遭遇戦 ]W
警告と絶望の意図の籠った誰かの高い悲鳴に、何故か掻き消されずに届いた場違いにも呆けたような小さな呟き。
脳裏に残るその音に苛まれながらも、彼はその場から決して動かなかった。
彼女の瞳に、自らの姿がもう一度映ることだけを祈って――
「クロム様……」
「………」
急遽設営された天幕の、その前に陣取ったきり微動だにしない男の名をスミアは不安げに呼んだ。
自警団唯一の癒し手であるリズが予自身の告通り昏倒した後、彼女から指示を受けていた団員達は正にコマネズミの如く動いた。フェリア側の好意で新調された、頑丈な天幕にが運び込まれたのが約二刻前。その後は主に女性陣が彼女の治療にあたり、傍から離れようとしないクロムを目を醒ましたリズが天幕から叩き出したのが約一刻前。
不思議なことにあの正体不明の霧に囲まれたのがまだ夕刻前だったと言うのに、がその白霧を切り裂いた時は深夜も近かった。
それから怒涛の如く時は過ぎ、既に夜明けが近い時間帯になっている。
急転直下の夜だっただけに、誰もが夜明けを待ち望んでいた。クロム以外は皆交代で仮眠を取り、不測の事態に備えていたのだが今のところ変事は起こっていずにいる。
ライブの魔杖が壊れた今とりあえず手持ちの傷薬で凌いでいるものの、夜明けと共にソールとロンクーが一番近い村へと馬を飛ばす予定だ。彼女を馬車に積み込んで王都まで引き返す案も出たのだが、リズとソワレがそれに難を示し現状に至る。
――曰く、今は絶対安静だと。
「クロム様……あの……」
「………」
そんな中、ただ一人。クロムだけは、休息も眠ることも無くただ天幕の前を陣取っていた。傍らにはスミアが侍り、少しでも彼を休ませようとしているのだが一向に果たせないでいる。
「クロム様、少しお休みになってください。それでなくても、お疲れなのに……」
「………」
スミアがいくら話し掛けても、クロムは動こうとしない。最初の頃は相槌程度は返していたのだが、半刻も過ぎるとそれすら無くなって。眼前の天幕からじっと視線を外さないのだ。それがただ一人に注がれているのだと――例えその姿が見えずとも――如何に鈍いスミアでも、分かる。その事実を見せつけられる度に、胸が締め付けられるように苦しくなって涙が零れそうになった。必死に訴える声も全く届いていないことを突き付けられれば当然だろう。
「クロム様、お願いですから……」
「……スミア」
何度目のやり取りだったか、突然名を呼ばれたスミアが表情を輝かせてはい!と応えを返す。漸く声が届いた、と安堵するもやはりクロムの視線は動かずにいて。
「――すまんが一人にしてくれ」
だが結局の有無を言わさぬ拒絶に、今度こそ彼女の瞳に涙が浮かぶ。
スミアとて、心配なのは分かる。だがこのままではクロムが倒れてしまう、と首を横に振って自分を叱咤する。どうしたらいいのか分からない、だが去る気にもなれず両手を組んだままその一挙一動を見守ることしかできなかったのだけど。
傍らの少女が去る気配はしなかったが、クロムにしてみればそんなことは正直どうでもよく。
ただ今は彼女――の。その容態だけがクロムの意識を占めていた。
「――まだそこに居らしたんですか」
呆れ混じりの声にはっと顔を上げれば、丁度天幕から出てきた赤毛の魔導士と視線がぶつかった。
「ミリエル!は……!」
弾かれるように彼女の傍らに走り、それだけを口にする。
尋ねられた当のミリエルは、咄嗟に掴まれた腕の痛みに僅かに顔を歪めたが特に言及はせず普段通りの落ち着いた声音と共に頷いた。
「まだ予断は許しませんが……一先ず、峠は越えたと考えてよいかと。出血も粗方止まりましたし、後は体力と意識の回復を待つしかないとリズさんが」
「そう、か……」
そう呟いたクロムはミリエルの腕を掴んだままだ。無意識に込められた握力が緩むことは無く、次いで要望が口を吐く。
「中に入れないか?いや、意識が戻っていなくてもいいんだ。ただ、顔を見れればそれだけで……」
「クロムさん」
じろり、と睨めつける視線が彼女の言いたいことを雄弁に物語る。
曰く、女性の寝室に身内でもない男が足を踏み入れるつもりか、と。
「………分かっている。だが、あいつは……!」
彼女は、は。
クロムを庇って倒れたのだ。自分の目で無事を確かめたい、
「なにやってんだ、クロム」
ミリエルに詰め寄るクロムの背後から、訝しげな声と水音が聞こえた。考えるまでもない声の主の名を、振り返りながら口にする。
「ヴェイク……」
「つか、お前まだそんなナリしてんのかよ。さっさと着替えてこいっつーの」
彼にしては珍しい小言めいた物言いに、やや虚を突かれる。リズ辺りに命ぜられたのが、両手に水の入った手桶を抱えていた。
「それからさっさとミリエル放してやれよ。跡が残っちまう」
「あ……す、すまん」
指摘されて気付いた暴挙に慌てて手を離せば、いえとの落ち着いた応えが返る。身体ごと位置をずらしたクロムだったが、視線が天幕から動かないのは相変わらずだ。きゅ、と泣きそうな表情をしたまま再び元の位置に戻ろうとする。
「クロム」
「……なんだ」
悄然としたまま腰を落ち着ければ、眉を寄せたヴェイクがその正面に立った。
「いつまで腑抜けてるつもりだてめぇ。顔でも洗って、しゃっきりしてこいよ」
「……いや。今はいい」
緩く首を横に振ってじっと座ったままのクロムに、益々ヴェイクの表情が険しくなっていく。そんな男達の様子にスミアは変わらず泣き出しそうだし、ミリエルは怪訝な表情を隠さない。
「誰がてめぇの都合聞いてんだよ。団長が腑抜けてると士気に関わるから言ってんだ……ったく、こーゆー時に限って主従揃って腑抜けなくてもいーじゃねぇか」
めんどくせぇ、と続いた言葉にクロムの表情が動く。
「フレデリクがどうした?」
「あぁ?てめぇと一緒だよ。思いっきりヘコんでやがる。リズにやり込められたのが、そーとーショックだったんじゃねぇの?」
ま、最もあっちは平静を装ってるけどなとは胸中だけで呟く。横では実情を知るミリエルがそんな高等な技を使えたのか、と目を丸くしていた。
「……後でリズに謝らせておく」
「いいんじゃねぇの?これでちったぁ、あの朴念仁の目もちったぁ覚めるだろうし」
「ヴェイク……貴方、一体どうしたんです?」
怪訝そうに尋ねるミリエルに、何がだよとヴェイクが噛み付く。ふだんの言動を鑑みるに、何か悪いものでも食べたのではないかと心配になるではないか。
「とにかく、だ。俺様が言いてーのは、シャキっとしろってことだよ。まずはその縒れたツラとナリをどーにかしやがれ」
「……いや。とにかくあいつの目が覚めるまでは、ここを動くつもりは、ない」
ヴェイクの指摘するツラとナリ、唯一の状態を知るミリエルからすればクロムの方が余程死にそうな顔をしている。服装も酷いものだ。治療の課程での吐いた血が、蒼地の服に染み込みどす黒く変色してしまっている。もう洗っても落ちないだろうな、と所帯染みたことを考えてしまうのは万年金欠自警団に所属している故か。
すっぱりと言い切ったクロムを、涙目のスミアが見上げる。そんな視線に気付くことなく、クロムは踵を返し――眉根を寄せたヴェイクに阻まれた。
「……ミリエル達の話じゃ、いつ目が覚めるか分かんねーんだろ?一晩中ここにいるつもりか?」
「……ああ。容態が変わらないとも限らない。今は、少しでも傍に居たいんだ」
進路を塞ぐヴェイクを緩慢な仕草で押し退け、元の位置に戻ろうとする。そんな様子を見せられたヴェイクは、はぁと溜息を一つ吐くと無言のまま目の前を過ぎる肩をがっしりと掴んだ。反射的に何だ、と振り向いたクロムの頬目掛けて握りこんだ利き拳を叩き付ける。
「!?」
「クロム様!?」
「ヴェイク!?」
全く予期していなかった攻撃に、クロムは身体の均衡を崩しその場に尻餅をつく。頭で考えたわけでもなく、身体が反応して咄嗟に勢いを殺したおかげで倒れ込む迄には至らなかったが。
強かな衝撃の波をやり過ごし、その発生源を睨み上げる。
「ヴェイク!なに……」
「それはこっちの台詞だ馬鹿野郎!」
抗議の声は、重なった怒声と胸ぐらを掴まれたことによって消されてしまった。斧を扱う大きな掌が、ぎりぎりと音を立てんばかりにクロムの胸元を締め上げる。
「なにいつまでたっても腑抜けてやがる!?今、てめぇがここでヘコんでようがあいつの容態が好転するわけじゃねぇだろうが!だったらせめてしゃっきりしやがれ!」
「そ……!それは!そうだが!あいつは!は!俺を……俺を、庇って!」
「んなこたぁ分かってる!あの一瞬で動いたのがあいつだけだってこともな!」
痛みだした頬と並行して、徐々に我に返る。黙ってやられる趣味は元より無い。こちらも胸ぐらに掴み掛かれば、スミアが慌てて間に入ろうとする。
「クロム様!ヴェイクさんも、落ち着いて……」
「だったら!俺が傍に居るのは当たり前だろう!?あいつは俺のせいで……!」
「できることがあんなら止めねぇよ!だが今のお前じゃ、精々リズ達の邪魔すんのが関の山だろうが!そんな体たらくで何ができるってんだ!あぁ!?」
図星を指されて思わず言葉を飲み込んでしまう。僅かに怯んだクロムに、だがヴェイクは追及の手を弛めない。
「だったら、今はお前にできることをしろってんだ!分かんだろ!?お前はに守られた!あいつ程の女がてめぇの身体と命を張って守ったんだぞ!なら守られたてめえは守ったあいつに相応しいだけの男でいろ!!」
「……!」
クロムが目を見開き、投げつけられた言葉ごと奥歯を噛み締める。一瞬だけ泣きそうな表情をしたことは、この際目を瞑ってやるとして。
「どうしてくれる……口の中、切れたぞ。」
「その程度で済んで恩の字だろ。ここにいるのがだったら、問答無用でサンダーの一発でも喰らってら」
私を何だと思ってるんですか、とここには居ない人物から苦情が来そうだ。
いつもの、とはいかずとも力の戻ったクロムの表情に、漸くヴェイクは胸ぐらを掴んでいた手を離す。
「……すまん。頭を冷やしてくる」
「そうしろ」
口の端から流れる血を手の甲で乱暴に拭いながら、礼は口にしない。そんなものは不要だとヴェイクの目が告げているからだ。
「……ヴェイク」
「何かあったらすぐ呼んでやるよ」
ツーカーの仲ではないが、自警団発足からの仲だ。短い一言に込められたものを正確に読み取ったヴェイクは、手をひらひらと泳がせて頷いた。
「頼む」
一度だけ天幕に視線を残し、だがおもむろに目を伏せ踵を返す。スミアが彼の後を追おうとしたが、やはりヴェイクがそれを阻んだ。
「ヴェイクさん……」
「そっとしといてやれ。多分、頭冷やすつもりなんだろ」
「で、でも!クロム様に何かあったら……!」
「そこまで腑抜けてんなら、いっそ大怪我でもした方がマシだな。安心しろ、今あいつをどーこーできんのは、お前でも俺でもましてや、刺客でもねーよ」
「え……?」
「そこで思いっきりジンジフセイしてるうちの軍師様だよ。違うか、ミリエル?」
「……いえ、慧眼かと。良い意味でも、悪い意味でも」
「つーわけだ。お前も少し休め、スミア」
「で、でも……」
「今、お前にまで倒れられたら、リズ達の負担が増えるだけだろーが。クロムに付き合って、ろくに休んでねーんだろ?」
「……」
図星を突かれてスミアは押し黙る。だが 、かと言ってクロムをこのままにしておくのもどうかと思うのだ。
「……フレデリクに事の次第、教えてやれよ。どーせあいつは、そこまで頭回っちゃいないだろうからな」
「は、はい!」
溜息混じりの折衷案に大きく頷くと、そのまま踵を返してクロムの後を追っていく。何も無い所で躓くいつもの後姿を複雑な思いで見送って、ヴェイクはどかりとその場に座り込んだ。
「……スミアには悪いが、もう手遅れのよーな気がすんだけどな」
「……だとしても、それを認めるのは簡単なことでは無いのですよ」
ヴェイクに倣うように視線を低くしたミリエルがそう答えれば、そんなもんかと不思議そうに相槌を打つ。まぁ確かに、片思いの時間を考えればそう簡単には割り切れないかと一人ごちる。
「……それよりも」
目線を合わせたミリエルが、放り出されていたヴェイクの右手を取った。
「こちらの方が不可解です」
「……うっせ」
ひょい、と取られた右手には僅かに血が滲んでいる。クロムに気付けの一発を叩き込んだ際の、手加減の証だ。
「どうしてこう、男性と言う生き物は……腕力で物事を解決する傾向にあるのでしょうか。それだけならまだしも、何故それで分かり合えてしまうのでしょうか。正直、不思議でなりません」
「別に分かりあっちゃいねーよ」
「いいえ。スミアさんがいくら言っても無駄だったことを拳一発で解決したではありませんか」
言い逃れはさせない、とばかりのミリエルの追及にそっぽを向くことで抵抗する。
「他に方法が無かったとは言え、あまり感心はしませんが」
「ここに居たのがだったら、今頃クロムは炭化してるだろうからなぁ。拳一つで済んで良かったじゃねーか」
「…・・・・クロムさんが良くても貴方は違うでしょう、ヴェイク」
傷薬は全ての治療に使ってしまった為、今は患部に包帯を巻いておく程度しかできない。夜が明ければソール達が物資の買い出しに行く予定だが、傷薬も多めに頼んでおくべきだろう。
「……このくらい、あいつに比べりゃ軽いもんだろ」
「それは……そうですが」
未だ意識を取り戻さない――生死の境は越えたとしても――仲間の、臥せる天幕を見据える。
夜明けと同様に、その意識が一刻も早く戻ることを願わずにはいられなかった。