小さな自警団 \
イーリス王宮にはいくつか庭と呼ばれる場所が存在しているが、その中にエメリナの私的と呼んでいい庭が一つ存在した。
中庭と称される位置にあるそのこじんまりとした庭は、彼女が自身の家族と共に過ごしたり一人きりで思考に耽る際に主に使用される特別にして何の変哲も無い場だった。
彼女の護衛として常時傍らに侍るフィレインも、この場所にはそう頻繁に足を踏み入れないでいる。
だが晩餐の名を借りた政治調整が終わった後、フィレインはその庭の主から夜の散歩へと召し出されたのだった。
彼女の主が息を吐ける数少ない場所と知っていたので、最初は固辞したフィレインだったが何故か今夜に限ってエメリナは譲らず、今こうして夜の庭を歩く彼女の後ろを付き従う形でいるのだが。
「良い風でございますね、エメリナ様。」
「そうね。暑くもなく寒くもなく、一所に籠ってもいない……」
美しく剪定された木々、主人に愛でられるのを今か今かと心待ちにしている花々。万が一でも間者が身を潜めることのできぬよう、影のできぬように計算されつくされた人造の庭。けれど佇む者にはそんなことなど微塵も感じさせない、人の手による芸術の結晶だった。
だから、その場に人の気配があるなど。あるはずもない――否、あってはならぬ事なのだ。
敷かれた小道を抜ければ、休憩用のテーブルとイスが備え付けられている。その道の途中、もうすぐ終点に至る道の最中で、フィレインはその警戒を一息かつ最大限にまで引き上げた。前方に、人の気配がある。加えて人影らしきものさえ――
「何者っ!?」
咄嗟にエメリナを背後に庇い、いつ何時でも反撃できるよう抜刀する。天馬騎士である彼女の視力はかなり良い、この位置からであってもその人影の動きを捉えるのは容易かった。
「何者かと……」
「フィレイン。」
主を守りながら侵入者を誰何するフィレインを、だがしかしその当の主――エメリナの繊手が抑えた。何をと、彼女の顔を仰ぎ見れば常の穏やかな表情がそこにあって。
「良いのです。私がお招きしたのですから。」
「は?」
「大丈夫です、剣を収めなさい。フィレイン。」
続くエメリナの声とその内容に、正直フィレインは戸惑いを隠せなかった。こんな時分、護衛も自分たった一人で誰を招いたと言うのか。警戒するフィレインを尻目に、エメリナはその背後から抜け出すと躊躇いもなく小道を再び辿り始めた。
「エメリナ様!!」
「静かに、フィレイン。私達の声が外に漏れぬよう配慮はして下さってるようですが、それでも万一のことがあります。」
「……大丈夫ですよ。声の聞こえる範囲、姿を目視できる距離に人影はありませんから。」
前方から聞こえてきた声に、フィレインは驚愕のあまり目を見開いた。この耳に心地良いメゾ・アルトの声は――
「ご配慮、痛み入ります。」
「……こちらこそ。再度のお招き、ありがとうございます――エメリナ様。」
薄物に身を包んだが、幾分困った様子で佇んでいたのだった。
「申し訳ありません。遅くなってしまって。」
「いいえ。お気になさらず。この庭の木々は見る者に時間を忘れさせてくれますので。」
「ふふ。ありがとう。庭師もきっと喜びますわ。」
驚いたままのフィレインをそこに残し、エメリナは設えられたテーブルの傍らまで来ると同じように立礼を返した。そしてそのままに椅子を勧め、自らも腰を下ろす。
「エ、エメリナ様……!?」
「何でしょう、フィレイン。ああ、貴女もお掛けなさい。」
エメリナに椅子を勧められ、いやそういう問題ではと二の句が告げられないでいる。ぱくぱくと言葉を失ったままの女騎士に、は若干気の毒そうな視線を送った。
(何も聞かされてなかったのか……)
まぁ当然と言えば当然なのだが。どこに聞き耳が立っているのか分からない以上、余計なことなど言わないのが当たり前だ。特に王と言う立場であれば、尚のこと。
「急にお呼び立てしてしまって、ごめんなさいね。何か不足しているようなことはありませんか?」
「いいえ。お貸し下さった部屋一つとっても、私のような流浪の身には過ぎたるもの。十分過ぎるほどです。」
テーブルを挟んで相対した二人の女性は、王と平民――流浪の身であることなど全く頓着していないように会話を交わしている。頭を抱えたのはフィレインだ。エメリナはを招いたと言い、それだけならまだ納得できないでもない。だが。
「不躾ながら、お尋ねします。殿。」
「はい。何でしょう、フィレインさん。」
声が硬く、若干震えそうになるのを気力で押し込む。取り乱すべきではない、そうは分かっていても。
「一体、どうやってここまでいらしたのですか……!?」
動揺するなと言うのが無理な話だ。この庭は、言ってしまえば開かれた密室であるのだから。
この庭に至る扉はしっかりと施錠されていた。それは他ならぬフィレイン自身が確認している。鍵の管理はエメリナ自身とフィレイン、女官長のみが任されており、何人たりとも王の私的な空間にその許しが無ければ足を踏み入れることなどできぬはずなのだ。それなのに、何故。
「ああ。それですか。答えは簡単です。あちらから。」
あちら、と本当に何でもないことのように応えるの指示した先を、フィレインは視線で辿る。指の先――上空を。
「…………」
開け放たれた窓、風に絹のカーテンが踊っている。
階数にして、三、フィレインの記憶が確かなら、あそこは。あの場所は。
彼女が逗留しているはずの――翡翠の間だった。
「フィレイン?どうかしましたか?」
どうかしましたかどころの騒ぎでは無い。三階から飛び降りて何故無傷なのかとか、いやそもそも客人が王の私的な空間に飛び込んでいいものなのかとか(良いはずが無い。常識的に)、色々言いたいことがあり過ぎて言葉にならないのが現状で。
「……結構、ご苦労されてるんですね。フィレインさん。」
うっかり零れた同情の色濃く滲む声に絆されてしまったなど――口が裂けても言えなかった。