神剣闘技 ]W
石造りの狭い通路から、歓声と篝火の明かりとが吹き込んでくる。
普段なら軽口の一つでも出そうものだが、生憎といつもその役割を担ってくれるムードメーカーは今頃ぶすっとした顔でこの通路の入り口を外から睨んでいることだろう。
各々が自分の装備を落ち着かな気に弄んでいる中、ただ一人目深に被ったフードの下で目を閉じ佇んでいた彼女が不意に目を開いた。
纏う空気が変わったことに気付いた周囲の仲間達がぴたりと動きを止め、彼女に視線を集中させる。
「………参りましょうか。」
空気の圧力さえ打ち砕く、静かな声が闘いの始まりを告げたのだった。
「……出てきたっ!」
開会の挨拶やら口上やらを、やはりつまらなそうに聞き流していたヴェイクがその声に途端に目を輝かせた。
一際大きくなる歓声、すり鉢状に作られた闘技場は今や観客に埋め尽くされていると言っても過言ではない。
その中段、この日の為に設えられた特設観覧席には東西のフェリア王、賓客たるイーリス聖王国王妹が揃って階下を見下ろしていた。
無論護衛も周囲に数名侍っており、油断なく姿勢を正しながらしかし、やはりどこか浮き足だっている様子である。
貴人が観戦するにはその位置に中途半端感が否めず、通常に作り付けられている観覧席から闘いが見えるかと担当者を一喝した両王により急遽特設席が設けられ、この位置でも遠いと駄々を捏ねた王がどこぞの侍女に笑顔の圧力を掛けられていたと言うのはここだけの話だ。
「やっと始まるな。」
「待ちくたびれたよ。」
禿頭の大男――察するにこの男がフェリア西王であろう――が呟けば、隣の席のフラヴィアが頷く。その彼女の隣にちょこんと座っていたリズは、今しがた入場してきた兄や自警団の仲間達へ心配そうな視線を向けた。
「リズさん?」
「あ、う、うん!?な、何?スミア?」
「あの、大丈夫ですか?……あまり、お顔の色が……」
「だ、大丈夫。予想より人が多くてちょっと当てられちゃっただけだよ。」
「まぁ、確かに空気が良いとは言えないね。どうする?移動するかい?」
「い、いえ!大丈夫です!」
結局あれからリズはクロムやには顔を合わせることができぬまま、スミア達とこの街に移動したのだ。念のためと差し向けられたフレデリクから聞いた話によれば、二人に特に変わった動向は見られず――とは言えフレデリクの言なので、あまり信憑性は無かったが――試合に向けての準備をしていたとのこと。
部屋を飛び出したあの後、追い掛けてきたフレデリクには言えたもののあの二人にはまだ言えていない。こればかりは他者に託すわけにも行かず、彼女自身が伝えねば意味が無いのだ。
分かっていても、中々タイミングが掴めず燻っているうちに兄達とは完全に離れさてしまった。不正を防ぐために、選手は前日より闘技場内に留め置かれるのだ。
「ま、気分が悪くなったら直ぐ言いなよ。試合が始まっちまうと、移動も困難だからね。」
フラヴィアの気遣いに感謝しながら、リズは一つ頷くと再び眼下へ視線を移したのだった。
「……凄い歓声だな。」
今だ会場に出ていないと言うのに、向こう側から聞こえてくる声は既に耳を覆いたくなる程。
薄暗い通路を抜けた場所、扉一枚を隔てた先はまるで別世界のようだ。
「自国の王を決める闘いだからね。そりゃ、興奮もするよ。」
「確かにね。でも、毎回これじゃ空気に飲まれない選手を探すのが大変なんじゃないかな。」
頷き合うソワレとソールも、どこか浮き足立つのを抑えきれていない。見世物だとは分かっていても、やはり武を嗜む者である以上大勢の観衆の中で戦うのには高揚を覚えてしまう。
「二人とも血気盛んなのは悪いことでは無いが、我々の肩には重大な使命があることを忘れてくれるなよ。」
「はい!」
「勿論です、副長!」
フレデリクの一声で背筋が一瞬で伸びた二人に、そこかしこで笑い声が漏れる。やはり僅かでも緊張していたのだろう。クロムの目からもそれが顕著に見え、彼自身も余計な力が抜けて行った。と、その拍子に先程から唯一表情の見えなかった人物に気付く。
「。」
目深にフードを被った彼女は、先程から全く表情を伺わせない。僅かに覗く口元だけでは流石に判断をしかねてしまう。
「……何でしょう、クロムさん。」
緊張とは違う、何の感情も織り込まれていない静かな声。癖なのか、は重要な決断や考え事をしている時にこんな声をする。軍師という役職である以上、何より交渉事の苦手な自分の代わりに自分以上に役割を果たしてくれている彼女に言うべきで無いとは百も承知だが。
クロムは、この声が好きでは無かった。この声と、この声を紡いでいる時の表情が。今はフードに隠れて見えずとも、確信を持って断言できたし他ならぬ彼女に――に。
自分が傍に居るのに、そんな表情をさせてしまうのが酷く腹立たしかった。
「……いや。大丈夫か?」
「ええ。何も問題ありません。」
そんな短い会話を交わす間でもは表情を伺わせない。クロムが感じている違和感も直感的なもので根拠に乏しく、何よりもう入場の時間は間近なのだ。扉の先にいるであろう係官によって開かれてしまえば、もうそこは戦場である。
戦いの前に余計なことを考えるなど愚の骨頂――軍師でなくとも、それ位はクロムでも分かる。だが、軍師でないクロムは知らなかった。戦いの前だからこそ、伝えるべき言葉もあるのだと。
が。
「――皆さん」
しかしそれ以上口を開く前に、いつもと変わらぬその声によって遮られてしまって。
眼前の扉が外へ向け、観音開きに開かれて行く。
「――時間です」