戦士の王国 ]T
「おっかえりー!」
完全に陽も落ちてやや肌寒さが辺りに忍び寄る頃、 リズは見知った影が戻って来たのを嬉しげに出迎えた。
「ああ。」
リズの歓迎に頷いたのは、実兄のクロム。何故か自分の馬でない黒馬に騎乗し、何かを抱えている。
「あれ?お兄ちゃんだけ?さんは?」
「何だリズ。俺だけだと不満なのか?」
「不満に決まってるじゃん。だってこの先、お兄ちゃん居なくても何とかなると思うけど、さん居なかったらどーにもならないと思うもん。」
ばっさりと切って下された実兄への評価を聞いて、クロムの腕の中の何かが吹き出した。あ、とリズが思う迄も無く、巻き付けられた外套の下から件の待ち人が顔を覗かせる。
「只今戻りました、リズさん。手厳しいご意見ですが、クロムさんも居てくださった方が私的には心強いんですが……」
「お帰り、さん!そうなの?それならしょうがない、お兄ちゃんの同行を認めてあげましょう!」
「ですって、クロムさん。」
「有り難くって涙が出るよ……」
実の妹にオマケ扱いされた兄としては、複雑な心境だろう。クスクスと笑うを小突いて、降りられるかと問う。えぇ、と頷いたは身体に巻き付けていた彼の外套を外し身軽に馬上から降りた。
「さん!また!傷だらけ!」
しまった、と思ってももう遅い。両目を三角にしたリズに詰め寄られ、珍しくが防戦体勢に入った。両手で小さく降参のポーズを取る彼女に苦笑いを零しながら、やはりこちらも珍しくクロムの一言がその窮地を救う。
曰無理しないように見張っているから早くライブの杖を持ってこい、と。
「絶対!ぜーったい!大人しくしててね!」
叫びながら走って行くリズを見送り、クロムとが笑い合う。よく笑いくるくると動く彼女を見ていると、何故かこちらまでつられて笑顔になってしまう。きっと将来は姉に劣らぬ素敵な女性に成長することだろう。
「クロム様!」
リズの大声に驚いたのか、天幕の一つから顔を覗かせたフレデリクが主の帰還に気付いたようだった。文字通り転がりださんばかりの勢いに、クロムが苦笑を漏らす。
「ご無事でしたか!さんも……」
「申し訳ありません、フレデリクさん。ご心配をおかけしました。」
「正直に申し上げれば、全くですと言いたいのですが……こればかりは、クロム様ご自身に自重していただきませんと……」
「おい。何で俺だけなんだ。」
「だから言ったじゃないですか。」
立場が違うんです立場が、と言えばクロムが顔を顰めてそっぽを向く。これでは早晩フレデリクの胃に穴が開きかねず、今後のこともある以上少しばかり話をする必要があるかとが真剣に検討していると。
「ところで……クロム様、さん。」
珍しくお説教を早々に切り上げたフレデリクが、クロムとの背後に視線を止めたまま尋ねてきた。
「その……それで、お二人の背後に居るのは……」
「ああ、そう言えばこいつのことを忘れてたな。フレデリク、スミアとソワレは居るか?」
「は?あ、はい。二人とも、天幕の準備をしていましたが……お呼びしますか?」
「頼めるか?天馬の方が怪我をしているみたいでな。放っておくわけにもいかんから、連れてきた。」
「連れてきたんですか……」
頷くクロムに、頭を抱えんばかりの勢いでフレデリクが項垂れる。やがて貴女が付いていながら何故、と向けられた視線に苦笑しながらが口を開いた。
「いざとなったら、私が何とかしますから。最初からそのつもりでした――と言うか。そもそも私が原因でしたので。」
「さんが?」
えぇ、と頷くにそれでしたら仕方ありませんねとフレデリクが呟く。そのあまりと言えばあまりの反応に、クロムの機嫌が更に輪を掛けて悪くなった。
そう簡単に臍を曲げることの無いクロムだが、しかしその分一度機嫌を損ねるとちょっとやそっとでは機嫌を直さない。子供かと言いたくなることもあるが、それは愛すべき彼の性格だろうと譲歩できる程度には情が移っていた。
さてどうするかとが本格的に考え出した、その時。
「クロム様!」
「おぉ!?何かまた変なのが増えてねーか?」
華やいだ声に続いて、数人の仲間が姿を現した。男がまた増えたことに気付いたのか、は怯えるように身動ぎした天馬の傍らに寄り添う。
「クロム様、良かった!ご無事……きゃあ!」
頬をバラ色に染めて真っ先に駆け寄ってきたスミアが、お約束の如く何も無い所で転倒した。それはいっそ、見事と言えるほどに。
「ス、スミア……大丈夫か?」
「す、すみませ……わ、私ったら、また……」
「いや、怪我が無ければいいんだが……」
いや、良くないだろと心の中だけで突っ込んで、落ち着きの無い天馬をあやす。ここで暴れられたら、流石に洒落にならない。
「そんなことより、どうしたんだよ。その天馬。」
「群れから逸れて、何かに襲われたようなんです。
「え?わ、綺麗な天馬……」
どうやらクロムのことで頭が一杯で、全く気付いていなかったようである。恋は盲目とはこのことか、等と若干意味の違うことを考えながらちらりと傍らのクロムに視線を投げかけた。
「あーと、それでだな。スミア、お前とソワレでこいつの面倒を見て貰えないか?リズに任せてもいいとは思うんだが……」
「それは最終手段ですね。あまり杖に頼ると、生物本来の回復力を損なう恐れがありますから。……ですよね、ソワレさん?」
「そういうことだね。あまりに時間がかかり過ぎたり、戦場に居る場合を除いては自然治癒を待つべきだよ。で、どの程度まで回復させればいいのかな?」
騒ぎを聞きつけたのか、ソワレがヴィオールと共に姿を現した。実家が大型家畜の医家であるだけあって、その言葉には説得力がある。
「最終的に群れに戻すつもりですので……自力で飛べるまでには持っていけたらと。ざっと見たところ、外傷はそうでも無いと思うんですが……ただ翼を傷めてる可能性があるかと。」
「了解。それは専門家の意見を尊重するよ。問題は馬用の天幕だな……」
元々馬は神経質な生き物である。その亜種である天馬は、更に輪を掛けて繊細で神経質な生き物だった。同種の生き物同士の天幕に入れるならいざ知らず、普通の馬と同じ天幕には押し込められない。
どうやって群れに戻すかまでは聞かなかったが、のことだ。既に算段は済ませてあるのだろう。
「?馬用の天幕、入ってませんでしたか?がめつい馬買いからぶんど……いえ、新しいものを入れておいたつもりだったんですが。」
「……、お前本当に昨夜何やってたんだ。」
「あぁ、もしかしてあれかな?真新しくて、ボク達が使うにはちょっと大きいとは思ってたんだ。」
クロムの疑問を笑顔で躱して、ソワレの問いに頷く。急ぎの旅にどうしたって馬は不可欠だ。彼らを休ませる為にも、少々大きめの天幕が必要だとソワレ自身も思っていたのだが。
「さすがは軍師殿だね。深謀遠慮とはこのこと、どうだい我が妻よ。ここは一つ、彼女の知恵を拝借して――」
「誰が妻だっ!!」
全く懲りると言うことを知らない男である。そろそろ学習しても良いころだとは思うのだが。
「え?コイツ、戻しちまうのか?勿体ねーな。丁度スミアには天馬が居ないんだし、貰っちまえば?」
「で、でも……イーリスでは、野生の天馬の捕獲は禁じられていますし……」
スミア自身、この純白の天馬が自分の相棒になってくれればいいと思わなかったわけでは無い。天馬はその数が数圧倒的に少なく、自分のような見習いにはまずその手綱を手にすることは無いからだ。だが今ここでその相棒を手に入れられれば、この旅において少なくとも足手纏いと言う立場からは脱却できるのではないかと思ってしまう。
「頭かてぇなぁ……だって、コイツ野良なんだろ?」
いいじゃんか、と続けようとしたヴェイクの声を何やら噴き出すような音が遮った。何が、と見ればいつもは沈着冷静で鳴らしている女軍師が、肩を震わせ笑いを堪えているではないか。
必死に口元を押さえ漏れる声を防ごうとしているが、時折聞こえる噛み殺し損ねた声を聞く限りあまり功を奏してはいないようだった。むしろ蹲り、腹を抱える姿にそれどころではない必死さが窺える。
「?」
突然笑い出したの姿に、此処に居る全員が――否、クロムを除いた全員が首を傾げた。そんな中彼だけが事情を知っているらしく、恐ろしく憮然とした表情で笑う軍師を見下ろしている。
あ、これは二人きりの時に何かあったな、と勘が鋭くなくてもその可能性に思い至った。この様子からして色気の欠片も無さそうなことには違いないが、気になるものは気になるではないか。
「笑うな!!!」
「〜〜〜!!〜〜〜〜っ!!」
顔を真っ赤にしたクロムと、腹を抱えて笑う――実に珍しいその光景は、リズがフレデリクやソールと共に戻るまで続いたのだった。
「……よし、これでオッケー!他に、痛むところは無い?さん。」
「ありがとうございます、リズさん。怪我は特に。腹筋が痛いのは笑い過ぎのせいですし……」
思い出したのか、再び笑いの発作に見舞われそうになったをクロムが睨む。笑い過ぎてすっかり疲れてしまった。これ以上笑わせないで欲しいと思うのは、とて同じであるのだが。
「流石にそれはねぇ……で、何?何がどーして、あんなに笑ってたの??」
「そ、それは……」
余計な事は言うな、とのクロムの目配せに顔を若干歪ませながらも頷く。ここでまた笑い出せば、更に機嫌を損ねるのは必至。未だ以てあまり良いとは言えぬ状態なのだ、これ以上の面倒事はとしても遠慮したい。
「ク、クロムさんに聞いてください、リズさん。私の口からはちょっと……」
「えー?お兄ちゃんから?」
相変わらず絶賛仏頂面中の兄を振り返り、そもそも何故兄がにぴたりと張り付いているのだろうとリズは不思議に思った。彼女がうっかり口を滑らせないため、と言うのならば二人が秘匿していることはきっと予想以上に面白いことに違いない。とかくこの手のことに知恵が回るリズは、ふーん、そうと表面上気の無い素振りを装いながら、後で絶対から聞き出してやる、と胸中で握り拳を作ったのだった。
「分かった、そうする。後で教えてね、お兄ちゃん!」
「誰が教えるか。」
速攻で却下したクロムに、不意打ちを受けたが吹き出した。間髪入れず彼女を睨み付けるクロムに、興味を抱くなと言う方が無理なのだとリズは思う。それは周囲に居る自警団の面々も同じようで、隙あらば聞き出そうと虎視眈々と機会を狙っている。
「と、ところで。ミリエルさんの姿が見えませんが、大丈夫でしょうか?」
「え?あ、ソール!?ミリエル一人にしちゃったの!?」
「は!!し、しまった……食事……!!」
食事?と首を傾げたに、彼女とヴィオールを除く全員の顔が蒼褪める。だが、事は一刻を争うと数人が事情を説明せぬまま一斉に走り出し、その場にはとクロム、ソワレとスミアとヴィオールが取り残された。
「間に合うといいですけど……」
「そうだな……」
呟くスミアとクロム。そして相変わらず事態の飲み込めていない、とヴィオールが首を傾げていたのだった。
「……では、遅くとも明日の昼頃には国境に着けるわけですね。」
「はい。国境には、イーリスとフェリアの両国が出資して作った長城があります。現在は、フェリア側がその長城を管理しておりますが……」
簡素ながら夕食も済み、思い思いの時間を自警団の面々が過ごしている中、はクロムやフレデリクと明日以降の行軍についての打ち合わせをしていた。組み立て式の机の上には、広げられた地図と湯気を立てている木製のコップが人数分置かれている。
「後は天気次第だな。フェリアはどちらかと言えば寒冷地だ。この時期だと、吹雪くこともあるらしい。」
「なるほど。それは厄介……あぁ。あまり、よくなさそうですね……」
天気まで分かるのか、と尋ねれば大体ですけどと答えが返ってくる。
「ところで、先遣はどうされますか?」
「先遣?」
先触れ、とも呼ばれるそれは本隊の前に派遣される、一種の伝令役のことである。今回のような国家間での会談では当然、国家内であってもある程度の格式がある間柄ではそういった先触れがなされるのは常識的な事なことだ。
「……もしかして、考えて無かったんですかクロムさん……」
「や、いや。時間も人手も少ないし、国境の長城はいわば中立地帯だからな。必要無いと思っていたんだが……」
「フレデリクさん。」
「は。全く申し訳無く……全て、私が至らぬせい……」
必要無いわけないだろう、とじろりと睨めつければクロムがさっと視線を逸らす。フレデリクに苦情を言っても始まらないが、苦情ぐらい言わせてもらってもこの際罰は当たらないように思えた。
「あのですね、クロムさん……一国の、正式な特使なんですよ?いくら両国が共同管理している場だからと言って、先遣も無く訪ねていいわけないでしょうが……」
何で王族でも、イーリスに住まう人間でも無い自分が生粋のイーリス人のクロムにこんなことを教えなきゃならんのだと、少々理不尽に思うである。
「まぁ、何となくそんな気はしていたんで準備はしておきましたけど。」
「準備?」
「そのためのアスランです。彼の脚なら、明日の朝一でここを出れば昼前には長城に着けるでしょうし。そこから取って返しても、日没までには戻ってこれます。」
「ちょっと待て、お前が行くつもりなのか?」
他に誰が行くんだ、とばかりに頷くにクロムが渋面を作った。何でだとフレデリクを見上げれば、何故かため息交じりに首を左右に振られてしまう。
「駄目だ。いくら主街道だと行っても、危険が全く無いわけじゃない。野盗もそうだが、屍兵が出没する可能性だってあるんだ。お前一人を先行させるなんて、できるわけがない。」
「ですが、私が駄目なら誰を行かせるんです?」
「だから、俺が……」
「先遣の意味が無いでしょう、クロムさんやリズさんが来られたら。」
呆れた様子で切ったに、う、とクロムが言葉に詰まる。では僭越ながら私が、と名乗り出たフレデリクを今度はが却下した。
「申し訳ありませんが、フレデリクさんにはクロムさんとリズさんの傍を離れないで頂きたいんです。万が一何かあった時に、フレデリクさんならお二人の安全を最優先に行動してくださると思うので。」
最優先、がクロムを力ずくでも止めろに聞こえて思わず納得してしまったフレデリクである。確かに一刻を争う時に、押し問答にでもなったら力ずくでクロムを止める必要がある。でも問題は無かろうが彼女では力負けしてしまう可能性もあり、安全性と確実性を考えるならやはりフレデリクが傍らに残るべきであろう。
「そうしますと……正直、他に適任者が……」
「居ないから私が行くと言っているんです。大丈夫ですよ、いざとなったら形振り構わず逃げ出すくらいの思い切りはありますから。」
そういう問題じゃない、と渋るクロムを諦めて下さいとすっぱりが切って捨てる。
「大体ですね、何でそんなに心配するんです。私が戦えるのは、クロムさんもご存じでしょう?」
「戦えるのは十分知っているがな。それ以上に目を離した隙に何をしでかすか分からんヤツなのも、十分過ぎる位に知って……目を離したで思い出した。後で、出発前夜の事きっちり聞かせてもらうからな。アスランの事もだ。乗ってみて分かった、あいつは繁殖馬じゃない。
――野生馬だ。」
あ、ヤブヘビと思ったの視線が僅かに泳ぐ。流石と言うべきか、そこまで断言されては流石のも言い逃れる気は無かった。まぁ最も、ばれたらばれたでどうでもよいことだったのだが。
「そうですね、そのうちに。」
「……今、省いた言葉は『気が向いたら』だろう、お前……」
よく分かりましたね、と微笑めば大仰なため息をクロムが吐く。そもそも何だって、そう知りたがるのだと自身は思うのだが。
「あ、あの……」
突然外からかかった声に、咄嗟に全員が身構える。が、次の瞬間それが見知った仲間の声だと気付いたクロムが、戸口へと足を進めた。
「どうした?」
内扉を開ければ、そこには湯気の立つティーポットを抱えたスミアが。もうそんなに時間が経っただろうか、とは机上のカップを見たがやはりそう時間は経過していないようだった。
「長くかかるかと思ったんで、お茶のお代わりをお持ちしたんですが……」
「ああ、すまない。」
「ありがとうございます、スミアさん。」
「あ、ちょっとそのまま……動かないでいて下さいね、スミアさん。」
よくここまで転ばずに来れたものだと密かに感心したが、ひょこひょこと戸口へ近づいていく。首を傾げる彼女から盆ごとティーポットを受け取ると、女性がいつまでも重いものを持つのは感心しませんよと快活に笑った。
「あ、ありがとうございます。さん。」
いえいえ、と微笑む彼女の意図が奈辺にあることをクロムとフレデリクは迅速に読み取った。確かに、広げている地図や行軍表にお茶をぶち撒けられては敵わない。
「まだ終わられないんですか?」
「ええ、もう少し……どうぞ、皆さん。先に休まれて下さい。この後、水浴びに行こうとも思っていますし。」
「こんな夜にか?」
途端に眉を寄せたクロムに、だってとが肩を竦める。
「男性の皆さんが全員終わるのを待ってましたから。明日は先遣に発ちますし、身綺麗にしておきたいんです。」
「だからって一人は危険……それに!先遣の件は、許可した覚えは無いぞ!」
ち、覚えてたかと舌打ちをするに流石のフレデリクもそれは危険だと諭すが、平気ですよと本人は全く取り合わない。
「こんな夜中に、女性を見張りに立たせるわけにはいかないでしょう。
「お前なぁ……!自分も女だって自覚が……!!」
「あら。どこぞの誰かさんにとって、私は女に見えないんじゃありませんでしたっけ。でしたら、先遣の件も心配いりませんよね。何も好き好んで男を襲う男はいませんから。」
「さん、その件はクロム様も反省しておられますし……その、そろそろ、許して差し上げてはいただけませんでしょうか……?」
それを言われると反論する術がクロムには無い。う、と言葉に詰まった主君を見かねたフレデリクが助け船を出す。それに男に見えても、襲われる時は襲われる――とは賢明にも黙っていた。この場で主と同じ過ちを犯す程、フレデリクは馬鹿では無い。
「あら、フレデリクさん。私、怒ってなんかいませんよ?ただ、クロムさんが私を女性として見ていない以上、先遣も問題無く熟せるのではないかと思っているだけで。」
「、お前……全っ然、根に持ってるだろう……」
呻くようなクロムの声に、にっこりと笑顔で応える。当たり前でしょう、と顔に書いてあるように見えるのは目の錯覚か。
「あ、あの。さん、お一人で先遣に発たれるのですか?」
「ええ。その予定です。……と、そうだ。スミアさん、あの天馬の様子はどうですか?」
勝手に決めるな、と視線で訴えるクロムをあっさり無視し、拾ってきた天馬の様子を尋ねる。予想外と言えば予想外の拾い物は、彼女とソワレに任せっきりだったのだ。
「あ、はい。やっぱり、翼の付け根を痛めていたみたいで、リズさんの力をお借りした方がいいと……ソワレさんも、群れに戻すつもりなら早い方がいいって……」
「……そうですか。それでしたら、明日、リズさんに回復をお願いして下さい。どのみち私はほぼ丸一日不在ですし、ライブを使ってもすぐ飛び立てるわけではないでしょうから。戻り次第、群れを探して戻すように……」
「――俺は、先遣を許可しないと言ったぞ。。」
勝手に話を進めるを、渋面のクロムが遮った。顔と同様に、声も地を這うように低い。
「クロムさん……でしたら、誰を先遣に出すんです?」
「不要だ。長城は中立地帯、イーリスの特使である俺達が訪ねて問題のある場所じゃない。」
「それは、建前上のことでしょう。そもそも、その長城に居るのがフェリア兵だと言う保証も無いんですよ?先遣たる私が予定通り戻れば良し、万一戻らなければ不測の事態が起こっていると言うことです。リズさんやミリエルさんが居ますから、生きていれば言伝くらいは送れるでしょうし……不測の事態にもこの場でなら如何様にも対処できるんです。それを考えたら……」
「俺は!お前の安全のことを言っているんだ!!」
彼女に指摘され、初めて長城に異変があるかもしれない可能性に気付く。同時にどうしても自らを軽く考えるに、凄まじく腹が立った。
「そう言っていただけるのは、私としては嬉しいのですが……ですが、私一人の命とイーリスの命運は比べられないでしょう?先遣が発てば本隊の危険はそれだけ減るんです。クロムさん、約束してくださいましたよね?いざとなったら、何よりも貴方の背負ったものを優先してくださると。」
「ああ、したな。だが、それは『今』じゃ無い。――無為に、お前を危険に曝したくないんだ。分かってくれ、。」
頑として譲る様子の無いクロムに、はため息を吐いた。無為では無い、と言ったところでこの様子では聞く耳を持ちそうに無い。
「で、でも……さんは、とてもお強いですし……大丈夫なんじゃないでしょうか。」
果敢にもスミアが声を上げ、意外なところから来た援護にがおお、と目を輝かせる。スミアに甘い傾向のあるクロムだ、これは期待できるかも……と思いつつ視線をずらせば、相変わらずの仏頂面が。
「駄目だ。先遣は立てないし、どうしても必要だと言うのなら俺も行く。それなら、許可しないでもないが……」
「意味が無いですからね、それですと。……分かりました、ここで押し問答してても仕方ありませんし。先遣は立てず、明日全員で出発――で、よろしいですね?クロムさん。」
「あぁ。だが、了承した以上、勝手は許さないからな、。」
「それは、どう言う……」
「出発する前に、一人で出るなと言うことだ。……お前のことだ。どうせ今夜の内に準備を整えて明日、まだ朝の明けきらぬうちにでも出るつもりだったんだろう。」
「…………」
図星を指されて、一つ溜息を吐く。もそうだが、段々とクロムが自分の行動パターンを読んできているようだった。それはあまり好ましくない――軍師としても、個人としても。
「……分かりました。正直、昼間無理をしたせいで魔力が殆ど回復していないんです。今夜はとにかく休んで――明朝、全員で移動しましょう。ですが、一度長城に近い場所で物見は立てます。それは私に任せて下さい。いいですか、クロムさん?」
「――分かった。とにかく今夜はもう休め。泉に行くなら、俺が護衛を――」
「クロム様?」
と、これはフレデリク。流石に目が笑っておらず、もスミアもノーコメントを貫いた。
「あ、いや、べ、別に疚しい気持ちは無いぞ!?」
「あったらこの場で黒焦げにしてます。」
自分の言った言葉の意味を、口にしてから理解する――クロムの悪い癖だ。フェリアに着くまでに何とか矯正できないものかと思っただったが流石に一朝一夕では無理だろう。それこそ、機先を制して口を開かせる前に阻止するくらいしか方法が無い。
「悲鳴より先にサンダーの詠唱が響く方が早いとは思いますが……それにしたって、変事があれば駆けつけて下さるおつもりでしょう?ですから、尚の事。お気持ちだけ、頂いておきますから。」
まさか入浴している場に踏み込むつもりか、と尋ねれば不承不承わかったと頷く。本当にこの男は自分を女と思っていないようで困る――わけでは無いのだが、何故だか無性に腹が立った。
「あの……それじゃあ、あの子はどうしましょうか。」
「そうですね……まず、リズさんにご足労をお願いしましょうか。今夜中に治療を行えば、明日には飛べるまでにはなるでしょう。実質群れに戻すのは明日以降になりますが……」
「連れて行くのか?」
「それが一番いいでしょう。見たところ、野生の天馬ですがスミアさんやソワレさんには懐いているようですし。いざとなればスミアさんにそのまま乗騎していただこうと思っています。」
「で、ですが。イーリスでは……」
「大事の前の小事です。フィレインもエメリナ様も、分かって下さいますよ。」
事実、イーリスの法など屁とも思っていないである。クロムやフレデリクは難しい顔をしているが、そんな細かいことに目くじらを立てているような場合では無いのだ。
「クロムさん、他には何か?」
「……いや。とにかく、お前は早く休め。色々あって疲れただろう?」
「……そう、ですね。確かに、疲れは……しました。」
伸ばした指の先にあった手掛かりに歓喜し、掴み損ねたそれに落胆して。多分、自分で思っている以上に疲労は溜まっているはずだ。
もう今日は身体を休めるべきなのだろう――明日からまた、緊張の連続になるはずだから。
「スミアさん、リズさんへの言伝お願いしてもよろしいですか?」
「あ。は、はい。お任せください。」
「それでは話も纏まりましたし、私はこれで失礼します。クロムさん、フレデリクさんも早めに休んで下さいね。」
「ああ、お前もな。。」
「お休みなさいませ、さん。」
お休みなさい、と存外素直に天幕を後にするに思うことが無いわけでは無かったが、自覚症状があるだけまあマシなのだろう。
明日にはフェリアとの国境に迫る。
それこそ何が起こるか分からない―― 一抹の不安を抱えながら、それぞれの夜は更けていくのだった。