神剣闘技 X
はぁ、とその扉を前に、青年は早朝にも関わらず既に片手を越えた回数の深呼吸をした。
だがこうしていても、時間は着々と過ぎて行く。青年は意を決すると、大きく息を吸い込んで眼前の扉に手を掛けた。
そしてそのまま、思い切り左右に引き開ける。
「起きろ!朝だぞ!」
人一人を叩き起こすには十分過ぎる声量が辺りに響き――しかし、次の瞬間には血相を変えたその声の主が部屋を正に転がるように飛び出して行ったのだった。
(……迂闊だったわ、我ながら……)
あまり爽快とは言えぬ気分のまま、は朝から何度目になるか分からない溜息を吐いた。ただし、胸中で。
「?、どうかした?」
「いえ。何でもありません、ソールさん。」
本音を言えばありまくりだったが、口にはしない。目深に被ったフードの下からちらりと隣を歩くヒョロリとした青年に気付かれぬよう、再び溜息を吐く。
二人が闊歩しているのは、早朝の東フェリア城下である。フードを目深に被ったと、軽装とは言え帯刀したソール。人目を引くことこの上無い二人連れは、しかし衆目などには目もくれず人通りの多い道を迷うことなく進んでいた。
「そう?それならいいんだけど。朝、会った時から酷い表情してたから。」
「いえ、本当に。単なる寝不足ですから。」
加えて言うなら二日酔いか。酔ってはいないが、飲み過ぎだったのは火を見るより明らかだ。
「寝不足も立派な体調不良だと思うけどね……やっぱり、戻った方がいいんじゃないかな。」
「調べたいことがありますので、それを終えたら戻ります。大丈夫ですよ、フラヴィア様にも外出の旨は告げてありますし。」
「……でもクロムには何も言ってないんだよね?」
「…………お休みの所を起こすのもどうかと思いましたので。」
たっぷり五秒は沈黙してから続けたに、こちらは隠しもしない溜息が返ってきた。
何故こんなことになったのかと思えば、単に運が悪かったからとしか言い様が無い。飲み過ぎた翌日特有の倦怠感やら気分の悪さの中目覚めてみれば、半裸に近い格好の自分がいて。潰れた後の記憶は無いが、まさか王城で滅多なこともあるまいと失態に蓋をした。軽く身繕いを済ませ、向かった先はこの国一の女傑の元で。
二日酔いの気配すら感じさせぬ国王陛下は朝も早よから鍛練に勤しんでおり、は彼女に外出する旨を告げて城下に下りてきたのだった。
悩みの種である傍らのソールについて言及するなら、馬の世話をする為に同じく早起きをしていた彼と鉢合わせしてしまったの一言に尽きる。
顔を合わせてしまえば、何処に行くのだと聞かれるのは至極当然。これがクロムやリズならちょっとそこまでと適当に誤魔化す自信があるが、人の良さそうな顔とは裏腹に中々食えないとの定評がある御仁だ。のらりくらりとかわされて、煙に巻かれる可能性が非常に高い。
故に情報収集を、と正直に告げたまでは良かったのだがならば護衛をと買ってでられて今に至る。
「今頃心配してると思うけど?」
「でしたら、言伝てをお願いできませんか。ご心配頂かなくとも、大事の前に迂闊なことはしませんよ。」
クロムじゃあるまいし、とは胸中で呟いて傍らの騎士に微笑みかければソールは両手を上げて早々に白旗を上げた。
「それでクロムの勘気を真っ正面から蒙るのは遠慮したいなぁ。女性を一人治安の悪い場所に残してきたなんて知れたら、その場で殺されかねないよ。」
「大丈夫ですよ。クロムさんを筆頭に、私を女として見ていない方は両手に余るくらいですから。」
「……うーん。その両手に入らない身としては、非常に苦言を提させてもらいたいんだけどなぁ。」
「苦情はクロムさんの方へどうぞ。」
あ、だめだこりゃと説得を早々に放棄したソールは、再びため息を零すと気を取り直して周囲に視線を走らせた。
既に露店や商店は店を開けており、人々もぼちぼち活動を始めている。しかし彼女は周辺には目もくれず迷いの無い足取りで街中を闊歩して行く。目的や目的地を告げること無く、しかし先程宣言した通り自分一人だけ城に戻るなど論外な選択肢の中の傍らを歩いているのだった。
「と、まぁ……冗談はここら辺にして。本当にどこに行くつもりだい、?」
「……調べたいことがあるんです。他ならぬ自分の目と耳で。」
他人任せにするつもりは無い、と言外に告げればソールは困ったように頭を二、三度掻いて。肩を竦めながら腹を括ったとばかりに、苦笑を零した。
「本当に仕方ないなぁ。一緒に怒られてよね、軍師様。」
「すいません。ありがとうございます、ソールさん。」
確信犯的な二人組は、居残り組の心知らずな暢気な会話を交わしながら雑踏の中へ消えて行ったのだった。
「遅い!!」
「お兄ちゃん、それ何回目〜?」
東フェリア城城門前。本日何度目になるか分からない兄の叫びに、こちらも何度目になるか分からない突っ込みを入れた妹である。
「遅いものを遅いと言って何が悪い!?もう閉門の時間だぞ!?」
「まぁ、そうなんだけどさーさん、子供じゃないんだし。大丈夫じゃない?」
「確かに子供じゃないけど、女性なんだよ、リズ。第一子供じゃないから危険だってことも……」
と、リズを嗜めたのはソールだった。早朝は確かに件の人物と行動を共にしていた彼が何故この場に居るのかと言うと、導かれる答えは一つしかないのだが。
「しかも、僕を撒いてまで。これはきーっちりと説明してもらわないと、僕としても納得できないかな。うん。」
「ソール、顔怖いよ……」
フレデリク張りの輝かしい笑顔に、リズの腰が引けた。ちなみに本家本元も、かなりご立腹の体である。こちらは騎士であるソールが簡単に撒かれた事実に関して、つい先程まで小言を零していたせいもあるのだが。
「何だい、まだ戻ってきてないのかい?」
と、居並ぶ面々の後ろから声が掛かった。誰、と思うでも無くしなやかな体躯をした長身の女性――この国の王の一人であるフラヴィアが、悠然とした足取りで歩み寄って来たところで。
「フラヴィア。」
「しかし意外に過保護だねぇ。心配ないって言われたんだろう?」
「言われましたけど……正直、それをそのまま受け入れられる程、大人しくないんですよ。彼女。」
「ま。そりゃそうさね。そもそも大人しい人間に軍師なんか務まらんだろうし……」
幸か不幸か、フラヴィアが気に入るほどの逸材である。大人しくあるはずも無い。とは言え、唯一この中では彼女が仲間を撒いてでも調べに行った内容を知っているだけに庇いたくもなるのだが。
「ところでフラヴィア。ソールがから預かってきた、言伝は何だったんだ?あいつの言う、調べたいことって言うのは……」
「ん?何だい、クロム王子。野暮なことを聞くねぇ。女同士の秘密に首を突っ込もうってのかい?」
「ぅえっ!?お、女同士の秘密!?」
からかい交じりのフラヴィアの答えに、あからさまにクロムが動揺する。この程度で揺らがないでくれ、と所々から突っ込みが入るが各々の胸の内で呟かれたため伝わることは無かったが。
「……と、まぁ。それは冗談として。調べに行ったのは、イーリスにも損の無い事さ。信じて待っていておやり。」
「し、しかし……っ!それなら、俺に一言相談があっても……!」
「相談したら、付いてくるって言い張るじゃないですか。クロムさん。」
「当たり前だろう!!お前ばかり危険な目に……って!?」
「はい。只今戻りました、クロムさん。フラヴィア様。」
突っ込みに対して律儀に応えたクロムが、驚きながら振り返る。そこにはややくたびれた表情をした、件の人物が若干の距離を取ながら立っていたのだった。
「さん!おかえりー!って、あれ?」
「どうかしましたか、リズさん?」
「あーうん。何でもないんだけど……」
そうですか、と納得しただったがやはりリズは怪訝な表情をしたままで。フレデリクやソールにも、ただいま戻りましたと常通り淡々と告げ出鼻を挫いたのである。
「いや、ただいま戻りましたっておま……!い、一体こんな時間まで何を……っ!」
「あれ?ソールさんから聞いておられないんですか、クロムさん。」
「聞いてはいるぞ!?だ、だが、おま……あのなぁ!」
「翻訳すると、あれだけで納得できるかってクロムは言いたいんだと思うよ。ちなみに、一方的に伝令係にされた僕としても色々納得できないことはあるかな。」
「ああ、なるほど……納得も何も、クロムさんは情報収集に向いていないって程向いていませんし、ソールさんに於いてはイーリスの騎士だと面が割れてそうなんでご足労願わなかっただけなんですが。」
蓋を開けてみれば何て事の無い理由に、クロムもソールも開いた口が塞がらない。リズとフレデリクに至っては確かに、と思わず納得してしまいフラヴィアに笑われる羽目になったのだが。
「それで?結論から言って、どうだったんだい?」
と、これはフラヴィア。の帰還を色々な意味で心待ちにしていたのは、実は彼女だ。僅かに厳しくなった表情に、わなわなと震えていたクロムやソールが何事かと表情を変えた。
「結論から言えば芳しくありませんね。――私が思っていた、以上に。」
距離が離れているせいで表情を完全に読み取ることはできなかったが、その声音は思わず背筋を正してしまう程度には硬いものだった。事情を把握している二人の間に挟まれている面々が視線で双方に説明を求めるが、その女傑のどちらもが口を開こうとはせず視線を交わしている。
この中では最も短気と定評のあるクロムが、膠着した事態に早々に焦れ部下の立場であるに説明をさせるべく口を開きかけ――
「時に。リズ王女に聞いたんだが、あんた大の風呂好きなんだってね?」
「は?あぁ……はぁ。まぁ。」
気配を察したのか、フラヴィアの声によって見事に遮られた。無論クロムの気配を察していたのはも同じで、彼女も横槍を遮るでいるつもりでいたのだが。流石にこんな方向に話が飛ぶとは思っていなかった。
面食らった様子で頷き、フラヴィアの問いに首肯した。
「それだったら、早くお言いよ。この城にはねあたし自慢の浴室があるのさ。随分くたびれてるみたいだし、正式な報告はその後でもいいんじゃないかい?……そういや、あんた食事は?」
「へ?あ、はい。まぁ、適当に。」
矢継ぎ早に尋ねられて本当にただ答えるだけのに対し、問いを投げかけた本人はうんうんと何かを納得したように頷くのみ。仕舞いには何を思ったのか、有無を言わさずその肩をぐいっと引き寄せた。
「なら問題ないね。悪いがクロム王子、こいつ借りてくよ。」
「は?」
「エリダ!湯浴みの準備を!あと飲み頃のが漬かってただろ!あれもね!」
必然的に肩を組む様な形になったフラヴィアと。後者に至っては状況が上手く飲み込めていないのか目を白黒させているが引き摺られるままに足を動かし、クロム以下自警団の面々と遠ざかってしまう。
「……………」
後に残されたのは、完全に置いて行かれてしまったクロム達のみ。
その彼らが我に返ったのは、門番がとうに過ぎていた閉門時間をおずおずと告げた時で。
当然その頃には、フラヴィアと両名の姿は影も形も無かったのだった。