遭遇戦 U]

 
「お兄ちゃん!」
暫く休むと言うの元を辞去したクロムだったが、しかしすぐさまリズに捕まってしまった。
忙しく立ち働いているらしい妹は、淑女の嗜みなど知ったことかとばかりに両袖を捲り上げている。

「なんだ、リズ」
さんの天幕から出てきたみたいだけど……何かあった?」
「いや。少し横になるそうだから出てきただけだ。明日の出発も、早朝では無いにしろ早めに休んだ方が良いには違いないからな」
「ふーん。ま、確かに。てか、スミアも?」
「あ、は、はい。私は……その……」
「ん?もしかして、何かに用だったのか?すまん、何も考えずに戻ってきてしまったが」
「い、いいえ。その、大丈夫、です。あの……い、急ぎの、用ではありませんので……」
そうか、と頷くクロムとは対照的にリズは何やら思案顔だ。暫く二人の顔を交互に見、それから口を開いた。

「ま、いーや。それよりお兄ちゃん、今、手、空いてるよね?」
「ん?ああ」
「だったら、水汲んできて。飲み水用に」
「それは構わんが……もしかして、その為にうろうろしてたのか?」
「うん」
あっさり頷く妹に、兄の表情は複雑だ。何やら最近、人使いが荒くなっていないだろうか。

「明日の出発前に慌てたくないじゃん。とりあえず長城まで保てばいいから、そんなに要らないとは思うけど。何が起こるか、分かんないし」
「そうだな。水樽はいつもの場所か?」
「うん、そう。とりあえず持てるだけでいいから、後はヴェイクとか取っ捕まえて運んで貰う」
「……リズ、最近お前似てきてないか?」
誰とは言わないが、某黒髪の女軍師に。

「そう?私なんかまだまだだと思うけど」
「まだまだって、確信犯かお前……まぁいい。行ってくる」
「よろしくー」
「あ、あの!」
溜息を吐いたクロムと、軽い調子で送り出すリズ。兄妹立場の逆転(こんなもんだよ、とはリズ談である)した会話に、スミアの声が重なった。

「どしたの?スミア」
「あ、あの……わ、私もご一緒してよろしいでしょうか……?」
「一緒って……水汲みに?」
思わず聞き返してしまったリズに、スミアは頷く。何でと思ってしまった彼女は恐らく間違っていない。

「え、えーと……」
返答に困って傍らを見上げれば、こちらは何故か驚いた様子の無い兄が。
何やら無性に嫌な予感がした。

「あ、その。えーと。そ、そうだ!荷造りてつ……」
「構わないが」
適当な理由を付けてその嫌な予感を回避しようとしたリズだったが、その目論見は兄によって発せられた一言に因って霧散する。非難するような視線を送れば、分かっているとばかりに軽い頷きが返ってきた。

(確かにケジメを付けろとは言ったけどさ、何も直接言う必要無いじゃん!)
頷きの意味を正確に読み取ってしまったリズが胸中で抗議するも、その頭を二、三度叩いただけでクロムはさっさと踵を返してしまう。その後には嬉しそうに表情を綻ばせたスミアが続いて。

星々の輝く夜空の下、これから起こるであろう第二の嵐を思って。リズは憂鬱な溜息を吐いたのであった。



「わ、綺麗……」
思わず感嘆の声を上げたスミアの視界には、一面の星空が広がっている。
波一つ立たない湖面がその様を精密に映し取り、まるで夜空の中に立っているような錯覚さえ感じた。

「嵐が来た直後だから、空気が特に澄んでいるんだろうな。これは、リズ達にも教えてやった方がいいな」
ちなみにその中には入っていない。こうして立っているだけでも空気の冷たさが肌を刺すのだ。
下手に連れ出して風邪など引かせる訳にはいかない。

「そ、そうですね。きっと皆さん、喜ばれますね」
期待した言葉とは違ったが、ここにクロムと来れただけでも十分だろう。邪魔のいない、二人きりだけなのだから。

「星が見事だな……」
「本当に。星空の天蓋みたい……」
水場はここから少し先なのだが、しはし並んで夜空に見入る。雑音の入ることの無いこの時間が永久に続けばいいのに、とスミアは頭の片隅でそんなことを思う。

「……歌うなら星空の下で、か」
「クロム様?」
「あ、いや。少し前にあいつが言っていたことを、思い出してな」
「そう、ですか……」
あいつ、と言うのが自分で無いことは――クロムがそんなぞんざいな呼び方をする人間は限られている。それが誰なのかいくら鈍い自分でも察しがついた。
それと同時にスミアは哀しくなる。例え身体は自分の隣に居たとしても、心は決して同じ場所にあるわけでは無いと嫌でも悟らされてしまったから。

「スミア?」
「あ。い、いえ……何か……?」
「ああ、リズと……その、フレデリクのことなんだが。あいつらの様子をどう思う?」
クロムに最も親い人間と言っても過言で無い名に、首を傾げる。どう、と言われる程違和感を感じた記憶は無かったが。

「あの、お二人が何か……?」
「ん?ああ、いや。俺の気にしすぎなのかもしれんが。……リズが、あんな風に声を荒げたのは珍しいからな」
「ああ……で、でも。特に変わった様子は無かったと、思います。リズさんもフレデリクさんも、普段通りでしたし……」
記憶に残るような違和感はスミアの中には無い。最もこの場にいないに言わせれば、違和感が無いこと自体がまずおかしいと言うのだが。

「そうか……なら、いいんだが。に相談したら、放っておけの一言だったもんでな」
「ほ、放っておけって……!」
酷い、と声を上げるスミアにいや、とクロムが首を横に振る。

「二人が解決すべきことだし、二人以外にはどうもできないから、と言う前置きが、な。当事者以外が首を突っ込むと拗れるとも言ってたが」
「それは、そうですけと……で、でも。元はと言えば、さんが……!」
怪我を、と続けようとしてスミアはその先を飲み込んだ。の怪我は彼の――クロムの。スミアが恋をした人の代わりに負ったようなものなのだから。

「確かに、な。だが、あいつの怪我が原因だと言うなら、油断していた俺にも非はある」
「あ、あの。す、すみません、クロム様。私、そんなつもりは……」
自嘲気味に呟くクロムの誤解を解こうとするが、本当のことだと取り合ってくれない。
どうして自分はいつもこうなのだろうと、スミアは泣きたくなる。いつもいつも肝心な場面で竦んでしまって、失敗をしてしまう。あの時だって自分はただ悲鳴を上げるだけで、クロムを守ることもあの場から動くことすらできなかったのだ。

走れなかったスミアと、走った
自分の事など顧みなかった彼女のおかげでクロムは命の危機を免れた。同じ人を同じように想っているはずなのに。否、思いの強さでは負けていないと思っていたはずなのに。

「いや、本当のことだからな。気にするな。そんなことより……」
ひたり、と視線に射抜かれた。
何だろう、何か嫌な予感がする。

「どうだ?実戦に出た感想は。天馬騎士団の戦い方とは違うが、直に実戦の空気に触れてみて」
「え、と……はい。あの、やっぱり……訓練とは全然違ってて……正直、怖くなかったと言えば嘘になりますけど。でも……クロム様とご一緒できて、嬉しかったです」
「……そうか。なら、良かった。実戦と訓練では重圧や緊張に天と地程の差があるからな。お前なら、大丈夫だろう」
「あ、ありがとうございます。クロム様のお陰です」
天馬騎士として要求される最低限の経験が積めたのならそれは幸いだろう。
今もクロムに苦い記憶として残る、出発前のいざこざを考えると叙勲云々は楽観視できないが。

まさかクロムから誉めて貰えるなど思ってもいなかったので、スミアの喜びは一塩だ。ふと覚えた嫌な予感などすっかり鳴りをひ潜めてしまった。

「だから――俺も、きちんと伝えなくてはと思ってな。」
「え?」
思わず振り仰げば、そこには怖いくらい真剣な表情をしたクロムが居て。

「クロム……様?」
「お前や……皆が変わっていくのに俺だけが足踏みをしている訳にもいかないしな。だから、ちゃんと俺の口から伝えようと思ってな」
「クロム様……それって、あの……」
心臓が早鐘を打つ。
まさかと胸の高鳴りを収められない反面、成りを潜めていたはずの予感が同時に警鐘を鳴らした。

「スミア」
「クロム……様」
駄目、お願い。それ以上は言わないで。

「……すまない。俺は……お前の気持ちには、応えられない」
彼女の時間が――止まった。



「お前の気持ちには、その……気付いていたんだと、思う。それでもずっと気付かぬ振りをしてきたのは……言い訳をするつもりは無いが、俺の非だ。それについては、謝るしか……無いんだが」
硬直したスミアが呆然とクロムを見上げる。聞きたくないと思っても、耳は一言一句を違えずに声を拾ってしまう。

「どうしても傍に居て欲しい奴がいるんだ。これから先、生きる時間を……そいつと、共に。並んで、歩んで行きたい。そう、思っている」
「…………」
自分がずっと欲しかった言葉が、欲しかった人の口から自分では無い別の人へ向けられている。
嘘、そう言えたらどんなに良かったか。けれど小刻みに唇を震わせるだけで、言葉は何も出てきてくれなかった。

「だからその前に……きちんと、伝えるべきだと。そう、思って、な。……すまない、スミア」
身勝手で残酷な言い分だろう。酷いと罵られても仕方がない。
だがどのみち想いに応えることができないのだから、伝えるのは自分の義務だと思った。それが双方の為にもなると。

「……か?」
「?スミア?」
「それは……わ、私が。弱いから……ですか?さんみたいに強くも……あ、頭もよく無いから。だから、クロム様は……」
漸く声になった想いは、大粒の涙と共に零れた。
自分が落ちこぼれだから、強くも無いから。だから、クロムは。

「が、頑張りますから!私、さんみたいになれるように、がん、頑張りますから!だから、だから……もう少しだけ……!」
「違うんだ、スミア」
待って欲しい、そう続けようとした言葉を静かな声が遮る。

「お前が悪い訳じゃないし、お前にのようになれと思っている訳じゃ無い。それにお前は自分をそう言うが、あいつには無い良い所は沢山あるんだ。そう、自分を卑下するな」
「そんな!そんなの!クロム様のお気に召さなかったら、意味、な……」
ひっく、としゃくり上げる。

「……すまない。だが、俺にとって傍に居て欲しいと思えたのはあいつだったんだ。強い所も、頭が切れる所も、強情な所も、心臓に悪い所も。その、全てがで――あいつだからこそ欲しい思った。あいつだけだったんだ。これから先を共に生きたいと、思えたのは。だから……すまない。お前の気持ちには、応えられないんだ」
誤魔化しようの無い、真っ直ぐな言葉。次から次へと零れてくる涙は、スミアの混乱と哀しみに拍車をかける。
もう、この場には居られなかった。

「…………っ」
顔を覆いながら、踵を返し逃げるように走り出す。
泣きじゃくるスミアが走り去った後には、ばつの悪そうな表情をした男が一人残されて。

乱暴に頭を掻き溜息を吐き出したクロムは、本来の目的を果たすべくスミアが走り去った別の方向へと歩き出したのだった。

 NEXT TOP BACK