遭遇戦 ]\
「全く無茶をして……」
ランプ灯の下、顔色の悪いまま眠りに落ちたの頬に掛かった髪を優しい手付きで払いのけてやりながらクロムはぽつりと呟いた。
ふらつく身体を他の誰かに任せられるはずもなく、クロム達の退出によりうやむやのまま会議は結局お開きとなった。
そうして寝台に横たえた華奢な身は、こちらの思惑など知らず既に夢中の人となっている。
(血も足りていないんだろうが……体力が元に戻るまで、無茶はさせられん)
それでも大分穏やかになった寝息を聞いていれば、安堵の念を禁じ得ない。クロムを庇って凶刃に倒れた直後のあの絶え絶えな呼吸が今も耳に付いて離れない――今、目の前で呼吸が安定していても、思わず揺り起こしそうになったのは一度や二度では無いのだ。
寝台の傍に陣取り、血色の悪い頬に手の甲を押し当てれば体温と呼吸音が肌越しに伝わってくる。
生きていてくれるだけで良かったと、あの瞬間は確かに思った。だがその命が長らえたのを確認してしまえば、それ以上の望んでしまうのだから自分も現金なものだ。
頬に触れた甲を何度も行き来させ、その柔らかさと温かさに安堵の息を吐く。
「お兄ちゃん?」
「ああ、リズ」
軽い自嘲の笑みを丁度戻ってきた妹に見られてしまったらしい。訝しげな彼女に何でもない、と手を振って再び傍らのに視線を落とす。
「どうだ?」
「ロンクーさんも、天気が崩れるだろうって言ってる。もしかしたら、さんが言ったより早いかもって」
「ならばどのみち足止めだな……フェリアでは連戦だったし、少し不便だが休暇と思えばいいか」
「楽観視し過ぎ、お兄ちゃん。……でも、そうかもね。外とは言え、馬車より楽だもん。さんは?」
「よく寝てる」
気配に敏い彼女が小声とは言え、枕元での会話に気付かないなど余程深く眠り込んでいるのだろう。それはつまり、体調が全く戻っていないことで。
「リズ、お前も疲れただろう。戻ってやす……」
「私、今夜はここに詰めるよ。まさかとは思うけど、お兄ちゃん?身内でも何でも無い未婚の女性の寝室に、一晩中居るとか言わないよね?」
笑っていない笑顔で詰め寄られ、ぐ、と言葉に詰まる。確かにクロムは男で身内でも何でも無いが、毎度毎度それを盾に愛しい女の傍から追いやられては堪らない。
「……だから、さっさとケジメつけろって言ってるの。さもないとさん、ほんとにフェリアにかっ浚われちゃうから」
しかしそんな実兄の不満などさくっとお見通しな妹は、不吉な予言をしてクロムがいた場所を陣取ってしまう。
さっさと出ていけと身振りで促す妹にすわ犬猫かと思うところが無いわけでも無かったが、何より無為に騒いでその眠りを妨げるのは本意ではない。
本音を言えば彼女に聞きたいことがあったのだが――それも、リズの居る場では不可能だ。大人しく入り口に足を向け、差し掛かった所で一度だけふと振り返る。
何故だか、に呼ばれたような気がしたからだ。
「お兄ちゃん?」
「いや、何でも無い。……後を頼む」
だが、そんな筈も無く。
規則的な寝息に後ろ髪を引かれながらも、クロムはその場を後にしたのだった。
天候の変化は思っていたよりも早く訪れた。
早朝から燃料だ水だと準備に追われ、漸く一息吐く頃になって雨が降り出したのである。各人、男女別に分けられた寝室用か会議用に設けられた天幕で風雨を凌ぐことと相成った。暇だ暇だと一部騒ぐ者も若干名いはしたが、概ね静かにかつ危うい均衡を保ちつつ時間は過ぎて行く。
それと言うのも、クロムがの傍らを離れ無いからだ。良い顔をしなかったのはリズを筆頭にした女性陣だったが、一向に譲る気が無いと分かると絶対に二人きりにしないという条件下で口をつぐんだのである。肝心のはほぼ丸一日を微睡みながら過ごしていたので、別に構わないと言ったのだが彼女らがそれに頷く筈も無く。
とは言え、それも二日目ともなると体力は大分戻ったらしい。寝台の上で大人しくはしていたが、あれこれと進軍の心配をするようになった。明日には出発できる、と言い張る彼女をクロム筆頭に宥めすかしたのは一度や二度のことではない。
無論、彼女の容態以外にも川の増水が思った以上と言うことで足止めを余儀無くされたのは予想外の幸運だったのだが。
「やっぱり鈍りましたね……」
ぐぐっと背伸びをしながら呟いたのは、つい先日まで生死の境をさ迷っていた元怪我人である。
本調子からはまだ遠いが、いつまでも臥せっているわけにもいかない。心配性の軍主を説き伏せて今朝方皆に顔を見せれば、一部の寝室に立ち入ることを許されていなかった面々が久方ぶりに見る軍師の姿にこぞって労いの言葉をかけてくれた。
テンションの上がり過ぎた某斧使いがお目付け役に張り倒される一幕はあったが、概ね問題無く顔合わせは終了。
最も大変だったのはそれからで、もう大丈夫だから出発しようとのの言を心配性の軍主が駄目だと言って譲らない。何も今直ぐに出発する訳では無いのに、病み上がりなのだからもう少し大人しくするべきだと主張して引かなかったのだ。
しかしそれこそ軍師の本分、復帰したその手に(口に?)掛かったクロムは、一も二もなく丸め込まれてしまい結局翌日にはイーリスに向けて出発することに同意させられてしまった。
「!」
「ぅひゃはぃっ!?」
突然声を掛けられて飛び上がったが背後を振り返ると、まるで自分が倒れんばかりの表情をしたクロムが駆け寄って来るところで。
「お前なぁ!あれほど横になってろと……!」
「もう大丈夫ですって。あんまり寝てばかりいると身体が鈍りますし。と言うかクロムさん、いついらっしゃったんですか……」
「いつだって良いだろう!そんなことより、横に……」
そちらの方が余程良くない、と思っただったがこれ以上刺激したところで何にも得るの物は無いかとそれ以上の話を遮る。
「大丈夫ですよ。明日には出発するんです、少しは片付けませんと」
「馬鹿!傷が開いたらどうする!いいからお前は大人しくしてろ!」
「クロムさん……貴方いつからそんなに過保護になったんですか……」
傷は既に塞がってしまったし、再び傷を負いでもしない限り開くことは無いだろう。最もクロムには言葉を濁す程度にしか話していないのだが。
「お前な……死にかけた自覚はあるのか?」
「確かに死にかけはしましたけど。結局生きてますしね」
自分の事となると途端に結果オーライになるこの女軍師に、クロムはどうにかして自覚や自重させる術は無いものかと眉間に皺を寄せる。しかし結局駄目だ、思いつかんと3秒で思考を放棄してこの件に関しては味方を増やして引きずり込む必要があると結論づけた。
「それより。出発は明日なんだ、できる限り身体は休めていろ。本調子には程遠いだろ、お前」
「それはまぁ、そうですが……おかげで湯浴みもリズさんに禁止されちゃいましたし」
「意外に体力を使うからな」
「だったら泉に水浴びに……と言ったら、気絶させられそうになりましたし」
「当たり前だ馬鹿」
膨れた表情を見るに、清拭で済ませているのが余程嫌らしい。確かに天幕内は埃っぽいし、の言い分も分からないわけでは無いのだが。とにかく大人しくしていろ、と彼女を寝台へと促す。横になるだけで寝入られると言うことは、身体がまだ休息を欲している証拠だ。持っていた魔道書を奪い取って背中を押せば、小さく溜息が落とされて。
「本当にもう、心配ないんですよ?ちょーっと体力が落ちてるだけで」
「その”ちょっと”に関して俺達とお前の間に、深くて暗い溝があるがな」
そうかもしれませんね、と軽く肩を竦めた彼女の額を小突いたクロムはは、っと背後を振り返った。思わずを庇うような位置を取ったが当の彼女に腕を引かれ、次いで首が小さく左右に振られるのを見る。
「大丈夫ですよ。どうぞ、スミアさん」
どうやら既に天幕の外に生じた気配の主を把握していたらしい。意外な人物の名にクロムは目を丸くしたが、失礼しますと断りの声と共に姿を現した人物は間違いなく亜麻色の髪をした乙女で。
「どうした、スミア。何かあったのか?」
「い、いえ。あ、あの……」
俯いて旨の前で組んだ手をもじもじさせている姿を見れば、”何”の用かなど予想が付きそうなものだが。流石にも病み上がりの身と場であの夜のようなことがあっては、自分を押さえきる自信など無い。
仕方なしに彼女は溜息をそれと分からぬように吐き出して、極力平静を装った声でクロムを呼んだ。
「クロムさん、それではお言葉に甘えて少し横にならせて頂きますので……」
「あ、ああ」
濁した部分はとっとと出てけ、だ。スミアもさっさと告白するなり何なりして欲しいのだが、流石にクロムの居るこの場でそうと口にすることはないだろう。二人纏めて外に出せば、そう言った雰囲気になる――かも、しれない。
「リズを呼ぶか?」
「いいえ、リズさんもお忙しいですし。少し横になるくらいですから、ご心配には」
「そうか。……いや、とりあえず声はかけておく。あまり無理はしないでくれ、」
懇願するのようなその声に、少しだけ目を見張って直ぐに頷いた。後は野となれ山となれ――などと言うつもりはないが。何を疑うでも無くゆっくり休めと言って天幕を出て行くクロムと、その彼の後に続くスミア。
些か不自然だったかもしれないが、二人を遠ざけたのは自分の意志、意図して告げた言葉だ。何の後悔もあるはずが――
「ん?」
そこまで考えて、ははたと身体の動きを止めた。
……もしかしてこれってチャンス?