遭遇戦 \ 


(………ん……?)
一方。
相変わらず暗い森の中で息と意識を殺し、ただ時間の経過だけを待っていただったがその意識に触れた何かにふと目を開けた。

(……何……?今、クロムさんの声が聞こえたような……)
あるはずの無いことに眉をしかめれば、再び意識を凝らす。
だが依然として風の精霊の意識を捉えることはできず、状況の把握はできない。ふぅ、と息を吐き今度は目を開いたまま意識に封をしようとした。

(……駄目だ。何だろう、この胸騒ぎ……)
が。思った以上に集中できない。理由の無い胸騒ぎに、意識が千々に割かれてしまうのだ。

(何……?何が起こってるの……?)
精霊で無いのなら、何がこうも騒いでいるのだろう。気配を乱せば屍兵に気付かれてしまう。しかしそうと分かっていても、この胸騒ぎは収まってくれそうにない。
状況を把握できないのが、これ程落ち着かないものとは――そもそも、精霊達は常にと共に在った。
恐らく、記憶を失う前から。それでいながら精霊達が自分の問いに頑なに口を閉ざすのは、それを命じた誰かがより遥かに力の強い者だったのだろう。そして、その誰かは。

(多分、もう……)
この世に、いない。

が自分と自分の力を理解してから、真っ先にしたことがこの人ならざる者達に自らのことを尋ねることだった。
空っぽになってしまった、という名の器を僅かでも埋めるために。

(でも……)
返ってきたのは、ダメ、と口々に言う精霊達で。では何故?と尋ねても、彼らはただダメと繰り返すのみで。しつこく尋ねて、漸く風の精霊達からあの子の最後のお願いだから、との言葉を引き出せた。

誰かが居たのだ。が記憶を失うことを知りながら、それを取り戻すことをよしとしない人物が。これは勘でしかないが、その人物こそが自分が記憶を失う――原因、とまでは言わずとも――ことに、関わっていたのではないかと。

「……それこそ、詮の無いこと、か……」
最後、と言う言葉がその誰かがもう既にこの世にいないだろうことを示唆している。予想していなかったわけでは無い。だが、その言葉を聞いた途端の瞳から一筋、涙が流れたのも事実なのだ。

その涙が流れた理由をは知らない。思い出せないのに、こんなにも辛いのはその顔も分からぬ誰かは自分にとってどんな人物だったのだろうか。
どんなに願っても、多分もう知ることはできないのだろう。――永遠に。

願いの強さは思いの強さ。
人一人がその人生最後に望んだ願いを――無にする術があるのなら、教えて欲しい。

「……そうね」
だから、決めたのだ。
もう決して知ることのできないだろう自身の正体を、知る旅に出ることを。
傍に居たいと願った人の幸せを願い、何処とも知れぬ旅路の彼方で一人、果てることを。

とは言え、この不可思議な状況を脱するのがまず第一ではある。だが恐らくこの異様な状況はそう長くは続かないと言うのがの見方だった。せいぜい、膠着状態は夜明けまで――確たる根拠があるわけでは無いが、陽が昇れば。の感覚を狂わせているだろう結界は、まず間違いなく崩れると言う何の保証も無い確信が自身の裡にある。
森に一歩足を踏み入れた途端、方向感覚と一緒に時間感覚も消え失せてしまったが永遠にこの状況が続くはずが無いのだ。

となればこの今の状況は考えうる、どんな場合よりもに都合がいい。――何故なら何の不都合も問題も無く、クロムの傍から離れられるからだ。ここで(アスラン)を失うのは痛手だが、恐らくクロム達がイーリスに連れ帰るであろう。ならばエメリナから報酬ついでにこっそり受けとればいい。その程度の色は付けて然るべき結果は出したはずた。

だから、と声を大にして言わせてもらいたい。

ーッ!何処だーっ!!」

一番いるべきでない人物の、聞こえるべきでない大声を。
今度と言う今度は、絶対に許してやらない、と。




森に分け入ったクロムを襲ったのは、まず奇妙な感覚だった。
ぐにゃり、と弾力のある水に入ったような肌に意識に粘りつくような感覚。
これがリズやミリエルなら、何かしらの力場に――結界に踏み込んだのだと表現したかもしれない。
だが、魔法原理に疎いクロムは何かおかしい程度にしか認識しておらず、結果としてそれが幸いしたのかもしれない。下手に惑わされなかった分、前を走る白銀の案内人を見失うことは無かった。

(……それにしても……)
あの狼は一体何者だろう、と考える。
こういった林木の密集した場所では、大型の四足獣は本来であれば非常に動き辛いはずなのに。外での目測に違わぬあの巨躯であればなおのこと。
だが前を行く獣はそういった不利を全く感じさせぬ、軽やかな足取りで先を行くのだ。

なら、何か……)
知っているかも、と考えかけてそれを否定する。今問題なのはそこでは無い、と再度案内人に意識を集中させる。あの狼がの元へ導いてくれることに、微塵の疑いも抱いていないクロムだが置いて行かれるとなれば話は別だ。もう既に方向感覚は失っており、自力で脱出する自信などとうに無い。
それでも外では、を助けに行くことしか頭に無かった。
こんなことが当の本人に知れたら、サンダーの一発では済みそうに無いなとどこか他人事のように考える。

(……と)
僅かに弛んだ速度と意識を、慌てて目前に集中させる。
こうしてわざわざ目視しながら走っているのも、目の前の道案内人の気配が恐ろしく周囲と同化しているせいだった。つい、ふと油断してしまえば森に溶け込んでしまうのではないかと思える程に。その証拠にクロムの五感があちこちに点在する違和感を捕えるのだから、強ち間違ってはいないだろう。

(恐らく、屍兵……)
それにしても、大分数が少ない。を追って行った連中は、クロム達が森の外でやり合ったのとほぼ同数だったはず。が行き掛けの駄賃とばかりに屠ったものもあろうが、いかな彼女とは言えあれだけの数を全て倒しきれるとは思えない。

そこまで考えて、クロムは漸くの気配を読めない理由に気付いた。
――同じなのだ。先行く白銀の狼と同じように、森の中に溶け込んでいる。彼女が日頃好んで纏っている香ですら、隠形に一役買っているのではないか。

まるで今日この日を予測していたかのように。

「……ん?」
つまりどう言うことだと思考が纏まらずに渋面になったクロムが、ふと足を止めた。

「…………っ!?」
最初は見間違いかと思った。むしろ見間違いであって欲しいとも。
だが、現実とは何より厳しいものであって。
目の前を走っていた狼の姿が、いつの間にか消えていた。確かに距離は開いていたが、見失う距離ではなかった筈――いやしかし、現にクロムの前に狼の姿形など欠片も無く。一瞬で血の気が引き、背筋が凍った。

「ば……っ!」
馬鹿な、と呟いても聞く者はいない。
クロムの脳裏に遭難の二文字が過り、続いて頭が真っ白になった。
そして、考えるより早く彼が取った行動は。

ーッ!何処だーっ!!」
その声の限り、叫ぶことであった。

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