戦士の王国 ]V
山間部にある国境の天気は変わりやすい。今朝はそうでも無かった空模様は昼近くになるとその機嫌を様変わりさせ、あっと言う間に雪の吹き荒れる悪天候へと変わってしまった。
そんな中、歩哨に当たっていた一人の兵士はふと、街道に何か黒い影を見つけた。
視界が悪いせいで最初は見間違いかとも思ったそれは、街道を確実に北上しこの砦に近付いて来ている。人の形をしているそれ――昨今国内でその姿を確認されているあの化物かと身構えたが、遅ればせながら見えてきた馬車の姿や油断なく配された人員、何よりその隙のない身の熟しに件の化物や野盗の類では無いと彼に認識させた。
慌てて同僚にその場を頼み、この砦を預かる者の元へ言上しに行く。
後を託されたもう一人の警備兵がその任を継ぎ足下に視線を落とした時、まるでタイミングを見計らっていたようにその声は響いた。曰く。
イーリス聖王国、王弟クロムが依託されし権限により開門を願う、と。
「反応が無いな……」
「無いわけではありませんよ。今、城内は蜂の巣を突いたような騒ぎですし。」
傍らのがそう相槌を付いて、遠くを見透かすような仕草を取った。そのことに珍しい、とクロムが目を丸くし非常時ですからとが返す。確かに、覗き見だの何だのと四の五を言っている場合では無い。
「……いかがですか?」
「……正直なところ、あまり芳しくはありません。皆さん、少し砦から距離を取って下さい。――クロムさん、貴方も。」
の視界は既にこの砦の長と思しき人物の姿を捉えていた。無骨な鎧に身を固め、部下からの報告を聞いている騎士――ほどなく、この長城の上から顔を覗かせるであろう人物の言動からあまり穏便にことは運べないな、と胸中で嘆息する。
フレデリクを除き、クロムと他の面々をなるべく長城の射程外へと押し出す。その場に残ったのは、口上を述べたフレデリクといざとなればその彼ごと逃げるつもりのだった。
「ちょっと待て、俺が下がって……」
どうする、と言いかけたクロムの声を聞きなれぬ女の声が遮った。
全員の視線が、上方――長城の外壁近くに現れた女騎士へと集中する。
「ここはフェリア連合王国が預かりし戦砦!!何者が、何用あってその威を汚すか!?」
初っ端からあまり友好的とは言えぬその物言いに、ぴくりとの眉が動く。無論、誰も気付きはしなかったのだが。
「突然の来訪、無礼は平にお詫びいたします!我々はイーリス聖王国国王、エメリナ様の意を携えし一行にございますれば……!
当該砦の司令官殿とお見受けいたします!フェリア連合王国とイーリス聖王国、両国によって結ばれし条約の下、長城の即時の開門を願います!!」
前に出かけたクロムを片手で制し、が吹雪に負けじと声を張り上げた。平時でも良く通るメゾ・アルトの声が辺りに響くが、返ってきたのはにべもないものだった。
「イーリスの特使!?そのような者が訪れるとの報告は受けていない!!何故、特使ならば然るべき手順を踏まずここへ来た!?」
「お疑いは最もです!ですが、火急の要件につき非礼についてはご容赦頂きたい!」
ほら見ろ、と思わぬでも無かったがとりあえずは目の前の交渉が急務とクロムへの苦情は後回しにした。
「は!非礼を非礼と知りながら、能書きを述べるがイーリスの特使か!!片腹痛い!!」
取りつく島も無しかこの野郎とは胸中で毒吐き、だが同時にふと何やら違和感も感じた。
曰く、何故この司令官はイーリスの特使であることにこうも拘る?と。
確かにこちらがそう名乗っている(事実だからしょうがない)以上、疑うのは当然だ。だが、自分達が
「ちょっと待て!!俺は本当にイーリス聖王の代理で……」
が、その舌戦は思わぬ横槍で中断させられた。はっと気付いてももう遅い。引き留めていたソールやリズを振り切り、クロムが達を追い越してその一歩前に出てしまったのだ。
「は!聖王の特使ならば、それ相応の者が遣わされるはず!礼儀の一つも弁えぬ小僧に、そのような大任が務まるか!!」
鼻で嗤うその仕草に、当の本人でなくその守役がぶちりと切れた。まさか彼がと思っていたので、の制止がタッチの差で間に合わない。
「こちらの方は正真正銘、聖王エメリナ様の弟君であらせられます!如何にフェリアの司令官と言えど、そのような非礼を……!!」
「フレデリクさん!!」
駄目だと首を振るに、はっとフレデリクが我に返るがもう遅い。案の定、足下を覗き込む司令官の顔にはしてやったりとの優越感がありありと現れていた。(談)
「漸く正体を現したか、賊どもが!!王族を騙るは極刑と知らぬ無知な輩が吐きそうな嘘よ!襤褸が出ぬうちに早々に立ち去れば良いものを、下らぬ嘘を吐くからこうなる!!」
「賊……?司令官殿!!我らを賊の一味とお疑いか!?」
身体ごとクロムを制し、再びが女騎士と向かい合う。クロムとリズ、エメリナが絡むこととなると、瞬間沸騰するフレデリクを残したのも今思えば手痛いミスだった。
「昨今、国境沿いではイーリスを騙る賊どもが多数出没している!その行状に怪しいものあらば、現地の判断に於いて戦闘・排除を行えとの命を下されている!!賊共よ、命惜しくば即刻この場を去ね!!」
その言葉を聞いて、が漸く納得する。イーリスを騙る賊、つまり現状ではイーリスの名を口にする者全てが彼女らにとっては警戒すべき者なのだ。やはりどんな手を使ってでも、先遣を出しておくべきだったとが唇を噛み締める。
「お待ちください! 我々は敵ではありません!聖王エメリナ様の命を受け、貴国と交渉を行うために参ったのです!!決して賊などでは……!!」
「賊が賊であると、素直に認めると我らが思っているとでも!?三度は言わぬ!!疾く、この場を去れ!!さもなくば……!」
さ、と司令官が片手を上げ城壁に居並んでいた兵達がその姿を現す。その手に持っているのは、間違いなく殺傷能力のある投槍だ。さもなくば、の意を余すところ無く理解させられの中の警戒レベルが一気に跳ね上がる。
「仮にも他国の特使に刃を向けられるが、フェリアの流儀か!?即刻槍を収められませ!!」
「ふん!胡散臭い輩にはそれ相応の報いを受けさせるが我がフェリアの流儀よ!口ばかりが達者な女狐め!その良く回る口を即刻閉じよ!!さもなくば、我らが勇槍がそっ口縫い付けるぞ!!」
「何を馬鹿なことを言っている!?礼儀がなってないだの口先だけだの……!!単なる言いがかりだろうが!!」
確かに言いがかりでは無く、事実なのは間違いない。だがそれをこの場で、しかも自分を押しのけてまで言うことじゃないだろう!!と肩を掴まれ、クロムの背後に押しやられたが胸中で抗議する。城壁上の人員の動きに集中していたため、クロムの暴挙を止める暇が無かったのだ。こんな時こその守役であろうに、とフレデリクを横目で見ればその手が虚しく宙を掴んでいた。
「クロムさん、危険です!前に出ないで……!!」
「俺はともかく、お前を侮辱されて黙っていられるか!!」
咄嗟に怒鳴り返されて、が目を見張る。何を馬鹿な、と思ったのは一瞬。しかしそれも次の瞬間、湧き上がってきた感情に塗り替えられてしまった。
他ならぬクロムに。あの、自分が惹かれて止まない真っ直ぐな視線と意志とでそう、断言されて。思わず泣きたくなる位、身体が暖かいもので満たされた。
即ち――歓喜に。
「相手の言い分を認めず、言いがかりをつけるのがフェリアの流儀だと言うのか!?勇壮なる戦士の国が聞いて呆れる!安全な場所からの一方的な物言いが、誇り高き戦士とやらのすべきことか!!」
完全に頭に血が上っていると気付いたフレデリクと我に返ったがともかくクロムを下がらせようと、一歩前に出る。だがその二人が手を伸ばすより早く、届いた声に激高した人物が居た。
「よくぞ言ってくれた!それ程我が国の威信を侮辱するならば、それ相応の報いは受けて貰おう!!我が国の流儀、その身で篤と味わえ!!」
「ま……!!」
待って、と言おうとしたの視界に――風の精霊の視界に、槍の雨が降り注ぐ。
その雨の下には、ただ一人、クロムの姿が――
視界の端に抜刀するフレデリクが、ソールが、ソワレが映る。リズが兄の名を叫び、ヴェイクがその場を走り出す。
ミリエルが凍りついたようにその場に立ち竦み、ヴィオールが射手を狙って。
いや、と何かが叫ぶ。伸ばされた右手、あの日見た悪夢に自分の腕が、クロムの姿が重なり――
「―――――ッ!!!」
声に成らない叫びが、の喉を裂く。
否、裂いたのは声では無かった。
それは光を孕んだ、一陣の
それはの、フレデリクの、そこに居た全ての者の間を軽やかに駆け抜けると、降りしきる死の雨から青年の姿を救い出した。
その全てを――風に巻き上げられた純白の羽根や、雪の一粒一粒に至るまでを。
まるで時間の流れがその時だけ停滞したかのような動きと鮮明さで、『』は見ていた。風の、水の、土の、火の精霊の目を通して。
「クロム様!!」
叫んだフレデリクの声に、ははっと我に返った。視線を上空に向ければ、純白の天馬に跨ったスミアと――クロムの姿が。
天高く舞い上がった、その無事な姿に自警団の面々から歓声と――安堵の声が漏れる。
「スミ――ア?」
「はい。ご無事ですか、クロム様?」
「あ、ああ……」
突如として逃れた死の咢――それを成したのが、彼女だと知って驚愕のあまり声が詰まる。あの場に残したスミアが何故、と視線を向ければ彼女は少々困ったように微笑んで。
「クロム様が――危険だと思ったら、身体が勝手に動いていたんです。この子も、私の思いに応えてくれたみたいで……」
愛おしむ様に鬣を撫でれば、天馬がそれに応えるように嘶いた。暫く呆然としていたクロムだったが、ふと眼下の仲間達のことを思い出した。そして、今置かれている状況も。
「スミア、下に降りられるか?」
「あ……はい、お任せください。クロム様。」
もう少し二人きりの時間を続けたかったのがスミアの本音だったが、今の状況を考えればそんなことを言っている余裕は無い。頷いたスミアの指示に従い、天馬はゆっくりと地上へと駆けていく。目指す着地点では自警団の仲間が集い、軍主と彼を救った見習い騎士の帰還を待っていた。
「クロム様、ご無事で……!!」
「おに、お兄ちゃん!!」
軽やかに着地した天馬から降りたクロムに真っ先にリズが飛びつき、青い顔をしたフレデリクが駆け寄る。その他、自警団の面々が次々にその無事を喜んだ。
「スミア、よくやった!!」
「本当だよ!見習い返上だね、お前もよく頑張った!!」
流石に男性陣は天馬に触れるような愚は犯さず、ソワレやミリエルがスミアとその乗騎を湛えた。その賞賛にスミア自身は、含羞むように頬を染め、もう夢中でと小さく呟く。ヴィオールが恋は偉大だねぇと彼らしくも忌憚の無い意見を述べ、益々その顔を赤く染めさせ――ふと。
一人、人数が足りないことに気付いた。周囲を見渡して、う、と呻く。
クロムがその呻きに気付いたのかどうかは不明だが、やはり人数が一人足りていないのことは気付いていた。口々に喜びを伝える仲間達の輪の外、元々居た場所から全く動いていない――
「!?」
まさか彼女にも攻撃の余波が、と思ったクロムが慌てて走り出す。が一人佇む場所までは大した距離では無い、即座に駆け寄りその顔を覗き込もうと――
「この……ッ!大馬鹿鳥頭男がーーーーーッ!!」
身体を屈めた瞬間、怒りに拳を震わせた女軍師の右ストレートがカウンターで決まった。防御する暇も無く吹っ飛ばされたクロムを、自警団の面々は勿論フェリア側の兵士達ですら呆然と見送る。
「な……!?」
何を、と呟く間も無く地面に倒れこんだクロムの上を、すぐ後を追ったが何の躊躇いも無く占拠した。淑女のすべき行為ではないのは一目瞭然、リズやスミアを筆頭に女性陣が顔を真っ赤にする。
「一体貴方はッ!何を考えて……ッ!!あれほど先陣を切るなと……!いいえ!あんなの先陣じゃありません!!単騎で突っ込むなんて、一体何て馬鹿な真似を……ッ!!」
クロムに跨った状態でその襟首を引っ掴み、声を時々詰まらせながらが叫ぶ。女の細腕とは思えぬ力で殴られ、あまつさえ公衆の面前で吹っ飛ばされてしまったクロムがそこで漸く我に返った。
我が身に起こったことを頭で理解した途端、反射的に怒声が喉を駆け上り――けれど、それは結局果たせなかった。
俯いているは、真下にいるクロムにさえその表情を窺わせない。
襟首を掴む両手が小刻みに震え、その手の上に――服に。ポツポツと幾つもの雫が落ちる。瞬く間に布地に染み込んだそれは、彼が好んで纏う蒼を更に深い藍へと変えた。
「貴方は一体ッ……何年、私の寿命を縮めれば……ッ!!」
ギリ、と唇を噛み締める音と共に、鉄錆びた味が即座に口内に広まる。だがはそんなことには全く頓着せず、クロムを掴む拳に益々力を込めた。常から紅など差さなくても朱い紅唇が緋色に染まって行く様を見てクロムの中の怒りが急速に萎んで行く。
いや、本当は元々怒ってなどいなかった。が――彼女が怒りを、涙を露わにするのは。いつだってクロムの為であったから。
「すまん。」
だから、すでに痛み出した左頬の惨状を思っても怒ることなどできないのだ。まるで頑是ない幼子のように、俯いたまま首を左右に振るを視界に収めてしまえば尚の事。
ふ、と苦笑を零して彼女に向けて腕を伸ばす。襟首を掴む拳は服に皺を寄せる程きつく握り締められていたが、腕そのものには殆ど力が入っていなかった。その証拠に腹筋を使って上半身だけを起こしたクロムの腕の中に、小刻みに震える身体がすっぽりと収まってしまう。
「……俺が悪かった。だから、頼む。泣かないでくれ、。」
だからクロムには、それしか術が無かったのだ。
いつかの森の中でのように、声無く無き噎ぶの頭を肩口に寄せて。あの日、そう彼女が自分にしてくれたように。
華奢なその背を、何度も何度も優しく撫でることしか。
すまなかったと、泣かないでほしいと。そう、その万感の思いを込めて――