聞きたいとは思う。おかげでその直前まで見ていた夢を、根こそぎ忘れてしまった。
……もしかしたら、喪った記憶の手掛かりになったかもしれないそれ。
何かを追っていたこと、そしてその何かを必死に守ろうとしていたことだけが――まるで、沁みのように残っている。
「?」
クロムの声には、と我に返り何でも無いと首を左右に振る。と、そのクロムが訝しげに顔を近づけ、静かにの髪を払った。
「……血が。」
「え?」
息が触れるほどまで縮まった距離に、身の置き場を考えながら紡がれた言葉を問い返す。だが、眉間に皺を寄せたクロムは答えることはせず、髪を払った手で剥き出しのの耳に触れた。
「ク、クロムさん!?」
「痛みは無いのか?」
「え。あ、は、はい。」
触れられている個所は恐らく耳朶、何故なら錯覚では無く耳が熱いからだ。どうしたのかと問えば、耳から血がと答えが返ってくる。
「耳から……つまり、脳が揺れたってことですか。」
「何他人事みたいな顔してるんだ。……恐らく、そうだろうが。」
最初は両耳を彩る炎華石の耳飾りかと思ったクロムだったが、よくよく見ればそれば耳から流れ出た鮮血の色だった。耳内の傷はライブで治ってしまったかもしれないが、脳に近い器官の損傷はどのような結果をもたらすか油断できない。
「とにかくご無事で何よりでした。」
漸く安堵したのか、大きく息を吐いたフレデリクにクロムがすまなかったと応じる。
「少し様子を見てくるだけのつもりだったんだが……」
「怪我が無かったのが第一です。……それにしても、あの化物は一体なんだったんでしょう。この国にはあんなものが?」
いるのか、と尋ねたにクロムがまさか、と首を振る。
「俺も見たのは初めてだ。」
「……そうですか。空に描かれた魔法陣が原因ではあるのでしょうけど、今はもう消えているところを見る限り元凶はもっと別の所にありそうですね。」
の言葉に空を見上げたクロムが、渋い顔をした。
「化物だけじゃない。あの剣士……」
「彼も?」
「ああ。」
頷いたクロムが周囲を見渡し、漸く話題の主の姿が無いことに気付く。リズに尋ねてみても、同じく気付かなかったとの答えだった。
それを聞いたの眉間に皺が寄る。
「危険かもしれません。まださっきの化物が居ない保証はありませんし……」
「手分けして探すか?」
「いいえ。条件は我々も同じです。……少し、集中する時間を頂けますか。
……あれは私達――いえ、生者と根底から成り立ちを異にするもの。正直なところ、精霊でなくとも関わりたくないですが……」
そんなことも言っていられない、と息を大きく吸い込んだが瞳を閉じる。
「駄目だ。」
と、クロムが両肩を掴み、集中を遮断させた。
「クロムさ……」
「駄目だ、。お前自分では分かってないかもしれないが、真っ青な顔をしてるんだぞ。」
クロムの真剣な表情に息を飲んだが、次いで困ったような表情をする。
「よしんば彼が何も知らないとしても、もし先ほどの化物がまだ……」
「さん?」
「どうやら……そんなことも、言っていられなくなってしまったようです。」
言葉を途中で切って、表情を厳しいものに――戦場で見せるそれに変えたに、クロムもその言葉の先を悟る。
「さっきの奴らか。」
「はい。少々、数が居ます。視界も悪い、厄介だな……」
遠くを見透かすような仕草に、が
「どういたしますか?」
「……木立を抜けた先に、無人の廃墟のようなものがあります。そこを基点にしましょう。クロムさんと私がその前面に展開、迎撃を。リズさんはいつでも回復ができるように、準備してください。フレデリクさん、リズさんの補助と私達の援護を臨機応変に。」
手早く戦術を組み立て、
「唯一こちらに有利な条件が、個々の敵との距離です。確実に一体一体仕留めて行けば、包囲はされないでしょう。木立が邪魔をして動きが制限されるのはあちらも同じ。まずは砦に近い場所に陣取った連中に、お引き取りいただきましょう。」
頷くフレデリクとリズ、クロムも渋々とだが頷いた。
「、あまり無理はするなよ。顔色はまだ戻っていないし、体力だって完全とは言えないんだろう?」
「大丈夫です。こちらの態勢が整っていないからと言って、待ってくれる相手では無いですし。それに私、見た目より結構頑丈ですから。」
そう言う問題じゃない、と渋るクロムをフレデリクが宥め、リズがに無理はしないでくれと念を押す。
「クロムさんも居て下さいますし。大丈夫、無理はしません。皆さん、準備はいかがですか?」
正直なところ頭痛の余韻がまだ残っているし、そのせいか身体は恐ろしくだるい。
叶うなら今すぐにでも倒れ込みたいだったが、そんな心情は露とも見せず平素と変わらぬ強気な表情――軍師として必要な仮面を被り、高らかに宣言した。
「奴らは何をしてくるかわかりません。気を引き締めてかかりましょう!」
砕かれた日常の――火蓋が切って、落とされた。