小さな自警団 ]
「本当はお茶の一つでも用意できればよかったのですが……」
「ああ、どうぞ。本当にお構いなく。むしろ余計なことを頼んでは、わざわざこの場所と時間を指定された意味が無くなってしまいます。」
の答えに安堵したのか、エメリナはありがとうと一つ微笑むと、もう一つ礼を述べるべきことを思い出した。
「それから、晩餐の席でのことも。おかげで、ことをスムーズに運ぶことができます。」
「お役に立てたなら何よりです。ご希望されている内容に確証はありませんでしたが、あれで宜しかったのですか?」
「ええ。十分です。少なくとも、今回の事案を通すには。」
そうですか、と頷くに恐縮しながら席に着いたフィレインが不思議そうな表情をした。内容から察するに、件の晩餐の席でのの会話はエメリナから示唆されてものだと聞こえるのだが。
そんなフィレインの疑問を察したのだろう。が苦笑しながら、彼女の無言の問いに答えた。
「取れる手段は一つだけだと言うのに、それを自己の利と都合で認めないお歴々にご自身の立場を自覚して頂いたんです。いつまでも茶番に付き合っていたのでは、時間がいくらあっても足りませんからね。それに、時間が経てば経つだけ取り巻いている状況も変化します。最悪、その手段すら取れなくなる場合とてあるんですから。」
まぁ多少鬱憤晴らしが混じっていたのは否定しませんが、と締めくくったに、フィレインが目を丸くした。彼女の言った通りだとしたら、エメリナが採ろうとしている内容が漏れていることになる。
「ああ、でも勘違いなさらないで下さいね。エメリナ様がお考えになってる内容など、私は知りませんから。」
「ご、ご存じ無い、とは……」
「そのままの意味です。エメリナ様が何を考え、どういう結果をお求めになられているかなど私が知る余地など無いでしょう?私はただの流浪の身。こうして御前に罷り出ることなど、考えてもいなかったんですから。」
「それは……」
確かにと頷くが、それでもあの場の流れを思い出せばそれすら疑わしくなってしまう。事前に情報を知っていれば、と考えて、しかしそれすら無意味だとフィレインは自身の出した結論に驚愕する。
結果的にではあるものの、
「ではさん。貴女の仰る、取れる唯一の手段と言うものをお聞きしてもよろしいでしょうか。」
「……お分かりになっているのに、聞かないで下さい。エメリナ様。」
「ふふ、ごめんなさい。でも、私も興味があるのです。」
悪戯っぽく笑うエメリナに驚かされながらも、フィレインも興味を覚えずにはいられなかった。王弟であるクロムが拾ってきたという、身元すら定かではない記憶すら無いと言う女性。彼女が一体何者で――何を考え、そして敵なのか味方なのか。
ここまで来れば、フィレインも肚を括らずには居られない。毒を喰らわば皿まで――などと言うつもりはないが。
「あくまで私だったら、と言う仮定で言わせて頂きますが。無い袖は振れないんです。――だったら、ある場所から借りるしか無いでしょう。」
具体的な名は挙げず、だがこれ以上無いと言うほどに的確な答えだった。それを聞いたエメリナが、スと目を細める。
「勝算はいかがです?」
「交渉次第、と言うのが現時点での答えですね。生憎と、私には相手側の情報が皆無と言っていい程に少ない。ですが、現状を鑑みるに全くのゼロ、と言うことは無いと思います。」
「……質問を変えましょうか。十分に情報があり、尚且つ現状を維持したままであれば――」
「確実、とは言えませんが、ある程度の結果なら出せるでしょう。人選にも因りますが。」
何も言葉遊びをしているのでは無い。互いに互いの肚の裡を探りながら――否、知りながらの確認だ。これから先へと繋げる為の。
「ところでエメリナ様。」
「はい。何でしょう?」
と、突然がその場の空気を壊すような声音でエメリナを呼んだ。エメリナもエメリナで、纏う空気を瞬時に変えて僅かに首を傾げた。
「ご無礼を承知でお伺いしてもよろしいでしょうか。」
「ええ、勿論。私がお招きしたのです。どうぞ、仰ってくださいな。」
「……左様ですか。では。」
言うなりはその姿に似つかわしく無い絹地の手袋、その右手側だけを引き抜いた。驚くフィレインの前で、その下に隠されていたものが晒される。
「これは……」
「これが何か。ご存じありませんか。」
手袋の下から現れたのは、右手の甲に赤く浮かび上がった痣のような文様。一見して蝶の様な――いや、何かの瞳だろうか。重なり合うように広がるそれに、フィレインは一瞬背筋が冷えるのを感じた。
「……クロムさんが仰られた通り、私には記憶がありません。彼と出会う以前の記憶がすっぽりと。所持品や、私自身にその手掛かりが無いかと色々と調べてはみたのですが。」
「……それらしきものは何も無かった?」
エメリナの問いにが頷く。人目に晒すことに抵抗があるのか差し出していた右手を引っ込め、まるで隠すように握り込んだ。
「何故、それを私に?」
「……失礼ながら。」
「構いません。仰ってください。」
「エメリナ様の額と、クロムさんの右肩……リズさんには出ていないと、そうご本人が仰ってましたが。」
の言葉に、エメリナとフィレインですら目を見開いた。かの少女のコンプレックス以外の何物でもない事実を、当の本人から告げられたと聞いて。
「形こそ違え、似ていると思いました。クロムさんご自身は特に気にしておられぬようでしたが――係累のみに現れるのだと言うそれが、彼の出自を知った今では手掛かりになるように思えて仕方ないのです。」
「……もう一度、拝見してもよろしいですか。」
「はい。」
差し出される右手。エメリナはそれに片手を添えると、じっくりと眺め出した。後から人為的に彫られたものでは無い。確かに彼女の言う通り自分達の一族に穿たれる聖痕と呼ばれる痣に、形こそ違え良く似ていた。
「……残念ながら。」
言葉を選びながら紡ぐエメリナに、が肩の力を抜く。
「私自身には見覚えの無い文様です。ですが、確かに。聖痕に良く似てはいますね……」
「……そうですか。」
エメリナから解放された右手を引っ込め、再び手袋を填める。期待をしていなかったと言えば嘘になる。だが直接王たる彼女からその言葉を聞けただけでも、十分とすべきなのだろうか。
「記憶を探されているのですね。」
「……ええ。正直、自分がどこの誰かも分からない言うのは、恐ろしく曖昧で――不安、なんです。私は、私が何者なのか。どこから来て、どこへ行くのか。行こうと、していたのか。――それが、知りたい。」
不安で不安で、毎夜目を閉じることさえ恐ろしい。毎朝目が覚める度、自分の事を――そして出会った彼らの事を。覚えていると安堵し、夜が来る度に怯えなければならない今を、このまま続けられるとは――否、続けたいとは思わない。
「さん?」
「あ……いえ、すいません。何でも、ありません。」
「そうですか?お疲れでしたら、もう今日は……」
「いいえ。大丈夫です。それに、まだ話は終わりでは無いのでしょう?」
「……お気付きでしたか。」
ええ、と頷くにフィレインも居住まいを正す。恐らく――これからが本題だ。
「驚きましたけどね。
「伝わってよかった。正直、きちんと伝わるかどうか不安でしたので。……ですが。」
「エメリナ様?」
言葉を濁したエメリナに、フィレインが訝しげな声を上げた。言葉を切った彼女は、目を伏せたままそれ以上を続けようとしない。
「やはり――許されぬことでしょう。私の望みに貴女を巻き込むのは。貴女自身に譲れぬ願いがあるのであれば、尚更に。」
伏せた目を開けどこか遠くを見るような表情をしたエメリナに、がピンと器用に片眉だけを跳ね上げた。注意深く見ずとも、彼女が自身の中で何事かを諦めたのが手に取るように分かる。
「エメリナ様。それは……」
「なるほど。」
フィレインの言葉を遮って、やや声を硬くしたがエメリナを見据える。思わずフィレインが無礼なと思ってしまう程に強い視線で。
「私にもよーーーっく、分かりました。――この国には馬鹿かヘタレな男しか居ないと言うことが。」
「は!?」
いきなり変な方向へぶっ飛んだの言葉に、フィレインが素っ頓狂な声を上げる。だがはそんな彼女の様子には頓着せず、むしろ視線の力を増量させエメリナの瞳を捉えた。
「エメリナ様。貴女はそう言って一体今までどれほどのものを諦め、また失ってこられたのです。王座は貴女に孤独を強いるだけのものでは無いはず。そんなことも分からないその辺の馬鹿やヘタレと私を一緒にしないで頂けますか。仮に私が男であったら、とうの昔に貴女をこの国から掻っ攫ってます。――その程度の甲斐性も持ち合わせずに、女をやっていられますか!!」
理屈が通っているようないないようなの言葉にフィレインは絶句し、エメリナはしばし呆気にとられて目を丸くしていたが、やがて口元を抑え肩を大きく震わせ始めた。
「エ、エメリナ様!?」
これまで陰日向無くエメリナに仕えてきたフィレインだったが、その彼女ですら初めて見た姿であった。
――湧いてくる笑いを堪え切れずに肩を震わせている主など。
いや自分以外にも見たことのある者などこのイーリスの中には居ないだろう。あまりの珍事に掛ける言葉が見つからないでいるフィレインを尻目に、漸く呼吸を整えたエメリナが顔を上げた。若干に涙の滲む目元を抑えながら、不条理とも思える啖呵を切った目の前の女性に視線を戻す。
「確かに。何故貴女が男性でなかったのか、私も是非に苦情を申し立てたいところですわ。」
誰に、とは言わず当然だ、とばかりに鼻を鳴らしたに、ふ。とエメリナが微笑む。
彼女と出会えたこの偶然を――何と呼べばいいのだろう。
いや、言葉にすれば簡単だろう。だがそんなありきたりな言葉では、今のこの感情を表現しきれない。王位を継ぐと決めたあの日から、継いだあの日からとうの昔に手に入らぬと諦めてしまっていた――それ。
彼女は神の存在を信じていないと言った。だが自分は、生まれて初めてそう呼ぶことを許してくれる彼女と出会わせてくれたことに感謝したい。だが本当に神と呼ばれる者が存在しないのならば――
「……イーリス王家には、代々、聖王のみに閲覧が許される古文書の類がそう、多くはありませんが存在します。」
ならば、それを手放さないだけの布石は。――努力は、すべきであろう。
「……つまり、クロムさんやリズさんはご存じない内容だと。」
「ええ。私も一通り目を通しました。ですが、それは王位を継承した昔のこと。当時の記憶が薄れている可能性も否めません。」
「閲覧は聖王のみに許された書物なのでしょう?」
「ですが、閲覧した内容を友に伝えてはならぬとの制約はありません。」
友、と呼ばれたが目を見開き、次いで表情が少しばかり困ったものになる。
「……私は流浪の、出自も分からぬ只人ですよ?」
「友となるのに、身分や出自が必要ですか?少なくとも私は、自身の損得関係無く私を諌めて下さる方をそれ以外に何と呼ぶのか存じ上げないものですから。」
「……流石はご姉弟でいらっしゃいます。クロムさんも相当な頑固者ですが、貴女も大概ですね。エメリナ様。」
「ふふ。ありがとう。」
褒めて無い、とため息を吐くだが、エメリナの言葉を撤回させる気にはなれなかった。何故なら。
それ程までに自分達は――恐ろしく隔たった身分でありながら――とてもよく似ていたから。
「
どこか遠い目をしながら、エメリナを見つめる。柔和な微笑を湛える彼女のその裏には一体どんな思いが封ぜられているのだろうか。
あの時の驚愕は、正直久しく感じていないものだった。自分と同じように精霊と言葉を交わすことのできる人物が居たこと――それが、この国の王であったこともそうだったのだが。
それよりも、を驚かせたのは
言伝そのものは私的に会いたいということだけだったが、その中に込められていたものはエメリナの感情――王としてではなく、一人の人間としての感情そのものだったのだ。
人に似て非なる精霊達は、異なるからこそ人の感情を理解できない。いや、理解できないのではなく我がものとして捉えられないのだ。それはある意味一種の知識のようなものであって、『感情』と名の付く『知識』を識っているというだけなのである。だからこそ大まかな意識相互は可能だが、どうしても伝えられないこと、齟齬が生じることがある。そして――そうであるが故に感情を歪めることなく、真っ直ぐに伝えることもできる。
その風の精霊達が言伝と共に伝えてきたのは―――孤独。
王であり、多くの臣民と家族に囲まれた女性と、記憶が無く過去はおろか今さえ不確かな流浪の女。
比べることすら烏滸がましいとあの大神官辺りなら言うだろうが、だが偽らざる彼女の感情を知ってしまった以上無視することなどできなかった。
形こそ違え同じく孤独を抱えるもの同士だからこそ気付いた――不思議な、友情。
「可笑しなことだとは思うのですが。」
「……そうですね。そうかもしれません。……本当に。どうして貴女が男性でなかったんでしょうね……」
「私が男であったら、今以上の厄介事になっていた気がしますよ。私にとっては僥倖と言うやつですかね。」
まぁひどい、と優雅に微笑むエメリナにも行儀悪く頬杖えを付きながら苦笑を返す。
友と少しばかり緊張感のある会話を愉しむ――叶うならば、もう少し興じていたかったけれど。
「エメリナ様。」
居住まいを正したの視線が、正面のエメリナを捉える。
肚は括った。詭弁を弄してでも自分の望みに協力すると言ってくれた友に、今度は自分が応える番だろう。
それが、例え国家間に跨る恐ろしいほどの厄介事であったとしても。
「友として。私の望みを叶えるのに協力してくれると言った貴女に。私ができることはありますか?」
友であり、王である。たった一人のエメリナが望むことは。
「……ええ。貴女でなければできないことが。過酷な要求になりはしますが……」
「流浪の軍師として雇われるつもりはありませんでしたが、友の頼みなら話は別です。持ちうる限りの力で尽力すると誓いましょう――炎雷の魔女の名に懸けて。」
密約とも呼ぶべき似た者同士達が結んだ友誼を、空に瞬く星々が静かに見守っていた。