遭遇戦 U] T
時間は少し、遡る。
横になるからとクロムとスミアを天幕から追い出したは、しかし結局横になることはせず。彼らに遅れる形で、少しばかり天幕を留守にした。
「お願いします!」
そして現在。
取っ捕まえたカラムとヴェイクに、拝むような形で頭を下げているのである。
「お願いしますったってなぁ……」
「困ると言うか……」
必死に頭を下げるに対し、下げられたカラムとヴェイクは困惑顔だ。
「そこを何とか!ヴェイクさんとカラムさんしか頼れないんです!」
勢い込んでいるの表情はいつになく真剣だ。そんな彼女の気持ちはヴェイクやカラムにも分からなくも無い。
分からない訳では無いが……
「湯浴み用の水を天幕に運んで欲しいってお前なぁ……」
「だって。他の皆さんは共用の場所で済ませられてますし、かと言って私がそこを使えばリズさんに確実に見付かっちゃいますし……こうなったら、手段は選んでいられないんです!」
「おま……もうちょっと別のことに頭使えよ。軍師の名が泣くぞ、いくら何でも」
「今の私にとって、最も重要かつ重大な案件です!そーゆー訳でお願いします!」
そう真剣な表情をして何を言うのかと固唾を飲み込んでみれば、何のことは無い。湯浴みをしたいから水を張った盥を自分の天幕に運び込んで欲しい、と告げられたのだ。
「クロムさんも出払っている今が最大の好機なんです!お願いします、お二人とも!」
「「………」」
いやまあ、水を運ぶくらいなら別に構わないのだが。
顔を見合わせるヴェイクとカラムは、願いと呼ぶにはあまりにスケールの小さい頼みごとにいっそどうすべきかと迷ってしまう。
とは言え彼女の事だ。身体さえ万全なら水浴び用の泉に行くか自ら調達しに行っているだろう。それをしないと言うのは、やはりどこか不安があるからで。
素早く視線で会話した二人は、しょうがないとばかりに頷いた。
「しゃーねーから持ってきてやるよ。一人分でいいんだろ?」
「はい!」
「うん、それくらいだったら……任せてよ。」
「お願いします!くれぐれもクロムさんとリズさんには内緒と言うか、バレ無い方向でお願いします!」
嬉々として飛び上がるに、二人とも苦笑を隠さない。あの頑固者兄妹も、少しくらい大目に見てやればいいものを。
やれやれと肩を竦めるヴェイクと、平時からあまり表情の読めない・読ませない表情のままのカラム。
だが、その胸中は偶然と言うか必然的に同じであった。
曰く。
((バレたら、絶対のせいにしよう))
自警団最恐の名をリズが襲名する日も近いのかもしれない。
「あー気持ちいい……」
盥に張られた水はせいぜい座った腰辺りまでしかないが、やはりただ身体を拭き清めるだけとは違う。火の精霊によって温められた湯も、実に快適だ。
カラムが居れば恐らく問題は無いだろうと考えたの思惑は、やはりと言うか外れなかった。
えっちらおっちらと運ばれた盥二杯分(この時点で彼女は狂喜した)の水と、何だったら湯浴みも手伝ってやろうかと言うヴェイクの
鼻歌の一つでも出ようと言うものだ。
あまりゆっくりはしていられないだろうが、まあそこまで贅沢は言うまい。湯に浸かって汗を流せるだけでも御の字なのだから。
だから、気が抜けていたと言われれば頷くしかない。とは言え風の精霊達に不審な行動をしている者があれば即座に知らせてくれと頼んであり、哨戒を怠った覚えは無いのだが。
そう、ただ風の精霊達との認識に、「不審な行動」に対しての深く深い越え難い溝があったと言うだけで。
だが、だからと言って断じて許されることでは無いだろう。
「、お前……!」
こうも度々、女性の部屋に無断で侵入するなど!!
「お兄ちゃん」
水樽を抱えて戻ったクロムを待ち構えていたのは、やはりと言うか仁王立ちしたリズだった。
「ああ、リズ」
「……ああリズ、じゃないよ」
クロムの前に立ち塞がるリズの表情は非常に複雑そうで、明朗快活な彼女には珍しく言葉を探しあぐねているようであった。原因が自分であるだけに下手な言い訳をするつもりは無かったが、遅かれ早かれ告げねばならぬことには違いなかったのだから。
まるで地に着いていないような足取りで幸せそうにクロムについて行ったスミアが、つい先程泣きながらたった一人で戻ってきた。そして寝台に潜り込むなり号泣し始め――そんな彼女の姿に、居合わせた女性達に戸惑いが生じたのは仕方のないことだろう。
だが、何があったのだと声を掛けようとしたその仲間達を止めたのはリズだ。彼女だけがその中で唯一、起こったであろうことに心当たりがあったから。
「……スミア、泣いてたよ」
「……ああ」
水樽を下ろしながら、ばつが悪そうに頷く。その仕草から自分の想像がそう間違っていないことを確信したリズが、深く深い溜息を吐いた。
咎める響きを持たせた妹の言葉に、兄はそれ以上何も言わない。自分なりのケジメはつけた。今後どうするかは――勝手な言い分かもしれないが、スミア次第だろう。
結果彼女が自警団を離れることになっても――仕方が無いと、覚悟はできている。
「……仕方ないか。いつかは知ることだったしね。でもさ、せめてスミアから告白させてあげるべきだったんじゃない?」
「待っていたらいつになるか分からんだろう。あいつは――は。イーリスに着いたら直ぐにでも姿を眩ますつもりだぞ」
「何その確信に満ちた断定は……さんがそう言ってたの?いつ?」
「いや……その。前科があるだろう、あいつは」
この旅に出る前の出来事だが、もう随分昔のように感じる。あの時も未遂だったが、確かにクロムの言う通り彼女はまるで何かから逃げるようにリその傍から離れようとしていた。自分の身元が知れないから――彼女はそう言っていたが、あの時から互いに信頼関係を築くには十分すぎる時間が経った。良くも、悪くも。
「ま、確かにね」
「それより……お前は大丈夫か」
「私?何が?」
言葉を濁した兄に、これは何かあったなと直感的に思ったリズだったが深く追及はしない。代わりに尋ねられたことに、少しばかり言葉を詰まらせたからと言う理由では無く。
「いや、その……あれだ」
「何心配してるんだか知らないけど、私は特に。何も無いよ。心配しなきゃいけないようなことは、何も」
これは嘘では無い。今までとは同じではいられない――同じでは居たく無かったのは、紛れも無くリズ自身の意志だ。
それがたまたまあの場で爆発してしまった、ただそれだけのこと。そう言ったところ、時と場合と場所を考えろとに小言を貰ったが、リズ自身全く後悔はしていなかった。
何時かは言わねばならぬことだった――兄が、自らを慕ってくれていた彼女に自らの思いを告げたように。
「……無いなら、いいんだがな」
妹の言い草がとある強情な軍師の姿と重なって見えたクロムは、これ以上は何を言っても無駄と判断したのだろう。
溜息交じりの呟きにうん、とだけ頷きリズは踵を返した。
「私、今日は天幕で寝るから。お兄ちゃん、さんの様子見に行ってくれる?……間違っても、一晩付き添いなんかしないようにね。分かった?」
「するか!!」
流石に婚約もしていない未婚女性の寝所に詰める程、クロムも非常識では無い。
いざとなれば既成事実を――と考えない訳では無いが、クロムが欲しいのは身体だけでは無いのだ。そんな乱暴な真似を仕出かして、全てを台無しにする気は無い。
「分かってんならいーよ。あ、水樽はいつもの所置いといてね。んじゃ、お休みなさいお兄ちゃん」
「ああ、お休みリズ」
五寸釘を刺していった妹を見送って、クロムはやれやれと呟く。
元々口達者な妹だったが、最近富みにその口撃に研きが掛かっているような気がするのは気のせいか。
「……俺も行くか」
クロムはそこで考えるのを止めた。あまり考えると、現実になりそうだったので。
だがクロムはその後、世の中では深く考えずとも予想外な現実は起こり得るのだと言うことを――それこそ本人の意思とは関わりなく――思い知らされるのであった。