小さな自警団 Z
一体私が何をした、と言うのが本音であった。加えて、一体どこで何をどう間違った、とも。
「………」
皺一つ染み一つ無い真っ白なクロス。端から端まで全力疾走が必要なんじゃないかと思えるくらいに長いテーブル。所狭しと料理が並べられ、燭台には暖かな光が揺れている。入口から最も遠い、つまりは上座にこの世の者とは思えない美貌を湛えた女性が鎮座し、その彼女にほど近い場所が数席分空になっていた。遠目で数えたところ数は三。クロムとリズと――あれ?おかしいな一人分余計じゃない?
その他の場所は仰々しい装いをした青年やら中年やらが隙間無く陣取っていて、不躾としか言いようの無い視線をこちらに投げつけている――何かちょっと足が自然と出口に向かってしまってもしょうがない状況ではなかろうか。
「……逃げるなよ。」
仕草一つで何を考えているのかをずばりと見抜いたクロムに恨みがましい視線を送り、は場違いもいい所に身を置いている我が身を非常に憐れんだ。これが憐れまずにいられるか。胸や腹を容赦なく圧迫する下着を即刻脱ぎ払い、拷問のように足を締め付ける踵の細く高い靴を脱ぎ棄てられたらどんなに幸せか――けれど喉元まで出かかった抗議の数々を飲み下し、時間ですと差し伸べられたフレデリクの腕を無言で取って。
それはある種の戦場と言っても過言ではない。
多くの人間の思惑渦巻く晩餐の席――装いも新たに、は足を踏み入れたのだった。
時は若干遡る――
「は?晩餐会?」
何それ食べれるもの的に聞き返したに、クロムは自分の予想が現実とそう違わないことを早々に悟った。
「ああ。姉さんがお前を招待したいと――って、どこに行く。」
「すいません、クロムさん。私急用を思い立ったので、これで失礼します。件の軍師のことは、どうか綺麗さっぱり諦めてください。」
「待て待て待て待て。気持ちは分から無いでもないが、ちょっと待て。」
身体を翻そうとしたの両腕をがっちり掴み、簡単には逃げられないように拘束する。途端に恨みがましそうな視線を向けられたが、ここで逃がしてなるものかとその視線を真っ向から受け止めた。
「正式なものじゃ無い。ごくごく身内の、簡単なものだしそんなに気負うほどのものじゃ……」
「クロムさん、私の言ったこと覚えていらっしゃいます?」
「色々言ってたな。覚えてはいるぞ、たぶん。」
途端にため息を吐いたに、お前も大概諦めが悪いなと他人事のようにクロムが呟く。正真正銘他人事だが、関わっているのが実姉なのだ。もう少し危機感を持てと言うのは、間違いではないはずだ。
「それにもう着替えているじゃないか。」
「好きで着替えたわけじゃないんです。浴室から出たら、女官の皆さんが待ち構えていてあれよあれよの内に着せ替え人形にさせられたんです。」
その時のことを思い出したのか、が一際大きなため息を吐く。エメリナとその意を受けた女官長は実に周到だった。が浴室で暢気に鼻歌を歌っている間に自分で用意していた着替えは洗濯室に放り込まれ、下着から服に至るまで彼女達の用意したものを着用せざるを得ない状況を作り出したのだ。最初はほんの数着、しかし着替えあせる素材が実に腕の奮いがいがあると認識した途端、持ち込まれた服の数が倍以上に膨れ上がったのだった。その時点でドレスに掛ける彼女達の恐ろしい陰謀に気付いたは、その時着せられていた若草色を基調としたドレス姿のままほうほうの体で逃げ出してきたのである。
「それは……大変だったな。」
「全くです……」
クロム自身にも身に覚えのあった災難に同情を覚えれば、も肩をがっくりと落とす。
「まだ途中なんじゃない?」
「もう充分ですよ、リズさん。これ以上どこをどう弄るんですか……」
は充分だと言ったが、リズからすればもう少し手を加えたいのが本音だ。元々癖のある黒髪が水気を帯びたままなのもいただけない。そんなことを考えながら、ふとリズは傍らの兄を見上げた。
「…………」
何でも無いような顔を装ってはいるが、耳は赤いし目はきょろきょろと落ち着かな気で鼻もひくひくと動いている。
一見して挙動不審、一見せずとも挙動不審な兄の様子に、リズはにや〜と非常に心臓に悪い(誰の、とは敢えて言わないが)笑みを零した。何が女に見えないだ、と憎まれ口以外の何物でもない件の暴言を思い出してむくむくとリズの中で悪戯心が頭を擡げる。
「ダメダメ、さん!やるなら最後までしっかりやらないと〜!」
「リ、リズさん!?」
「女官達はどこかな〜?あ、いたいた!こっちこっち〜!」
逃げ出した客人を探していたのだろう。味方の裏切りを察したが顔色を変えたが、勝手知ったる何とやら。女官を手招いてあっさりとイケニエの羔を差し出してしまった。
「こちらに居られましたのですね。さ、まだお支度が済んでおりません。様、こちらへ。」
「ね。ね。私も行っていい?別の色のドレスも見てみたい!」
「リズさん……」
ついでに私も着替えよ〜と暢気なリズとは対照的に、は本気で青ざめている。最後の頼みとばかりにクロムを見るが、諦めろと無言の応えが返ってきた。 王家の一員たる彼でも、否一員であるからこそ逆らってはいけない相手というものを熟知している。
「いえ、あの。わ、私、本当にもう十分で……!!」
両脇をリズと女官に固められながら、有無を言わせてもらえずずるずると連行される。クロムはと言うと迷わず成仏しろ、とばかりに両手を合わせその後姿を見送るに留まる。
これが約一刻前の出来事であった。
「皆の健康と一日も早い平和を願って―――」
状況が状況なだけに乾杯とは言わず、エメリナの言上に合わせて一同がグラスを掲げた。
注がれた液体を軽く干し、各自が着席する。これ以降は前もって無礼講の示唆がしてあったため、出席者は各々歓談を始めたのだった。
(一体なんでこうなった……?)
一見和やかな、けれど実情は全く異なる晩餐の席で、は張り付けた笑顔が崩れぬよう細心の注意を払いながら心中で呟いた。なんで、と言うよりどこでと言うべきなのか。
イーリスの南の道で行き倒れているところをクロム達に助けられ、行きがかりで山賊退治に手を貸し、自分一人なら絶対避けて通った国家規模の厄介事に巻き込まれ――
(ふ………)
、思わず遠い目。無論、したつもりだけである。こんな人目のある場所で目立つ(地を晒す)ような阿呆な真似をするつもりは毛頭無い。
音は極力立てず、食べる速度は決して早くも遅くもなく。人の会話に聞き耳を立てるような真似はせず、かと言って食事だけに集中するようなこともしない。
晩餐の席に於けるマナーを完璧に守り、とにかくこの時間が何事も無く過ぎるのをただひたすら待つ――
「ところでさん。」
はずだった。
今までクロムやリズ、そして割合上座に近い家臣らと他愛の無い話を交わしていたエメリナが、唐突に彼女の名を呼ぶまでは。
「はい。何でしょう、エメリナ様。」
呼ばれたからには答えないわけにはいかない。は食事をしていた手を流れるような所作で休め、エメリナの方へと向き直った。
「イーリスには初めていらしたのでしょう?如何でしたか、この国は。」
「……はぁ。」
唐突に振られた話題に面食らったと言うのが正直なところだ。それに質問の内容も内容、まさか面と向かって問題山積ですねと言うわけにもいかない。とりあえずは無難な方向から攻めることにした。
「そうですね……気候は穏やかで、人が生活するには適した土地ではありますね。王都は流通の要所を担い商業が盛んで、地方に行くほど農耕・牧畜を担う面積が増えていく。それも決して無秩序に行われているのではなく、その場その場に適した開墾が行われている――」
「では、それを支えているのが何かはお分かりになりますか?」
「水、ではありませんか。この国は水源が豊富なよう、商・工・農のどれをとっても水は不可欠。その確保が容易であれば容易であるほど、国の発展には拍車がかかりますから。」
当たり障りの無い、だがが見たまま感じたままの感想だ。水の確保と言うものは、人が思っている以上に商業・産業にとって重要なことなのである。それを如何に早く確保できるかによって、安定・発展が決まると言っても過言では無い。
「……流石はお一人で諸国を回っていらっしゃるだけあります。とても鋭い観察眼をお持ちのようですね。」
「……恐れ入ります。」
流浪であることは間違いないがその記憶は綺麗さっぱり消えてますが、とは思いはしたが口は噤んだ。この質問の奥に隠されたエメリナの意図――それを見極めるために。
「その貴女の目から見て――再度、お尋ねします。この国をどう思われますか?正しく言うのなら、この国の現状を。」
「………」
つまりお為ごかしはいい、と言うことか。が若干視線を鋭くすれば、それを受けたエメリナが平素と同じ微笑みを返してきた。なるほど。
「そうですね……ご無礼を承知で申し上げるなら……」
「構いません。諫言は耳に痛いもの。特に私のような若輩は進んで寒風に身を晒さねばならぬでしょう。いかにそれが我が身を突き刺そうとも。」
王と客人の間の会話に割り込むような不調法者はいなかったが、興味は抑えきれないのだろう。いつの間にか周囲の会話は途絶え、食器の重なる音すら消えていた。痛いような沈黙の中、己に振られた役割に辟易しながらもは口を開いた。
「そうですね……言葉は悪いかもしれませんが、とても歪な国だと。」
「な……!」
そこかしこで非難が上がりかけるが、それはエメリナが視線によって制した。
「歪、とは?」
「本来、政治と宗教は明確な線引きをされているはず。宗教国家ならいざ知らず、国政に宗教が絡むとかなりの高確率で血の雨が降りますから。」
「……確かに、仰られる通りですね。」
「ですが、貴国はその線引きがとても曖昧に思えました。
「何たる無礼!!」
誰もが会話の内容に呆気に取られていると、の言葉を途中で遮る声が上がった。クロムやリズがそちらを向けば、顔を真っ赤にしたトーラス大神官が卓を叩かんばかりの勢いで立ち上がったところだった。
「先程から黙って聞いておれば、たかが流浪の女が知った口を……!イーリスは竜神ナーガの守護を受けたる神聖な国、その神を冒涜するような真似が赦されると思うてか!」
激高して口泡を飛ばす老神官を前に、エメリナにちらりと視線だけを流す。果たして彼女からは、間近の距離でしか分からない程度の肯定の意が返された。
「それは大変失礼しました。ですが、私は外側から見た客観的な事実をお話ししたのみ。聖王陛下におかれましても、諫言は耳に痛いものと仰られておりますが。」
「陛下の御名を利用するとは益々もって不敬!エメリナ様は邪竜ギムレーをうち倒しし英雄、建国の父を血親に持ちしお方ですぞ!その方の名を詭弁に使うとは……!!」」
馬鹿かこの親父は、と内心呆れながらも口走ったことはしっかりと利用させて貰おうと思考を巡らせる。エメリナを庇うような風を装いながらも、その実彼が声高に否定しているのは教団の、又は自分への非難に対する激昂だ。この程度の小物が組織のトップに近い場を占めているのなら、案外善良な組織なのかもしれないが。
「流石は大神官殿ですね。私の言わんとせしことを、言外にお察しいただけるとは。」
「な……何と?」
「仰られたではありませんか。その昔、建国の父祖たる御方――
「そ、それは……!!」
間違いではない。伝承では神竜ナーガの加護を受けた一人の人間が邪竜を撃ち倒し、イーリスを建てたとある。その加護を授けた神竜ナーガを奉ずる教えを国教として。云わば彼が、現在の教団の大元を創ったのだ。
「人の心は弱く、うつろい易いもの。それを纏め、安らかせておられるのは大神官殿を始めたとした、神職の方々ではありませんか。決して居るか居ないか分からない神などでは無く。」
「む、無論それが我らの務め。だが、それ故ナーガ様を軽んずることなど……!!」
「軽んじてなどおりません。そうでございましょう?神の御名は神のもの。その名を唱え、他者に礼を強要するなど神職たる方々がなさる筈がないのですから。同じように、神をあてにしていない私も。」
正に慇懃無礼と言う言葉がぴったりと当て嵌る、実に巧みな誘導だった。
に言わせれば他力本願も良いところ。この国が危機に陥れば何処からともなくナーガ神が姿を現し人々を救うとでも思っているのかと、是非にでも聞きたいところではあった。だがそれを実際に口にするつもりも必要も最早無い。信仰の威信を借りての政治への口出しを――少なくとも当分の間は――この僅かなやり取りだけで、罷り通すことを封じたからだ。
「殿、と仰ったか。貴殿はナーガ神を信じておられぬと?」
大神官の地位を借りた老獪な狸を鮮やかに黙らせた女性に興味を惹かれたのか、派閥から言えば件の大神官とは間反対いるオーベル将軍が慎重に尋ねた。政敵とも言える相手の陥落に警戒の念を持たないはずがないのに、口を挟んだのは偏に彼の好奇心故だろう。その好奇心は、猫をも殺すと言うのに。
「イーリスの方々にとってはさぞご不快に思われるやもしれませんが、そうですね……ナーガ神に限らず神を信じているか、と言う問いに関しては否とお答えさせて頂きますわ。将軍閣下。」
「では、貴殿は何を信じ日々を過ごされておられる?」
特に気負う風でも無く、あっさりと返した娘を利用できるとでも感じたのだろうか。あからさまに警戒色を薄れさせた表情に、阿呆かこいつはと胸中だけで呟く。将軍と言う地位にある以上多少の腹芸は身に付けているかと思いきや、こうもはっきりとその意図を読ませてしまうようでは問題になるようなレベルでは無い。信仰などに重きを置いていないと言った時点で自らと同類と見做すなど甚だ浅慮、むしろにしてみれば大概に失礼な御仁である。
「……質問に質問で返すのは不躾と存じますが、私からお答えする前に多くの兵卒を束ねる立場でいらっしゃる御身は何を信じておられるのか。伺っても宜しいでしょうか。」
イーリスの国将たるもの、ナーガへの信仰を持っていないと口が裂けても言うはずが無い。分かっていることをわざわざ問うに、訝しげな表情を浮かべる。察しの悪い男に対し、本来なら浮かべるであろう表情を隠し彼女は苦笑を零しながら彼女は続けた。
「この国に軍と呼べる規模のものは無いとクロム殿下から伺っております。ですが、国に限らず武によってでしか守れぬものも多々あるはずです。その矢面に立たれる御身とされましては、何をお信じになっていられるのでしょうかと。」
ここで迂闊な発言をすれば、大神官の二の舞。軍とは呼べぬ規模の、しかし将軍と呼ばれるまでに至った身としてはそれ相応の腹芸も心得ている。どんな答えに対しての質問にも答えられるよう、頭の中で回答を張り巡らせながら彼は口を開いた。
「無論、我らは神竜ナーガを奉じる国の民。いついかなる時もそのご慈悲を疑ったことはございませぬが……我らは武人、やはり戦場では共に戦う兵卒を、部下を信じておりますれば。」
将軍に近しい者達が心得たように頷けば、も輝くような笑顔を張り付けて彼らに同意した。
「左様でございますか。やはり小なりとはいえ、武人たる方々のご炯眼には感服させられます。戦いにおいて量より質が大事であると、本質を鋭く見抜いておられますもの。」
「は……?」
小なり、と称したのはの少々の嫌がらせ故である。為政者の本分を見失って自身や派閥の利潤追求に感けるような俗物のせいでこんな場に引きずり出された自分の為の。
「あら、だってそうでございましょう?兵とは、それ相応に鍛錬を積み互いに信を築いた者達のみをそう呼びます。若輩ながら私も戦術を嗜む身、ただ数を揃える為だけに徴収した烏合の衆などものの数に入らぬと存じておりますもの。」
「そ、それはそうですが……!」
しまった、とオーベル将軍の顔が引きつった。普段から軍備増強を主張し、ことあるごとにトーラス大神官やらと衝突してきた彼である。この度の有事に際し、徴兵とそれに伴う予算拡充を願い出ようとしていたのだ。それが。
その出自さえ明らかでないこんな小娘の奸計で、全てが水の泡と化してしまった。そう憤ってももう遅い。何とかして時計の針を元に戻さねばと各陣営が思考をフル回転させていると。
「……私からも。」
それまで沈黙を保っていた、この場を導いたであろう張本人が厳かに口を開いた。
「重ねてお尋ねしましょう。さん。神を信じぬと仰られた、その貴女の胸には。一体何が住まわれておられますか?」
エメリナの問いに、張り付けていた笑顔を取り払ってが視線を向ける。彼女の望む結果は出したと思うが、まだ不足しているのかと視線で問えばいいえと頭を左右に振る。
「女の身でありながら、諸国を回り見聞を広げる……口で言うほど、容易いものでは無い筈です。巡礼の者は女性とておりましょうが、貴女はそれですらないと言われる。では何故。そして、何が貴女の背を押し、そしてその歩みを扶けるのか。失礼かとは思いますが、私自身が聞いてみたいのです。」
それは王としてではなく、エメリナと言うただ一人の女としての問いかけだった。
にもそれが分かったのだろう、ふ、と表情を緩めるとさして気負うでもなく口を開いた。
「神は人を救いません。……少なくとも、私は今までそんな事態にお目にかかったことはありません。人を扶けるのは人でしかない。――人を傷つけるのが、人でしかないように。……これで、答えになっておりましょうか。」
耳朶を打つ静かな声と言葉に、エメリナはそれを噛み締めるかのように目を伏せ暫くしてから頷いた。ピクリ、とが小さく身動ぎする。
「十分です。……さん。貴女は神を信じていないと仰られましたが、私はその神に感謝をしたく思います。」
王としても、ただ一人の『
「貴女という女性に出会う奇跡を――その、采配をして下さった。我らの、神に。」
晩餐の名を借りた政調の幕が、今、漸く下ろされたのだった。