戦士の王国 ]


(待って……お願い、待って……!!)
一方、そんな複雑な団員の胸中など露知らず。は風の精霊の誘導に従いながら、足場と視界の悪い木立の中をひた走っていた。
正確に言うなら、ひた走る馬の背にしっかりと掴まっていたのだが。陽の光の入らぬ、密集した木立を馬で走り抜けるなど本来であれば正気の沙汰ではない。けれど、今はその一刻、一秒が惜しかった。
身体を低く、手綱は握りながらもアスランの逞しい首に縋りつくような形で。とにかく今は、彼と風の精霊達に任せてその場に辿りつくことだけを――間に合うことだけを祈っていた。
ぶるる、と密着させた身体の下でアスランが唸る。近い、と自らも知覚してたが薄らと目を開けた。凄まじい速さで流れていく周囲の景色、普段の風の精霊と一体になるような感覚では無い。彼らの間を分け入って、その先に進むようなある種の高揚感――
差し込む光に、木立の終点が近い事を知る。否、終点では無い。知覚が正しいのなら、そこは――

「待って!!」
抜けた、と肌で感じた瞬間、は声を張り上げていた。巨躯が抜けた先は、空き地(ギャップ)と呼ばれる一種の草地。木立の密集する地で、時折見かけられる唯一の平地だった。人に寿命があるように、木々にもまた寿命がある。理由は多々あれど、その身が倒れた後にできるのがこの空き地だ。生い茂る葉で作られる自然の天蓋を失ったそこには、普段遮られている陽の光が惜しみなく降り注ぎ、生育の過程上それが必要不可欠な生長の早い草木がそこを占拠してしまう。ヤシ類のような蔦性の植物が自生すれば話は別だが、そこはこの地を行き交う者達にとっての休息所となっていた。

躍り出た場所に、しかし人影は無い。だがは確信を持って更に続けた。

「お願い、待って!居るんでしょう!?出てきて――お願い、姿を見せて!!」
アスランを労うことも忘れ、必死に声を張り上げる。の視界の中にも人影は無い。だが、知覚の中には何かが――誰かの存在がはっきりと浮かび上がっていたのだ。
それが何なのか――それこそ、人なのか獣なのかも分からない。だが、分からなくても感じたのだ。直感的に。

「お願い!姿を見せて!!――教えて!あなたは誰!?私は――私を!知っているんでしょう!?」
『これ』は――自分(わたし)を知っている、と。


のその言葉が発せられた途端、それまで何の変哲も無かった周囲の空気が一変した。まだ陽もあり僅かに汗ばむ位の陽気だと言うのに、この地の空気がまるで深夜のそれに――急速に凍りついたのだ。
ぐるる、と背後でアスランの警戒する唸りが聞こえ、それに気付いたが背後に下がるよう手で合図をする。
しかし彼が下がる気配は感じられず、仕方なしには空き地に一歩、足を踏み入れた。

「知っているなら教えて。私――私は、誰?あなたは――?」
ぴり、と肌が戦慄く。最早冷気と呼ぶべき、凍てついた空気が辺り一帯を――を取り巻いていた。吐く息が白い、剥き出しの腕や足が寒さに凍える。だが、そんなことは今のにとって些末なことだった。

一歩、一歩、自らを知りたいと言う願い(いし)と知りたくないと言う恐怖(ほんのう)が鬩ぎ合う中、震える足で漸く空き地の中央へと進む。
アスランは動かない。いや、アスランだけでは無い。その場に居るはずの、姿の見えぬ小さな命達ですらその息を殺していた。
呼びかけに応えるつもりなのだろうか。彼女にしか知覚できない精密さで何かが織りなされていくのを感じる。
魔力の塊のような、意志の集合体のような―――

「あなたは――」
誰、と尋ねようとした、次の瞬間だった。


!!」
乱入してきたその声に、その場の空気が急速に萎んで行く。弾かれるように声のした方向を振り向けば、そこには何故か此処に居る筈の――居るべきでは無い男の姿が。思わずクロムさん、と呟けば途端に消えていくその独特な気配。

「……待って!!」
それを敏感に察知し、なりふり構わずその気配を追いかけようとが走り出す。――否。走り出そうと、した。

「馬鹿!!どこに行く気だ!?」
いつの間に馬を下りたのか、駆け出そうとしたその身をクロムがしっかりと抱き留めたのだ。はっと動きを阻止した相手の顔を見上げるが、だがそれも束の間、直ぐにその拘束から抜け出そうと身を捩り出す。

「ク、クロムさん!お願いですから、離して下さい!行っちゃう……!!」
「だから、待て!少し落ち着け……!!」
「待てません!!お願い離し……! っ!?待って、お願い!!」
自分の腕の中でもがきながら、此処では無い――クロムでは無い何かに懇願する。半ば泣きそうな表情で、まるで縋るように。
それを見せつけられたクロムの中に、どす黒い何かが噴き出した。もがくその身体を更に引き寄せ、動けないよう、逃げ出せないよう更にしっかりと抱きしめる。反動で仰け反った心臓に近い白い首元が無防備に晒され、有無を言わずそこに顔を埋めた。

抵抗を続ける身体を絶対に離さないと言う強固な意志の元に拘束し、嫌でも耳に入る懇願の言葉を顔を埋めることで遣り過ごす。
―――どのくらい、そうしていただろうか。

やがて抵抗が弱まり、それと同時に抱きしめた身体そのものから力が抜けていくのを文字通り肌越しに感じる。抱き留めていなければ地にへたり込みそうな力の抜けように、クロムは慌てて身を離してその顔を覗き込んだ。

?」
「ど……して、ですか。クロムさん……どうして……!?」
弱々しく顔を左右に振り、どうしてと問うにクロムは思わず息を飲み込んだ。――その漆黒の双眸から、流れる涙に。

「………どうしたんだ、。何があった。何が――」
直視することはできず、卑怯とは承知で今度は自らの肩口に寄せた頭を髪を。宥めるように何度も繰り返し撫でた。
されるままに顔を埋め、何度も首を振る彼女の口から応えが紡がれるのを辛抱強く待つ。

「分かりま、せ……でも、何か……が……居たんです……多分、私は知って……あれも、私を……知って……」
知っているのだ、と聞いたクロムが目を見開く。まさか、と何の気配もしない周囲を見渡す。

「マルスか?あいつが此処に?」
尋ねたクロムに、違うと小さな応えが返ってくる。あの子じゃありません、と。ほ、と胸を撫で下ろしたのも束の間、でも、とが続けた。

「何かが……誰かが居て。相手も……私、も。知っているんです。私の知らない、私自身のことを……!!」
あぁ、と胸中で重い息を吐きながらも、すまないとは言えなかった。何故なら恐らく、あの時に感じたクロムの直感は正しかったのだから。
謝罪の代わりに何度も髪を撫で、彼女が落ち着くのを待つ。それしかできなかった――否。それ以外の資格をクロムは有していなかったのだから。
あれほど不安だと言っていたにとっての、千載一遇の好機を。その目の前で握り潰した男に何が許されていると言うのだ。加えて握り潰したことそのものには、微塵も後悔していない確信犯なのだから尚の事。

だが邪魔をしなければ、はその誰かと共にクロムの元から去って行ってしまっていただろう。
それも恐らく――永遠に。

何故かは分からない。だが、クロムの中の何かが囁いたのだ。決して彼女を行かせるな――手放すな、と。
だから今は、彼女の心が落ち着くのを――鎮まるのを待つしかなかった。例え、その嗚咽がどんなに自らの身を苛もうとも。



「……すいません。取り乱し、ました。」
クロムに身体を預けたまま、がそう呟いたのは僅かに陽が傾いてからだった。時間にしてはそう長くない、だが、クロムにとっては永遠にも近い時間だった。

「いや……大丈夫か?」
「はい。もう……平気です。お見苦しいところを……」
言って、身体を起こそうとするのを僅かに抱きしめる腕に力を入れることで阻んだクロムが、漸く胸を撫で下ろす。

「気にするな。……驚いたのは、確かだったがな。お前が取り乱すところなんて、早々見れるもんじゃないだろ?」
「軍師が軽々しく取り乱したら、他の方々に動揺を与えるでしょうが。最も軍師に限らず、貴方にも言えることですけどね。」
「分かってる。……皆まで言うな。」
間髪入れず返ってくる反応に、苦笑を零し腕の中の小柄な体を見下ろす。元々満身創痍だった上に、木立の中を突っ切るなどという荒業をやってのけたせいかまた怪我が増えている。それに眉を顰めながらも、苦しいですと上がった苦情に今度は素直に応えてやった。

「怪我が増えてるぞ。リズがまた騒ぐな。」
「あぁ……夢中だったものですから。私はともかく、アスランも怪我しているでしょうね……」
愛馬の様子を窺おうとしたの視線を、だがクロムは逃さなかった。傷だらけの頬に右手を当て、その指の腹で残る涙の軌跡を軽く擦る。

「クロ……」
「すまない、とは言えない。今は、まだ。でも、俺には、お前が――必要なんだ。」
状況によっては顔を真っ赤に染めかねない言葉だったが、だがクロムの表情を見る限りそういった意味では無いのだろう。何とも色気の無い関係だ、とは胸中で自嘲しながらも多分彼と自分はこの関係が正しいのだろうと僅かに痛んだ何かに蓋をする。正直腕を上げるのも億劫だったが分かっている、とばかりにクロムの背中を、二、三度撫でた。それこそ、自分を抱き締めている男こそを落ち着かせるように優しく。

「謝るとしたら私の方です。あの時は……本当に、驚いて。何も考えずに飛び出してしまったんです。」
「お前にもあるんだな、そんなこと。」
自らの専売特許かと思っていたクロムが驚いて呟けば、そりゃそうですよとの軽い調子で肯定が返る。

「私だって人間ですから。動揺はしますし、頭が真っ白になることだって――たまには、ありますよ。」
「……みたいだな。普段からは、正直想像もつかないが。」
「それはそうでしょう。さっきも言いましたけど、軍師が動揺したら他の皆さんにそれが直に伝わってしまう。――それでは、務まらないでしょう。軍師も、軍主も。」
「そうだな……」
人に命令すると言うことは、人の命を預かるのと同意義だ。最終的な決断を下し、その責を取る。組織の上に立つ者の特権であり、義務でもあるそれに重さを感じないものなどいないだろう。今回が大きく腹を立てたのも、正にそれが原因だった。

今回の出兵が自警団の本分である、賊や屍兵の討伐だけならはここまでことを大きくしなかった。だが、仮にも国王からの勅命――クロムにとっては、実姉からの頼みごとであったとしても――国の命運がかかった出兵に、ただ経験を積ませるだけの理由でスミアを同行させると言った時点で、はクロムの中における今回の出兵の意味を確認せざるを得なかったのだ。

そして聞いてみれば案の定。理由は分かっていても――意義を全く解していなかった。少しばかり荒れても仕方のないことだったと、今更ながらに思う。

「多分、私が取り乱したのも……クロムさんだったからなんでしょう。」
「それは……どういう……」
まさか、と何やら期待に似た何かがクロムの脳裏を過る。

「上に立つ者は……孤独ですから。常に事の正否を自らに問いかけながら、その重責を全く感じていないように振る舞わなければなりません。軍主や軍師が不安を抱けば、それは瞬く間に自軍に拡がります。そんなことできませんよ、私達の肩には今、色々なものが掛かっているのに……」
「……そ、そうだな。」
が、返ってきたのは全く色気の無い応え。ややがっくりとしたクロムだったが、自分も先程似たようなことを思われたことを彼は知らない。

「それを……きっと、分かって下さる人だから。多分、私も……甘えていたんでしょうね。クロムさんに。」
そうだろうか、と思わずここ数日のことを思い返してしまったクロムである。自分の方こそ圧倒的に頼っている気がする――とは言えなかった。男のプライドが邪魔をして。
とくとく、と聞こえる心臓の音。それだけでも安心して涙が滲みそうになる。何故だかは分からない――ただ、生きていてくれればいいのだと今、この瞬間もの中で何かが叫んでいるのだ。

「それは、俺だって同じだ。……前々から言おうと思っていたんだが、そんなに何でもかんでも一人で背負い込むな。お前が言ったようにもっと……その。甘えて、いいんだ。頼ってくれれば。」
「でも、それじゃ他の方に示しがつかないでしょう。……いいんですよ、こうして分かって下さってますから。」
「だが、それでは……!!」
言い募ろうと密着していた身体を離したクロムの唇を、いつの間にか背中から離れていたの指が抑えた。苦笑して、本当に十分ですからと呟く。

「それと……今回は私のせいなんで、あまり強くも言えないんですが。」
「…………」
物理的に言葉を封じられてしまったクロムが、不満げに視線で何だと先を促す。

「この前も言いましたが、クロムさん。貴方とリズさんは、エメリナ様の名代――代理なんです。ですから、こんな風に一人でほいほい出歩かないで下さい。ましてや、先陣を切るなんてもっての他です。」
「い……」
「だ・め・で・す!何と言おうと、それは譲れません。本当は、それこそ馬車の中に放り込んで大人しくしてて欲しい位なんですからね。」
「……断る!フェリアまでの道中、全く動かずにいたら身体が鈍ってしょうがないだろうが。」
「……まぁ、そう仰るとは思っていましたし。実際、クロムさんが戦力として加わっているのといないのとでは大きな差がありますから。」
の指を力ずくで引っぺがし、彼女の、もしかしたらフレデリクにとっても切実かもしれない要望を即座に却下する。それこそ今回のような思いは、一度きりで十分過ぎだった。

「ですが。」
つ、と毅い視線がクロムを射抜く。夜よりも尚昏い――そのものを閉じ込めたような、闇色の双眸が。

「さっきも言った通り、最悪の場合、私は貴方とリズさんの命を最優先に考えます。貴方方の安全を最優先に――それこそ、何を、誰を犠牲にしても。クロムさん、もう一度……いいえ、何度でも言います。お願いですからそのことだけは――他ならぬ、貴方自身が覚悟しておいてください。」
誰を、と言いながらは自らが真っ先に矢面に立つのだろう。今回の戦いでも、それは嫌という程思い知らされた。そして、それは多分。
彼女の軍師として譲れぬ一線なのだ。故に――ここでクロムが何と言おうと、首を縦に振ることはあるまい。

「分かった、と言いたいところだが……」
「クロムさん!」
「お前に軍師として譲れぬものがあるように、俺にも軍主として――王弟として、兄として。譲れないものがある。だから、今の願いには――半分だけ、同意しておこう。」
「半分……?」
「ああ。リズのことだけは。お前の言う通り、何が何でも――何にも優先させると、約束する。」
「それで……半分です、か。」
眉を顰めたにああ、とクロムが頷く。互いの息がかかる程の距離で、応酬される意志と意志。譲りそうにも無いな、と互いが互いに胸中で溜息を吐いた。と――


ガササッ!!

「「!!」」
咄嗟に跳び退き、不意の音に身構える。何が、と油断なく周囲を見渡せば丁度対岸側の茂みが何やらガサゴソと揺れ動いているではないか。クロムはファルシオンを構えの半歩前に立ち、は守り刀――鉄の剣もサンダーの魔道書も放り出してきてしまったのである――を、クロムから半身分ずらした位置で構える。互いに頷き合い、クロムが大きく息を吸い込んだ。

「誰だ!!隠れていないでさっさと出てこい!!」
殺気を込めた一喝が、辺り一帯に響き渡る。途端に茂みの動きが止まり、クロムも再び眼前の異変に集中した。傍らの彼が眼前に集中しているのを感じ取ったは、逆に魔力を周囲へと散布した。風の精霊の視界、彼らの見ているものを自らの意識に取り込んで――

「……?」
と、何やら表情を微妙に歪ませたが、突然構えを解いた。横目でそれを見たクロムもぎょ、と眉根を寄せる。
何を、と尋ねようとしたクロムの声を自らの唇の前に人差し指を一本立てるだけで制したが、未だ構えられたままの抜身のファルシオンを素手で抑えた。刃の部分に直に触れた彼女の意図を驚きつつも理解し、殺気だけは押さえる。
しかし流石に剣を収めるまでには至らず、だが、結局はそれもが無防備にひょいひょいと自分を追い越して行ってしまった時点で大人しく収めたのだが。
何を、と顔を顰めるクロムの前では揺れていた茂みの前まで近づくと、なるべく静かな声を掛けた。

「……ごめんね。驚かせちゃったね。大丈夫、ここには貴方を傷つけるものは居ないから……安心して出ておいで。」
まるで幼子に語りかけるようなその声音に、まさかとクロムも目を見張る。こんな木立の真っただ中に、子供がいるとは考え難かったが――

大分時間が経ってからガサリ、と茂みが一つ大きく揺れた。片膝を付いたままの姿勢でいたは微動だにせず、相手が自ら姿を現すのを辛抱強く待つ。彼女が大丈夫と保障したとは言え、クロムは何か変事があればすぐ援護に立てるよう剣の柄から手は離さずに居た。
やがて、ガサガサと茂みを掻き分けるような音が続き――

「!?」
にょき、と茂みから何か白いものが生えた。いや、生えたのではなくその鼻面をこちら側に伸ばしたのだ。

「ぺ……天馬、か?」
流石に自国の主戦力であるだけあって、クロムは普通の馬にはあり得ない特徴にすぐ気付いた。だが、はその問いには答えず、見上げるような姿勢のまま天馬に語りかける。

「大丈夫。ね?誰も貴方を傷つけようとはしていないでしょう?こっちにいらっしゃい……さっきから、風の精霊(ジルフェ)達が騒いでいたのはあなたのことだったのね。助けてあげて、って。」
何のことかとずっと首を捻っていたのだが、この天馬のことだと言うのなら納得がいく。助けて、と言うならばどこか怪我をしているのかもしれない。野生の天馬は、密猟の対象になりやすい故に。

「…………」
いまいち信用しきれていないのか、中々動こうとしない天馬にが苦笑を浮かべる。ゆっくりした動きで右手だけを上げ、静かに目を閉じた。するとそのを中心に、柔らかな風が辺りに巻き起こる。
風が収まって行くのに比例させた視界が完全に開ける頃、茂みを隔てていた純白の翼ある馬は完全にその姿を現していた。上げたままだった彼女の右手に、自ら鼻面を擦り付け甘えるような態度を見せている。気の済むまでそれをさせてやったは、ゆっくりと立ち上がると天馬の鬣を撫でてやった。

「天馬……だよな?」
「ええ。群れから逸れたみたいですね。」
クロムが近くに居ると知って天馬はびくり、と身体を震わせたがが宥めるように二、三度その首を叩くとすぐさま大人しくなった。
天馬は女性にしか懐かない、非常に珍しい生き物である。故に天馬騎士団はその全てが女性で構成されており、女王を頂くイーリスにとってはその聖性とも相まって国の象徴とまで言われているのだ。最もその腕前はお飾りなどではなく、時に男よりも容赦ないその熾烈な戦いぶりからもそう言われているのだが。

「さっきから風の精霊(ジルフェ)達が助けてあげてと騒いでいたんですが、何をとは具体的に言ってくれなくて……正直、首を捻っていたんです。でもまぁ、それが天馬なら――」
風の精霊(ジルフェ)と天馬は仲がいいのか?」
「仲がいい――と言うか。総じて、翼ある生き物は風の精霊(ジルフェ)に愛されています。生き物の方も、彼らをとても敬愛していますし――相互扶助、と言うのが一番近いでしょうか。」
なるほど、と頷き翼が無くとも彼らに愛されている目の前の娘を見遣る。その娘は天馬を刺激しない、ゆっくりとした動きでその周囲を歩いて回り、傷の具合を検分しだした。

「外傷は……後ろ脚と、右脇の打撲ってところか……飛べないみたいだから、羽の筋も痛めてる可能性も……」
ぶつぶつと呟きながら歩くを見て、クロムは漸く肩の力を抜いた。そう言えば、ともう一頭怪我をしている可能性のある馬を思い出し振り返る。

「………お前も苦労するな。」
そこには明らかに機嫌を損ねた様子の仏頂面(馬に言うのも何ではあるが)の黒馬がおり、クロムは思わずその逞しい首を二、三度叩いてやった。恐ろしく賢い馬であるだけに、その独占欲も一入の様である。

「クロムさん!」
種別は違えど同じ男、密かな友情を感じていたところ、目下そんなことなど鼻で笑い飛ばしそうな生き物がクロムを呼んだ。
今度はアスランにがんばれよ、とばかりに鼻面を押し付けられ何やら感じ入ってしまったクロムである。

「何をされてたんです?」
「あーいや。何でもないぞ。」
「はぁ。」
馬と男の友情を育んでいましたなどとは流石に言えず、曖昧に言葉を濁したクロムにが首を傾げる。本当のことを言ったら、鼻で笑われるどころの騒ぎではないと本能が働いたのかもしれない。

「やっぱり怪我をしているみたいです、この子。歩けはするみたいですが、飛ぶのはちょっと無理そうですね。ただ私も専門ってわけでは無いので、これ以上のことは……」
「そうか……それだったら、こいつも連れて戻るか。スミアは見習いとは言え天馬騎士だし、ソワレの実家は大型の家畜を専門に診る医家だしな。」
「そうなんですか。」
初めて聞く団員の私生活に、少しばかり驚きながらとりあえず連れて帰るつもりでいたはその提案に頷く。もう大丈夫よ、と天馬に声を掛け再び魔力を周囲に散らした。

?」
「……帰りの道を。……少々高低差がありますし、ですがこの子に騎乗はできませんし……ちょっと、遠回りになる、けど……」
ふ、と意識を自らに戻したが、急がば回れとも言いますしねと帰りのルートを説明した。今思えば、かなり高さのある場を登ってきたものだと遅まきながらに自覚した。

「……さっき、お前が言ってた……その、お前を知っているかもしれないやつ、と言うのは。こいつ、では無いんだよな?」
「ええ。流石の私も天馬の思っていることまで、伺い知ることはできませんよ。あれは――そう、もっと異質で……私に、近い――それでいて遠い。全くの……別物です。」
に最初にその存在を知らせてきたのは、風の精霊達だった。ひどく曖昧な――そのくせ明確な感情――戸惑い、困惑、歓喜に、絶望――そして、一番強かったのは。

(哀しみ、だった………)
何故、と何度も問いかける彼らの哀しみは直に伝わってきた。何故、どうして、と連呼する彼らの嘆きが――今も耳に残っている。
いつか知ることになるのだろうか、という期待と――不安。その二つが綯交ぜになっての胸を圧迫する。
知りたいと思っている反面、知ることが怖いと思っていることも事実なのだ。

?」
名を呼ばれ、はたと我に返れば目の前に訝しげな表情をしたクロムが。傷が痛むのか、と尋ねられてもいいえと首を横に振ることしかできなかった。痛まないわけではなかったが、考えていたのはもっと別のことで。
そし加えて言うなら、考えても――詮の無いことだ。

「あいつのことなら心配しなくても大丈夫だぞ。確かに野生の天馬を捕獲するのは禁じられているが、治療の後放してやればいいんだし……元々野良なんだから、自力で――って、何蹲ってるんだ。」

「………」
大暴投的(ノーコン)発言に何だかもう、色々と脱力してしまった。確かに意味合い的な間違いは無い、だがそのもう少し……

「貴女も苦労してるのね………」
図らずも合ってしまった牝馬の物言いたげな視線に、思わずそう呟いてしまったであった。

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