砕かれた日常 Y
その名を――否、声を。
聞いた瞬間、何故かは泣きたくなった。
何故だかは分からない。だが、その姿を直に目にした瞬間に直感したのだ。
(私は……この子を知っている……)
喪った過去に出会ったことがあるのか、もしくはこれから先の未来で出逢ったことがあったのか。
そう、まるでクロムと出会った時のような懐かしい既視感――
(知って、いる。間違いない、この子は、私の――――!!)
「……古の、英知王と同じ名だな。マルス、か。確かに名に恥じぬいい腕だ。」
クロムの言葉にはた、と我に返る。喉元まで出かかっていた言葉が、まるで霞のように跡形も無く消え失せてしまった。
だが、分かる。たった一つ、確かなことだけは。
「……いや、僕のことはいい。それよりも、この世界にはこれから大きな災いが訪れようとしている……」
同じ剣士として素直に称賛する腕の持ち主が、クロムの言葉を遮った。予言のような内容に、クロムやリズが目を見開く。
「これはその、ほんの予兆――前兆にしか過ぎない。……どうか、気を付けて。」
自らの告げるべき言葉だけを告げて踵を返した少年に、リズが真っ先に我に返った。
「あ、ま………」
「待って。」
引き留めようとしたリズの声と重なって、それまで一言も口を開かなかったの声が少年に向けられた。
リズの声には全く反応しなかった少年の足取りが、まるで地面に縫い付けられたようにぴたりと止まる。
「?」
居並ぶクロムとリズを抜き、ふらつく足を叱咤しながら少年に――マルスに、近づく。
が傍まで来てもマルスは振り向こうとも、動こうともしない。やや離れた位置のクロム達は気付かなかったかもしれないが、ほんの一、二歩まで歩みよったの目は誤魔化せなかった。動こうとしないのでは無い、動けないのだ。
「…………」
それでも振り向かないマルスに苦笑を零し、その正面に足を進める。身長はややの方が高い、成長期であろうことを考えるとすぐに追い抜かれてしまうかもしれないが。
「あ……」
覗きこむような形で屈みこんだを前に、若干マルスが身体を引いた。それを見たが困ったように微笑み、その仮面に覆われた顔に包み込むように両手を宛がった。こつん、と額同士を当て距離をほぼゼロまで近づける。
「………!」
マルスが息を飲むのが、仮面越しでも伝わってきた。頭痛が酷い。意識が今にも吹き飛びそうだったが、やらねばならぬことがある。少しでも意識が、『私』の意思が届く内に――
「ごめんなさい……気を、付けて。」
その言葉が届いたのは、マルスだけだっただろう。耳元でがその言葉を紡いだ瞬間、真紅の光が二人を――否、マルスを包み全身に収束していった。目的を遂げ、そもそも気力だけで意識を繋ぎ止めていたが、崩れるように倒れ込む。
「!?」
咄嗟に抱き留めたマルスのお陰で地面に激突することは無かったが、焦って思わず声を荒げたクロムに応えは返ってこなかった。
「、どうし……」
「さん!?」
「……静かに。気を、失っているだけです。」
の身体を抱え直したマルスが、駆け寄ってきたクロムとリズを制した。何故と問えば、今まで気力だけで意識を繋ぎ止めていたんでしょうとの冷静な応えが返ってくる。
確かにその兆候が無かったとは言えないが、出会って間もない相手にそれを指摘されるのはクロムにとって何やら面白くないものがあった。
「今の、
リズの言葉にクロムは怪訝そうに眉を寄せただけだったが、マルスは無言で頷いた。蒼白な顔のまま意識を失っているの頬に手をあて、手袋越しに伝わる体温の低さに固い声で呟く。
「無茶をする……貧血を、起こしているようです。」
「な……!?」
抱えた身体をクロムに手渡し、マルスは名残惜しそうに手を離した。顔色は悪いままだが、恐らくそう深刻なものでは無いだろうと判断したからだ。
「……彼女のこと。どうか、よろしくお願いします。」
それだけ言い残すと、マルスは今度こそ踵を返した。全員が見守る中、足音すら無く再び木立の中へと消える。
「行っちゃった……」
直ぐに闇夜に紛れてしまった背中を見送ったリズが、ぽつりと呟いた。あまりにも唐突で、痕跡を残さない少年にどことなく哀しいものを感じて。
「さんのことをご存じなのでしょうか?」
「……かも、しれん。」
自らの腕の中でぐったりとしているを見やり、クロムも同意する。マルスがまるでその存在を確かめるかの様に触れた手付きに、鬱屈とした感情がクロムの中に燻った。その感情が何なのか、何故生まれたのか。原因には全く心当たりが無かったが。
「……あ。雨……」
ポツリ、と頬を打った感触に空を見上げたソワレが呟く。先ほどが言っていた通り、雨雲が西の方角から広がってきていた。
「クロム様。」
「ああ。」
フレデリクの促しを受け、クロムが頷く。をマントの中に包み、抱え直すと全員の顔を見渡した。
「皆、怪我は無いな?思わぬ時間を食ったが、このまま王都へ戻るぞ。」
クロムの言葉に、各々が頷く。異論が出そうな人物が若干一名いはしたが、目下彼女は人事不省中だ。問題無しとばかりに、雨除けのマントをの身体にかけ直す。
「王都の様子も気がかりです。急いで戻りましょう!」
急いたフレデリクの言葉に、全員の顔に緊張が走る。確かに、あの化物が王都を襲撃していないとも限らない。
雨によって周囲の熱気が徐々に下がって行く原野を後に、一行は王都への道を急いだのだった。