戦士の王国 \
「クロム様!!」
車輪が地面を食む音に重なって聞こえた声に、クロムがはたと顔を上げた。声の主は先程置き去りにしたスミアである。
しまったと言う表情が丸分かりのクロムの耳に、ぷ、と小さく吹き出す声が届いた。
誰だ、とは考えるまでも無い。じと目で犯人を睨み付ければ、当の犯人は再びクスクスと笑い出す薄情っぷり。絶対後で何か報復してやろうと考えながらも、クロムはとりあえずの右手を解放した。背格好の関係上、少しばかり上方へ引っ張られる形になっていた彼女の足が漸く地面を踏む。否踏んだ、と思った次の瞬間だった。
「!?」
ぐらり、と歪んだ視界に逆らえず、踏み止まることができなかった。そのまま重力に従い、体が地面に倒れこむ。
「!?」
いや、まだ間近に居たクロムのお蔭で転倒だけは免れた。代わりに彼に抱きしめられるような形になり、だが今はそんなことに気を割く余裕など無く。
「大丈夫で……ちょっと、眩暈がしただけで……流石に、魔力……使い過ぎ……」
いつぞやのように昏倒に至るまででは無かったが、魔力の酷使による体温の低下と貧血を起こしかけているのだろう。自覚症状ができる分、さほど心配するようなものでは無いと思われたのだが。
「大丈夫なはずあるか!!全くお前はいつもいつも……!!リズ!!」
「分かってる!」
血が移るから離れてください、と腕の中から逃げようとしているの腰をだがしっかりと掴みクロムは叫ぶように妹を呼んだ。
この光景を真正面から目撃してしまったスミアの声無き悲鳴に、ああまた話がややこしくなりそうなどと全く関係の無いことに意識を回しながら――ふと、は動きを止めた。
「?」
どうした、とクロムが尋ねるが返答は無い。
明後日の方向を視ているその様子に、彼女が再び風の精霊と視界を――意識を共有していることが伺えた。まさかまだ屍兵が、と身構えたクロムに当の本人が首を左右に振ってそれを否定する。
「違います……屍兵では……でも、それじゃ……?」
何、と呟く様子を間近で見ることになったクロムの全身に緊張が走った。理屈では無い。本能的な何かが――彼の背筋を、悪寒として走り抜けたのだ。
何よりも自由を愛する風の精霊、そしてその彼らに特に愛されている。
その身は確かに此処に、自分の腕の中に在る。だが心は。彼女の心は。今、全く異なる場所に在り、クロム以外の何者かに捕らわれてしまっている――そんな表情が。
駄目だ、と身体の奥で何かが叫ぶ。
「リズ、回復は後だ!!すぐここを離れ――」
る、と言おうとしたクロムの腕から温もりが消えた。馬鹿な、と思う間も無い。それこそ空気のようにその拘束から抜け出したが、やはり視線を宙に浮かせながらそれとは全く別方向の街道の先を指差していた。
「……ここから、四半刻ほど行った場所に拓けた場所があります。水場も近い、今日は思わぬ戦闘も入りました。少し早いですがそこで野営にしましょう。――アスラン!!」
早口で言葉を並べながらも、彼女の意識は既に此処には無い。
どこを見ているのか、何を見ているのか。――クロムには窺い知れぬ景色を見、そして捕らわれている。
落とすしかない、と咄嗟に腕を伸ばしたクロムの前で彼女は黒馬の名を呼び、伸ばされかけていた腕と彼女を遮るかのような勢いで駆け込んできた巨躯にひらりと跨った。
「!!待て、どこに……!!」
「先、行ってて下さい!!」
言うが早いか、拍車を掛けて走り去って行ってしまう。その視線が目指すのは街道を外れた場所に聳え立つ崖、普通の馬であれば登ることなどまず叶わない壁面だ。馬鹿な、と思う面々の前でその黒い巨体は岩肌に前足を掛け、軽々とその斜面を駆け上がっていく。瞬く間にその上部に到達し、鬱蒼と生い茂る木々の中へと姿を消した。
後に残されたクロムは勿論他の者達も、その姿を唖然と見送るしか無かったわけで。
「お、お兄ちゃん!ど、どうしよう!?さん行っちゃったよ!?」
「分かってる!フォルテ!!」
悲鳴じみたリズの声に応えたクロムが吠えた。先程置いてきぼりにされて若干腐っていた彼女ではあったが、その声に込められた意志に即座に応じ傍らに馳せる。物言いたげな視線に、軽く首を叩いて応えると彼もまた同じように馬上の人となった。
フレデリクやスミアが慌てて引き留めようとするが、無論大人しく聞くようなクロムでは無い。
「あいつは俺が連れ戻す!皆は先に出発してくれ!野営地で落ち合おう!!」
「クロム様!!」
やはりクロムも言うだけ言って、馬を走り出させてしまう。ただフォルテはアスランのように崖を登るなどの規格外の芸当はできないため、やや遠回りであっても街道沿いから伸びる緩やかな道を辿るしか術が無い。
「お待ちください、クロム様!!」
止める声を振り切って、クロムの姿も小さくなっていく。
後に残されたのは、先程と同様――文字通り置いてけぼりを喰らった仲間達で。
「……仕方ありません。さんはクロム様にお任せするとして、我々は移動しましょう。」
「で、でも……二人だけなのは……」
「大丈夫だよ、スミア。あの二人なら、大抵のことは問題無く退けて帰ってくるさ。」
フレデリクの提案に異を唱えかけたスミアを、ソワレが抑えた。いや、スミアが心配してるのはそういうことじゃなくてね、と思わず突っ込みそうになってしまった自分を、リズは意志の力で抑え込む。
他の面々は特に異存は無いらしい。ミリエルが若干ぶつぶつと独り言を零していたが、これは恐らく彼女の知的好奇心に纏わることと思われるので除外。ヴェイクやソールは、屍兵が落とした武器を見分するのに忙しく、ヴィオールに至ってはミリエルに酷使された馬の世話をするのに手一杯。余計な気を回している暇は無いようだった。
何やら色々な意味で面倒な旅になりそうだ――分かっていたはずだが、こうも目の前で起こられると改めて自覚させられざるを得ない。
複雑で似たような思いが各々の胸を過ったことは、幸か不幸か本人達のみしか与り知らぬ事実であった。