戦士の王国 U] V
石造りの長城をクロムは一人、肩を怒らせながら歩いていた。
多少の誤解はあったものの、国境を預かるフェリア兵との交渉も滞りなく済み早ければ翌日、遅くとも三日後には長城を発てると長たる司令官から直々にお墨付きを貰ったにも関わらず、だ。
「あの馬鹿……!」
クロムの言うあの馬鹿、とは先頃自身が拾った女軍師――のことである。長城司令官との一騎打ちに挑み、これに見事勝利してみせたかの女傑は、その後何を思ったのか一人長城内では無く外に設営した天幕で休むと言い出したのだ。
それだけなら、いや本音を言えばそれだけでも許し難いと言うのに、彼女は食事すら何も言わずに済ませてしまったらしい。その席で何としても長城内に戻るよう説得をするつもりだったクロムにすれば肩透かしもいいところ、食事を終えるなり早々に広間を飛び出したのである。
背後でフレデリクが何やら叫んでいたような気がしたが、それは既に頭の片隅に追いやってある。
(そもそも、俺は一人で場外に出ることだって許可した覚えは無いんだぞ……!)
クロムも今更がここから逃亡するとは思っていないが、それを差し引いても一番休養が必要な人間を戸外に置いてどうすると言うのだ。本人とて休養の必要を自覚していない筈が無く、だが何故か彼女はまるで孤立するような場所を態々を選んだ。本人の為人をよく知らぬライミなどは素直に感心しているようだったが、あんな取って付けたような理由でクロムが納得すると思ったら大間違いだ。
隠している――と言うよりは、意図して告げていない(クロムに言わせれば同意議だ)ことが何かしらあるのだろう。
……情け無い話だが、未だ以てクロムはその理由を欠片も思いつけない。だとしたら、直接聞くしか方法など残っていないでは無いか。
(それに……)
疑問は他にもある。
フェリア側の誤解は解けたと言うのに、
皆は気付いていないかもしれないが、クロムは一人正しくその心情を嗅ぎとっていたのだ。
(何かあった。いや、もう既にあるのかもしれない。)
それに対処する為には、一人の方が都合が良い。若しくは一人でなくてはならない。大方、そんな所かと当たりは付けているクロムである。勘の良さは恐るべし、と言ったところか。
「だからと言って何故俺に黙っている!?」
何よりクロムはそれが気に食わない、公的であれ私的であれ話くらいは聞く権利がある筈だと憤る。
最もは、言ったら言ったでまた騒ぐだろうと見越して口を噤んでいるだけなのだが。
政治の裏側――と言っても入口中の入口、いや、それを平然と行う自身の姿を――見せたくないと言う感情を彼女自身は否定できないのだが。
感情の赴くままに足を運んでいれば、件の天幕はすぎに見えてきた。時間的に言って食事の最中かもしれなかったが、確実に捕まえる為にはむしろ都合がいい。不在の札が掛かっていないことも確認し、クロムは大きく息を吸い込んだのだった。
「ふぅ……」
温めのお湯に腰を浸し、漸く一息つく。剥き出しの肩や胸、腕に浸っている湯を掛け汗や埃を流し落とした。
(流石に……魔力を保持したままでいるのは疲れる……)
一人での夕食を取り終え、これは完全に相手の好意に甘える形で湯浴み用の水や盥を用意して貰った。何しろクロム達の夕食の準備、配膳に至るまでの光景を風の精霊達に頼んでずっと監視して貰っていたのだ。正確に言えば、彼らの視界をがずっと維持していたのだが。魔力もそうだが、気力の消耗も激しい。何事も無く食事が済んだ以上、多少なりとも休息を取らねばこちらの身が保たない。
フレデリクやソワレに、クロムとリズの身辺への警戒を頼めただけで外的要因に於けるの負担はほぼゼロとなったと考えていい。だが、内因性に因るものは――いくら警戒しろと言ったところで無理だろう。
だからこそは余計なことは口にせず、あの二人には外敵にのみ集中して貰ったのだ。 本来であれば内因性のものをより警戒すべきなのだろうが、こればかりはどうしても向き不向きがある。いくらフレデリクやソワレが不意討ちを警戒し、また初撃を防いだとしても食事に毒を盛られでもしたらそれで終わりなのだ。
暗殺や諜報、人を疑い欺くようなことを好む輩はそう居ないだろう。だが、時と場合に因っては最も流れる血の少ない結果に繋がる場合がある。正当性を口にするつもりは毛頭無いが、それがベストと判断すればは勿論――エメリナとて、躊躇わないだろう。
(私も、
溜息を吐き、脳裏を過った濃紺の髪の青年のことを考える。そのある程度に思慮深い性格から、決して政に向いていないとは思わない。
だがその反面気性を考えると、王族でありながらこれほどまでに政に向いていない人間も珍しいと思う。
見る者を捕えて離さない、真っ直ぐな視線――きっとは政特有の生臭さによって、その彼の視線が歪められてしまうことが嫌なのだろう。それが決して彼の為になるかどうかなど関係無く、自身がそう――望んでしまっているのだ。
「一体……」
いつからだ、と自嘲する。一体いつから、自分は。クロムに。あの瞳に――囚われてしまったのだろう。
愚かなことだ、と盥の中で膝を抱えた。生粋のイーリス人なら、いや、例えイーリス人であっても決して簡単に手を伸ばしていい人物では無いのに。それが身元すら確かでない、記憶すら彼に出会う以前のものの無い自分では尚の事――
(なるべく……)
早くにイーリスを離れるべきだ、と自分の中で何かが告げる。そしてそれと同時に、せめてそれまではと呟く自分が居て。詮も無い考えを振り払うように、頭をゆっくり左右に動かした。水分を含んだ髪が揺れ、周囲にその飛沫を飛ばす。いくら天幕内に暖気が籠っていると言っても、限度がある。大きく一息吐いたは、もういい加減上がるかとゆるりと顔を上げた。と。
「おい!!!」
天幕の外から、何やら穏やかとは言えない声が響いてきた。その声音と声の主に、訝しげに眉を顰めてゆっくりと立ち上がる。
「……クロムさん?」
緩慢と尋ねかければ、ああ、と応えが返ってくる。は更に眉間に皺を寄せた。風の精霊の力を借りるまでも無い、戸口近くに感じる人の気配は一つ。この声は間違えようも無くクロムのそれであるから、気配が一つだけと言うのはおかしいのだ。
「本当にクロム……さん?お一人、です、か?」
まさか、と思って問えばやはり憮然とした声で一人だと、返ってきた。何でと呟けば、聞こえたのだろう。用があるからに決まってるだろう、とやや苛立った声がする。
「話がある。入るぞ。」
「は?ちちちちょっと待って下さい!」
入る、の言葉に漸く思考が動きだす。理由は分からないがクロムが一人で自分の元を訪れ、いや、理由が分からないことよりも 今この状態で入られる方が余程まずい。何故もっと早く思考を元に戻さなかったのかと、自分を怒鳴り付けたくなったが既に後の祭りで。
「ちょっ……!クロムさん、ちょっと待って下さい!私がそっちに行きますから……!」
「何でだ?俺が行けば済むことだろう?入るぞ!」
まさか湯浴み中です、と大声で言うわけにもいかずとにかく何か羽織る物をと辺りを見回す。しかしいかに優秀な軍師と言えども(自分で言うのも何だが)、こんな状況は予測していなかった。
着替え、着替えと呟いて当の着替えは別に区切られた寝台に放り出したままだったことを思い出した。面倒くさがって湯船には僅かに手拭いを持ち込んだだけの自分に、時間を遡ることが許されるならサンダーの一つでもお見舞いしてやりたい。
だがそうしている間にもクロムは天幕の中へ足を進めており。二重扉になっているのがせめてもの救い、咄嗟に手直にあった手拭いだけをひっ掴んだところで内扉が乱暴に開かれた。
「!おま……」
え、と続けようとしたクロムが目の前の光景に硬直した。
暖かな空気の保たれた室内、天幕にしてはしっかりとした造りのそこには半裸――と言うよりは、裸身に近い格好のが。
身体を隠そうとしたのだろう、右手に薄い手拭いを持ち、だが突然の闖入者の出現に為す術無く立ち尽くしていたのだった。
「な……なななな何、で、」
裸?と、クロムの唇が動く。それでいながら、視線は前に釘付けだ。
「は、入って来ないでって言ったじゃないですかっ!?」
自分を抱き締めるように咄嗟に蹲っただったが、時既に遅くクロムの両目にはしっかりとその白い裸身が焼き付いていた。首から肩にかけてのなだらかなライン、何時ぞや背中越しに感じたことのある豊かな双房。痩肉ながら不健康さなど微塵も感じさせない、繊細な芸術品さながらの曲線。無粋な手拭い越しに見えた、髪と同じ色の――
「クロムさんっ!!」
耳朶を打つ声に、はっと我に返る。蹲ったままのが、顔を真っ赤にさせながらクロムを上目遣いに睨みつけていた。
「い――いやいやいや!わ、わざとじゃないぞ!?」
「そんなことどうでもいいんです!いつまで見ているつもりですか!?」
見ている、の言葉に再び視界を落としてしまった。あの日偶然目撃した――月明かりに浮かんでいた白い背中が、今度は手を伸ばせば触れられる距離にある。
ごくり、と思わず生唾を飲み込んでしまい、こちらを睨みつけると目が合ってしまった。今まで見たことの無い(すぐさま自身がフードで隠してしまうからだ)、真っ赤になって恥じ入る表情。恐らく、見たのはクロムが初めてであろうその表情に動悸が早くなる。
――これだから、彼女から目が離せないのだ。共に居れば居るほど、知れば知るほどクロムの知らない表情を見せる。本来であれば当たり前のことも、だがに限って言えば常に隣に居るクロムの特権のように思えて――
「クロムさんっ!いい加減さっさと出て行って下さいっ!!」
度重なる怒鳴り声に、漸くクロムは自らの置かれた状況に思い至る。どうやら湯浴みの真っ只中に踏み込んだらしい自分の目の前には、未婚のうら若い女性が裸に近い格好で蹲っており――
頭がドカン、と音を立てて爆発した。
「あ、あぁぁぁっ!い、いや、待て、!!べべべ別に疚しい気持ちはこれっぽっちも……!」
「どうでもいいって言っているでしょう!?早く出て行って下さいってばっ!」
爆発したついでに耳まで真っ赤に染まったクロムが狼狽しながら弁解するが、元よりそんなことはどうでもいい――先程から何度もそう叫んでいると言うのに。一向に完全の男から動く気配は感じられない。
こちらは動くに動けないの前で、思考能力が真っ白になったらしいクロムが弁解になっていない弁解を必死に続けている。
――精神の耐え得る限界が来た。
「――っ!!出てけーーーっ!!!」
響いた絶叫に意識を横殴りに叩かれたクロムが、文字通り転がるように天幕の外へ走り出す。後を追うようにサンダーの魔道書が投げつけられ、地面に落下した。
後に残されたのは顔を真っ赤にしながら肩で息をする、半泣きになっただけであった。