遭遇戦 ]
その声を聞いた途端、の意識に雷に撃たれたような感覚が走った。
考えるより早く身体が動き、それまで踞っていた場所から弾かれたように飛び出す。精霊の力を借りるまでもない、僅かに意識を凝らせば誰よりも大切な――愛しい人の、愛しているからこそ絶対に此処に居てはいけない彼の人の気配がすぐそこにある。
転がるように、下生えの草に足を取られてつんのめるように暗い空気の中を掻き分けた。
「な……っんっで!!」
距離はそう開いていない。目的の気配は動かないが、彼の声を聞いたのだろう別の不穏な気配が動き始めている。異様だが静謐な、森の気配が途端に淀み始めた。
「……っ!ム、さ……っ!!」
早く、一刻も早くと身体に命じる。
動き出したのは恐らく屍兵、いや例え屍兵でなくとも。この森で道を真っ先に失いかねない彼の人を、何よりも早く向かえに行かねば。
小枝や茂る葉が、肌を傷付けようが構わず走る。光の差し込まぬ深さだと言うのに、求めるその先が光に満ちているように見えるのは錯覚か。
抜ける、と考えた矢先に途切れる木立と膨れ上がる暗い気配。
間に合え――!
「……っに!やってるんですか、貴方はっ!?サンダーッ!!」
出会い頭の強烈な一撃。
知らず知らずのうちに溜め込んでいた魔力の篭った魔法は、例え詠唱破棄だろうとクロムの背後に出現した屍兵を炭化させるには十分な代物だった。
「……ッ!!」
駆け込んでくる彼女と同じタイミングで走り出していたクロムは、軽く帯電しているにも関わらず求めていた身体に手を伸ばした。そしてそのまま、力任せに抱き締める。
「クロムさ……!?」
まさかいきなり抱き締められるとは思っていなかったが、途中まででかかっていた声を飲み込んだ。
近いなんてものではない、一瞬言葉を失い硬直した身体がだが次の瞬間には離れていて。
「この!バカッ!!」
そして間髪入れず降ってきた怒声に、反射的に首を竦める。
「何を考えてるんだお前は!!囮になるなんて!何かあったらどうするつもりだったんだ!?」
「な、なにって……」
「動けなくなるような怪我をしたり!万一死んでもしたら!?」
両肩を力任せに掴み口泡を飛ばすクロムの姿に、が口を挟む余裕は無い。むろん彼女の行動は考えた上でのもので、彼が言わんとしている結果も承知の上だったが。
咄嗟に口を突いて出そうになったが、クロムの方も予想はしていたのだろう。肩を掴む腕に更に力を込めることで、その先を封じる。
「俺は!許さないからな!俺を置いて勝手にどこかへ行くことも!俺を置いて死ぬことも!!」
その言葉を聞いた途端、の中で何かがぶちりと切れた。
自分がどれ程悩んで決断したのかを、知らない癖に何と勝手なことを言うのかと――
「――何をっ!」
ばっ、と力任せにクロムの腕を振り払う。
「私が!私が簡単に決断したと思いますか!?例え私が死んでも!貴方さえ無事でいてくれるならそれでいいのに!それなのに一番来てはいけない貴方が一人でのこのこやって来て!」
果敢に怒鳴り返すに、だがここは引けぬとクロムも譲らない。
譲ったら――彼女を失う。
「だから!それを俺が望むと、喜ぶと思うのか!お前を犠牲にして、それで自分が助かって!」
「思うわけ無いでしょう!でもその貴方の願いより!私には貴方の方が、そう思ってくれる貴方を失いたくない私の願いの方が大切なんです!」
「それで俺が傷付いてもか!?」
「生きていれば!身体に負った傷も心に負った傷も!いつか癒える日がきます!でも死んだらそれっきりなんです!傷付くことも救われることもできない!生きていて欲しいんです!他ならぬ貴方だけには!!」
涙が滲みそうになったが、そんな卑怯な手を使いたくないと意思の力で必死に押さえ込む。
分かってくれなくてもいい、なんて綺麗事を言うつもりは無い。いや、分からなくてもせめて知っていて欲しい。
もう、傍に居ることはできないから。
大体フレデリクやスミアは何をしていると言うのだ。主の暴走を止めるのが臣下の努め、想い人一人説得できずに何の為の懸想か。
「俺だって同じだ!お前には、お前だけには!生きていて欲しい!大体お前を失った傷が!どうして癒える!?愛したお前を失って、その傷を癒せるお前が居なくて!?」
「!?」
耳を打った言葉に、の全身が硬直した。
今、この男は何を言った?
「ク……クロム、さ……」
「何だ!?って、お前どうし……」
真っ赤になって息を飲んだに、訝しげに首を傾げる。怪我をした訳でもない……と、そこでクロムは先程の自分の言葉を思い出した。伸ばしかけていた手で、思わず自分の口を覆う。
「あ……!あ、いや!ち、ちがっ……!いや、違わなく無いんだが、違って……」
「……どっちなんですか……」
突っ込まざるを得ないのは自分のせいでは無いはずだと、早まる動悸を押さえながらは思う。
いや、だが今重要なのはそこでは無い。
「私、何も、聞きませんでしたから。クロムさんも……」
「ちょっと待て!何だその聞かなかったってのは!?」
「……当たり前でしょう。私は、何も、聞かなかった。クロムさんも何も言わなかった。それで……」
「いいわけあるか!!」
失言。確かに失言だったが、それでもイーリスに戻ったら告げるつもりでいたのだ。それを聞かなかった、で済まされてしまっては断られるより性質が悪い。
一斉一代の告白が売り言葉に買い言葉では格好がつかないが、もう言ってしまったのだ。こうなれば、先に進むしか無い。
「。」
深呼吸を二度、息を調えるのと気を落ち着かせる為に吐いてを正面から見詰める。呼ばれた当人はまるで怯えるかのように、僅かに身動ぎし。
「俺は、お前が好きだ。お前を……心から愛してる」
「クロムさん!」
「今までは……その、意識していなかっただけだ。べ、別に悪い意味でじゃないぞ!?自然と、その。お前は俺の中に入ってきて、気付くのに遅れただけだ。俺は最初からお前のことが好きで……だから、」
「クロムさん!!」
縋るような形でがその先を遮る。駄目だと、何度も首を横に振る彼女の表現は今にも泣き出しそうだった。
「止めて下さいクロムさん!お願いですからそれ以上は……!」
どうして、とが俯いたまま呟く。
どうして、この男は自分の決心を覚悟を鈍らせるようなことばかり言うのか。どんなに望んでも、苦しくても。
許されないことなど、五万とあると言うのに。
「……どうして?それは俺が聞きたい。何で、告げるのを止められなければならない」
「分かって、分かっているでしょう!?クロムさん、貴方は!!」
「お前が言いたいことくらい、察しはつく。だがな、。それでも、俺は俺なんだ。王子であることも、自警団の団長であることも全て含めて――」
「違う!違います、違うんです……!」
身分だとか、生まれだとかそんな小さなことで拒んでいるのではない。
けれど決して口にできない――したくない、絶対の理由が楔として打ち込まれているのだ。
頼むから、それだけは自分の口から告げさせないでくれと唇を噛み締める。
それが卑怯なことだとは――自分の弱さだと言うことは、十分承知しているから。
「じゃあ何故だ?何故、気持ちを聞くことすら拒む?」
肩に手を添えて、今度はなるべく穏やかな口調で尋ねる。その穏やかな口調の裏に、絶対の確信を隠しながら。
「それは……」
「それは?」
卑怯だと呼ばわ呼べ。クロムの勘が今が正念場だと告げている。
を手に入れるか、失うか。その二つに一つだ、と。
「…………」
一方も、今が岐路だと直感的に感じていた。ありのままを告げることは恐らく簡単なのだろう。知られたく無い、と言うのは自身の甘えだとは十分理解している。
だが、どうしても。それだけは――あれだけは。
(……もう二度と)
あんな、全てを壊したくなるような絶望だけは。
「……?」
急に黙りこんでしまった彼女の顔を覗き込めば、はっと反射的に降りあおぐ視線と行き合った。
咄嗟に何でも無い、と言おうとしたの纏う空気が一瞬で変化する。
「クロムさん!!」
鋭い声と共に腕を引かれ、僅かにたたらを踏んだ。そして一瞬前まで居た場所に突き刺さっている、一本の鉄の矢。
「クロムさん、下がって!……サンダーッ!!」
弓矢と魔法であれば射程はほぼ同一、牽制の意も込めてぶちかませば確かな手応えが。
考えるまでもなかろう――屍兵だ。
「いつの間に……」
「今の間に決まってます!囲まれては……いない、か」
ここまで気配が近ければ嫌でも分かる。それにしても随分数が少ないような気がするが、一体どうしたことだろう。
「くそっ!折角見つけたんだ!絶対逃げ切るぞ!」
「言われなくても!」
互いに臨戦態勢に入るが、屍兵の姿そのものは未だ現れない。
逃げ切る、と宣言したものの実際問題手詰まりだ。いっそ勘に任せてみるか、などとやけくそ一歩手前なことを考えたクロムの横でが叫んだ。
「母なる大地に住まいし精霊よ!安息抱きし深淵なる森よ!……お願い、道を示して!」
その声が響くやいなや、二人の立つ場所が僅かに鳴動しがさりと葉擦れの音が重なった。
「……こっちですクロムさん!」
「あ、ああ!」
駆け出す先は、今居る場所と同じように森が続いている。
だがクロムがその言葉を疑うはずも無い。並走する形で、ここより遥か先を見るに続く。
「視界、回復したのか!?」
「いいえ!でも一時的になら……!」
加えてこの場所で最も加護の強い土の精霊なら、と踏んだだけだ。
そして手付かずの深い森、の目論見は八割達成されたと考えていい。
「!」
「何ですか!」
全力で走りながらクロムが叫ぶ。
「保留にしただけだからな!後できちんと答えを聞かせてもらうぞ!」
「な……何を言ってるんです!この非常時に!」
思わず転びそうになったではないか。
「非常時もへったくれもあるか!お前のことだ!うやむやにしてイーリスに着いたら、とっとと姿を眩ますに決まっている!」
「信用ありませんね私!?」
当たっている分だけ性質が悪い。
「後です後後!とにかく今は何も考えず走って下さい!」
「走るが答えは貰うぞ!」
言質を取るつもり――と言うか、あの場で答えを出させるつもりだった――クロムは、流石に誤魔化され無い。普段なら煙に巻くことの一つや二つ朝飯前だが、今この状況ではとにかく確約を避けることが精一杯だ。
「〜〜〜〜っ!あぁもう!分かりましたよ!分かりました!」
「よし!約束したからな!」
成るように成れ、と半ば以上投げやりに白旗を上げれば途端にクロムの目が輝く。苦情の一つでも言ってやりたい気分だったが、一瞬意識に触れた光景に気を引き締める。
「クロムさん!」
「今度は何だ!?」
「もうすぐです!そのまま走りきって下さい!!」
低レベルな問答の応酬をしているうちに、大分距離を稼いでいたらしい。
クロムの目にも、僅かに光の射し込む森の終わりが見えてきた。
「――抜けますっ!」
後、五歩。
後、三歩。
後――
ざんっ!と葉擦れの音と共に、クロムとが森から飛び出す。そしてそれに続く、不穏な気配――
「てやぁぁっ!」
「はぁぁぁっ!」
走り抜けた先、開けた場所に待ち構えていたのは待機していたはずの
タイミングを合わせた剣が、斧が、槍が、魔法が。呼吸を合わせた手荒い歓迎で以て追撃者を迎えた。
これには徒党を組んでいた屍兵もひとたまりも無いようだった。殆ど声を上げることなく黒塵と化す。
「クロム様!」
「!」
息吐く間も無く振り向いたフレデリク達の目の前では、当の二人が身体を二つに折って荒い息を繰り返していた。駆け寄ってくる仲間達には悪いが、今は呼吸を調えるだけで精一杯だ。
片手を上げてそれを告げたクロムを、スミアが心配そうに覗き込む。
「ク、クロム様。あの、大丈夫ですか……?」
「あんだけ騒ぎながら走ってくれば、当然だけどね」
おかげでクロムとが戻ってくることも、場所もタイミングも知ることができたのだが。断言できる。あれは明晰なる彼の人の立てた策などでは絶対無かった、と。
呆れ混じりのリズの言葉に、クロムもも分かっているとばかりに何度も頷く。勿論声にはなっていなかったが。
「……しゃーない。お水、持ってきてあげるよ。フレデリク、私、ちょっと馬車に行ってくるね」
「は。では、私が……」
「んーん。大丈夫」
他にやることあるでしょ、とばかりにフレデリクに目配せをすれば再び恐縮したように頭が下がる。行動力抜群の王女様の傍らには、いつの間にか寡黙な青年剣士が立っていた。
他の面々も大きな怪我の見えない二人の姿に安堵し、一息吐く。まだ気を弛める状況では無いが、とりあえずは安心していいかと肩の力を抜いた。
クロムには漸く肩で息をする姿に余裕が生まれ、座り込みこそしていなかったが叶うならその場にひっくり返したいくらいだった疲労感にも芯が戻りつつある。 傍らのを見れば、元々の体力差故か未だ身体を二つに折っていたが。
「だい……じょうぶ、か……?」
「な、なん……とか……」
荒い息の間の会話は、やはり短い。それでも互いに向ける視線は、どこか吹っ切れた色を帯びていて。
互いが互いに、肚を決めた故かもしれない。
厄介な関係だと定評のある二人から漂う些細な変化を、仲間達は敏感に感じ取っていた。スミアなどは顔を蒼白にして、クロムの傍らに佇み続けている。
誰もがこの不可解な難局を乗り切った、と肩の力を抜いた瞬間だった。
後はイーリスに帰還し、これから始まるであろうペレジアとの戦いに備えるだけだと。
その陣頭に立つであろうクロムの隣には、黒衣の軍師の姿があることを誰一人として疑っていなかったはずなのに。
――何故、彼女は