戦士の王国 U] W


(ままままずいまずいまずい!)
同じように耳まで真っ赤になったクロムは、天幕を背に蹲るような形で一人狼狽していた。
怒りと勢いに任せて天幕に侵入したまではよかったものの、そのクロムを出迎えたのは湯浴み真っ最中のだったのだ。事故だと胸を張って主張はできるが、それを本人に言うにはあまりにも衝撃の強い光景だった。今でもありありと思い出せる、一糸纏わぬ白い裸身が目にも鮮やかで……

「ななななな何を考えてるんだ俺は!?」
片手で口元を覆い、脳裏に焼き付いた光景を振り払おうと何度も頭を振る。
だが、どう言う訳かその光景は消えるどころか、益々その鮮明さを増しクロムの体温の上昇と鼓動の速度に拍車を掛ける。陶器とは違う、体温を通わせるその白い肌に触れたらどんな感触がしたのだろうかと――

「だーーっ!だだだだから、違うだろうが!?」
盛大に自身に突っ込み、思考の大半を占める不埒な考えと影を振り払う。正確には、振り払おうとした。
「〜〜〜〜っ!!」
が、しかし。クロムとて若い男性である。いかに女性に対しては紳士であれと教え込まれていようとも、現実を目の当たりにしてしまっては挙動不審になるのも仕方なかろう。文字通り頭を抱えて、ずるずると座り込んでしまった。

「……クロムさん。」
どのくらいそうしていたのだろうか、自分の名を呼ばれて我に返ったクロムはそこで漸くが傍らまで来ていたことに気付いた。
無論、きちんと服は着た状態で。

「!」
声の主に考える迄もなく思い至ったクロムは、弾かれるように立ち上がりそのままの勢いで距離を取った。見れば未だ濡れ髪のままのが、やはりこちらもどこか落ち着かなげに佇んでいる。
「あ……す、すまん。その……本当に……」
視線を合わすことなく謝るクロムに、俯いたままのが首を横に振る。故意で無いことは分かっていても、否、分かっているからこそ非常に気まずかった。それ以降、何かを言わなければならないと言葉を探しているクロムに、やはり俯いたままが告げた。
「――忘れて下さい。私も、この一件は忘れます。クロムさんは、な……何、も見なかった。それで、いいですよね?」
何も見なかったとするには少々刺激の強すぎる光景ではあったが、上から下までをばっちり見てしまったクロムに拒否権は無い。むしろそう言ってくれるに、感謝すべきなのであろうが……

「あ……い、いや。しかし。お、俺にも男としての責任が……」
「何にも見てないんですから責任なんて生じません!大体どう責任を取るつもりなんです……!!」
忘れろと言っているのに、変なところで生真面目さを発揮するクロムを恨めしげに見遣る。人の記憶がそう簡単に出し入れできるなら話は別だが、口で言う程簡単にはいかないのだ。

「あ、あーっと。それはだな……」
「……そうやって、何の考えも無く言葉を紡ぐのはクロムさんの悪い癖ですよ。口にしてしまったら、その言葉を――口にした事実は取り消すことができないんです。も、いーですから。忘れて下さい。私も忘れますから……」
溜息交じりに呟けば、すまんとクロムが謝意を重ねる。それに分かってます、と頷いて彼に向き直った。

「それで?どうかなさったんですか?」
にとってポーカーフェイスを作るなどお手の物である。わざと事務的な口調で来訪の理由を尋ねれば、その態度から本当に気にしていないのだろうところっと騙されてくれたクロムがほっとした様子で肩を下した。

「あ、ああ。そ、その……そ、そうだ!今後想定される軍の進路を相談したくてな!」
如何にも今考えました、といったクロムの態度に、器用に片方の眉だけを動かして怪訝な表情を作る。
特に追求する気は無かったので、そうですかと納得したふりは装ったが。

「……とにかく、中へどうぞ。」
「な、ななな中か!?」
何を想像したのだこのトンチキ、とは思っただけで口にせず一つ頷いて肯定する。誰の耳目があるか分からない状態でするような話でも無いだろう。
「まだ髪が濡れたままなので。このままだと少しさむ……」
「馬鹿!風邪をひいたらどうする!?」
の言葉を途中で遮ったクロムは、慌てて彼女の肩を掴んで天幕の中へと連行する。流石に湯浴み用の盥やら何やらは片付けられており、しかしその後特有の香りやら水気がそこはかと無く漂っていて……

「クロムさん?」
「なななな何だ!?」
思わず鼻腔を動かしてしまっていたクロムが、急に名前を呼ばれて振り返った。何故かその頬が微妙に赤い。

「……どうかされました?」
「い……いや!な、何でも!ないぞ!?」
その割には挙動不審だと言うべきか、一瞬迷ったであったが何となく藪蛇のような気がしてそれ以上は言及しなかった。
軽く溜息を一つ吐いて、簡易棚から地図を引っ張り出す。用向きが行軍計画のことだと言うのなら、早めに済ませて早々にお引き取りを願わなければ。フレデリクからの小言に巻き込まれたいとは、流石のも思わない。

「で、具体的にはどういう感じです?」
フェリアまでの道程でどういう感じもへったくれも無い気はするが、軍主と軍師の意見を同じくすると言うのは強ち無駄な作業では無い。 例えそれが咄嗟に口を突いて出たものだとしても。
「こ、この地図に沿って進軍した場合にだな。険しい近道と少し遠回りになるが、平坦な道を行くべきか……き、決めておいた方がいいと思ってな。」
確かにクロムの言う通り、フェリア迄の道程には二通りある。自警団(じぶんたち)だけなら迷わず前者を採っていただろう。
「……そうですね……」
だが、欲を言えば後者だ。戦力の補充も十二分にあり、若干遠回りとは言え行軍の速度を考えれば特に大差が無い。となれば行程の楽な方を選びたいのが人情だろう。だが。

「・・・・・・あまり大仰な行軍は本意ではありませんし、ね。」
悪戯っぽくが呟けば、クロムは何度も首を縦に振り同意の意見を表す。その子供のような仕草に自然と顔が柔らかくなり、窘めるように苦笑を零した。

「でしたら、やはり近道を行きましょう。敵と遭遇した場合、平坦な道ですと戦列が伸びて危険ですし。」
暗殺の危険も高くなる、とは胸の中だけで呟いた。もう一方でも同じことが言えるが、逆にこちらの方が暗殺のポイントを絞り易い。
風の精霊達の助けがあれば、潜んでいる間諜を探し出すことなど朝飯前だ。
「そ、そうだな。だが、司令官には何と説明する?」
「一刻も早く王にお目通りを願いたい、とでも伝えますよ。嘘ではありませんし、ここを手薄にしたく無いと言うのもありますし……」
なるほど、と頷いたクロムがぴしりと硬直した。地図を辿る為に半歩分近付いていたのだがその距離が思った以上に近かったのだ。
――湯上り特有の香りがクロムの鼻腔を擽る程度には。

「!!」
自慢の瞬発力を駆使して、咄嗟に距離を取ったはいいがやはり余りにも突飛な行動だったのだろう。がきょとり、と驚いた表情を覗かせている。

「どうかされました?」
「なななな何でもない!」
流石に今の態度には思いっきり何かあるだろう、と指摘すべきかと迷う。自身に特に心当たりが無いので、気になるのが本音だ。
「はぁ……ですが、先程から挙動不審ですよ?何か心配事でも……」
「いや、無い。本当に何でも無いから、気にしないでくれ。」
そこまで断言されてしまっては、追求する気にはならなかった。そうですか、と相槌を打って身震いを一つする。流石に少々肌寒くなってきたかもしれない。
「……お前こそ大丈夫か?」
気付いたらしいクロムに苦笑を零すと、少し肌寒いかもしれませんと正直に告げる。すると途端にクロムの心配性の虫が騒ぎ出したのか、医者を!と慌てだした。

「大丈夫ですよ。この程度、暖かくしてゆっくり休めば。」
「しかし……!」
そこでクロムは漸く自分がここに来た理由を思い出した。いくら頑丈とは言え、天幕には代わりない。休むと言うなら、頑丈な造りの雨風を防げる場所の方が良いに決まっている。

「フェリアとの連絡窓口が必要だと言うなら、俺が残ればいいだろう。、お前は長城内で……」
「クロムさん。」
だがそれ以上は言わせず、が首をゆっくり左右に振る。
「……お気持ちはありがたいんですが、軍主たる貴方を天幕に押し込む訳にはいかないんです。国の威信が問われます。私なら大丈夫ですから……」
「だが!今、一番休養が必要なのはお前だろう!国の威信など関係無い!お前に何かあったら……!」
どうする、と言いかけたクロムの唇をそっと人指し指で押さえた。本当に政治に向いていない、と苦笑を零しながら。けれど胸中は正直複雑だ。良し悪しは別として、彼は。クロムは。自らのことを心配してくれているのだから。
それを――嬉しいと思うくらいは、許して欲しい。

「本当に大丈夫です。何かあったら、すぐ伝えますから。それからもう一つ。今、ここに居るのは私だけですから問題ありませんが、迂闊に国の威信が関係無いなんて仰らないで下さいね。もう既にフェリアとの外交は始まっています。貴方の一挙一動にイーリスの未来が掛かっていると言っても過言では無いんです。」
ぽん、とクロムの胸を拳で軽く叩いて苦笑を向けた。見上げた表情が、ぎくりと強張る。
「そんな表情しなくても、貴方一人に全ての責を負わせるつもりはありません。その為に私がここに居るのですから。」
宥めるように肩を二、三度叩き微笑を浮かべる。途端に抜けた肩の力に、本当に困った人だと胸中でだけ苦笑を零して。

「クロムさんこそ、ちゃんと休んで下さいね。あんなことがあったんです。多分、ご自分で自覚している以上に疲労が溜まっているはずです。まだ先は長いんです、抜ける時に気を抜かないと……」
「それは。」
唇を塞いでいた白い指を手ごと剥がし、クロムがその先を遮った。その剥がした手を握り込み、口元近くに強引に持っていく。
「お前だって同じだろう、。あれだけ力を使って、危険だって……!」
ああ、とクロムがわざわざここまで来た理由に漸く思い至った。ふ、との表情が柔らかくなる。

。」
「ああ……すいません、そうじゃなくて。クロムさんには申し訳無いんですが、その、嬉しいな、って。」
咎めるようなクロムの声音に、頭を左右にゆっくりと振る。これは掛け値なしの本音だった。
「私は多分、ずっと一人だった……でも、誰かから気遣われたり心配してもらうことが、嬉しいと思えるくらいには――誰かと、一緒にいたことがあるのだと……そう、思えるんです。」
「!記憶、戻ったのか!?」
「……いいえ、記憶は。でも、その記憶に付随した感情までが消えたわけじゃない。素直に嬉しいと、そう思わせてくれた、その相手すら分からないのに。おかしいですよね……」
どこか遠くを見るような表情で記憶が戻ったわけでは無い、と言われクロムは彼女には申し訳無いがほっとしてしまう。の不安が続くことを願っているわけでは無いが、クロムにはどことなく予感めいたものがあった。
失われた過去(きおく)が彼女を――を。自分の元から、永遠に連れ去ってしまうような気がしてならないのだ。

「おかしいとは思わん。それはお前と言う人間が、確かに居た証だろう。」
「……だと、いいんですが。……とにかく、クロムさんも戻って早めに休んで下さい。多分、そう時間は掛からずに首都に向かうことになると……」
「……。」
握り締めた手に力を込めて、そこから先を遮る。その声に織られた感情に逆らえず、は真っ直ぐクロムを見上げた。

「……お前、一体何を隠している?いや、正確に言うなら何を俺に黙っている、だったか。」
「………」
軽く目を見開いた彼女に、やはりかとクロムが溜息を吐く。その内容は未だ見えてこないものの、が何事かを懸念し考えていることを今の反応で確信してしまった。

「リズにも言われたがな。お前はそれが最良と考えたら、死ぬまで口を閉ざしているだろう。……それでは駄目だと、分かってはいる。本来なら、俺やリズが……とりわけ、俺だな。が、やるべきことなのも。だが、情けない話だが、正直それが何なのか俺には未だに見えてこない。、教えてくれ。お前は今、何を考えて――俺は、何をすればいい?」
握り締めた手は、細い肩は。一体何を背負っているのだと、真摯に問い掛ける。

「……私は、信用できませんか。」
「そうじゃない。……俺は、お前一人に何もかもを背負わせたく無いんだ。お前を、お前だけを。危険に曝したく無い。もし、万が一。何も知らないまま、お前に何かあったら。俺は一生後悔するし――俺、自身を許せない。」
それはエゴだ、としかしは口にしなかった。クロムにはクロムのエゴが――思いがあるように、にもある。だからこそ告げられぬのだし、これから先告げるつもりも、無い。だが、こんな表情をしているクロムが簡単に引くとも思えなかった。
さてどうしたものか、と色々な感情から眉間に僅に皺を刻んだが口を開く。

「……そのお気持ちだけで十分ですよ。一人ぼっちの私には、それが何よりの報酬です。他ならぬ貴方からそう思って頂けるだけで――私は、十分報われていますから。そう例え――私が……倒れたとしても。」
決してあり得ぬ事態では無い、その可能性を示唆したに途端にクロムは表情を強張らせた。

「だから!俺はそれが嫌なんだ!お前に何かあったら、俺はどうすればいい!?」
思った以上の反駁に、反射的に目を見開く。仲間としてその安全を懸念するにしては、少々感情的な――逸脱した反応な気がした。
許されないことと知りつつも、心が温かくなる。だからこそ――自分はクロムを守りたいのだ。

「ありがとうございます、クロムさん……」
……?」
嬉しそうに――それでいて、どこか泣きそうな表情をするの名を、クロムは怪訝そうに呼んだ。まるで何かを最初から、全て諦めているような、そんな表情。咄嗟に両腕を掴んで、その顔を覗き込む。

、違う。その……俺は!」
そんな表情をさせたいわけじゃない、と続けようとしたクロムに分かっていますよと小さく涙交じりに微笑む。
分かっている。この男は真っ直ぐなのだ――そう、それは時に残酷なほど。

「大丈夫です。約束しましたから。必ず、望むべき結果をもぎ取ってくると。ですから、無理をしないとは言い切れませんが…・・・それは、貴方にとってもイーリスにとっても。悪い様にはなりません。」
「……だから!」
それが嫌なのだ、と何故伝わらないのかとクロムは思う。そして――引っ掛かった。が言った、その『約束』をした相手とやらに。

「……そう言えば、まだ聞いていなかったな。アスランのこと――出発前の晩、一体フィレイン達と何を仕出かした?」
「……拘りますね、クロムさん。」
当たり前だろう、と視線を外さずに答えれば諦観の表情を消したが苦笑した。表情が変わったことに少しだけ安堵を覚えたクロムが、更に続けようとしたが不意に上がった口角――にやりと笑った表情にぎくりと身体の動きを止める。

「それも――ま、おいおいですね。」
「おい。それは……」
どういう、と続けようとしたクロムを不意に聞こえた――耳に馴染んだ音――声が遮った。

さん!!クロム様が……っ!!」
無粋の極みとも言える声と共に、お邪魔虫(フレデリク)が転がり込んで来て。

確かに俺は良く物を壊すが、だがお前は空気をぶち壊すじゃないか――そう、がっくりと肩を落としたクロムであった。

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