遭遇戦 ]X
「どうだい、リズ。様子は?」
二重になった天幕の戸口を潜りながら尋ねたソワレに、中に詰めていたリズは首を横に振った。それに合わせて、普段ならきちんと結ってある金色の髪が緩やかな波を打つ。
「……呼吸は大分落ち着いてきたよ。顔色も悪くないし。でも、まだ意識は……」
「そうか。……夜明けまで、あとどれくらいだろう」
「今の季節ですと、後二刻ほどかと」
「ミリエル、ソールとロンクーさんは?」
「後一刻程したら、起こしにいく手配になっています」
夜明けと共に買い出しに走る二人だ、休めるうちに休んでおいて貰わねば。
「お兄ちゃん……は、聞くまでもないか」
先程からこの天幕の前から動かない気配はリズのよく見知ったものだ。昏倒から目覚めた彼女が身仕度もそこそこに飛び込んできてから、その気配は一度も動いていない。
「……さん。早く起きてよ。さもないと、お兄ちゃんに根っこが生えてきちゃうよ」
話しかける相手からはやはり穏やかな寝息が返るだけだ。負傷した場所が場所なので、うつ伏せのまま未だ眠りの中をさ迷っている。
その表情に苦悶の色は無く、実に穏やかではあったのだが。
「……ズ?リズ?」
「え?あ、ご、ごめん。ぼーっとしてた。何?」
「大丈夫かい?ろくに休んでないんだ、仮眠くらい……」
「うぅん、大丈夫。それで、どうしたの?」
「あぁ、ソール達に頼むものは杖と傷薬と包帯――こんなとこでいいかなと思って」
「そう……だ、ね。そんなもんかな。食料……は、王都で買ったもので足りる……とは、思うけど」
如何せんがいつ目覚めるか、見当がつかない。あまり長期化するようであれば、馬車に積み込んでイーリスまで戻ることも視野に入れなければ。
「ん?」
ふと、視界の端を横切ったものに注意を引かれた。思わず動きを止め、まじまじとそれを凝視する。
「リ……」
「ストップ!」
片手でソワレを制し、ゆっくりと顔を寄せる。息が交わる距離、リズが身体を折るようにして覗き込んだのは未だ眠るで。
「!!」
だが、リズの視界は僅かに捉えたのだ。伏せられた瞳、その上に影を落とす睫毛が微かに震えたのを。
「さん!」
飛び付いたリズに、ソワレとミリエルも思わず耳を疑った。その彼女に倣うように覗き込めば、瞼を持ち上げようと表情が歪んでいる姿に行き当たる。
「!大丈夫かい!?」
「さん、しっかり!分かりますか!?」
ソワレとミリエルまで耳元で覚醒を促しだすと、の眉がしっかりと寄った。固唾を飲んで見守る三人の前で、ゆっくりとではあるが確実に瞼が押し開かれて行く。
「さん!」
「!」
「分かりますか、さん!?」
瞼は開きはしたものの、その下の瞳は茫洋としたままで焦点を結んでいない。そんな中、リズがきゅっと唇を噛み締めた。ライブの魔杖が無いのが痛い、無理にでもソール達を買い出しに行かせるべきだったか。
「?」
と、そんなリズの様子を見咎めたわけでは無いだろうが、僅かに唇を上下させているのに気付く。意識を取り戻したばかりだと言うのに、無茶だと言おうとしたリズの耳を消え入りそうな声が打った。
――くろむ、さん、は?
「〜〜〜〜っ!ばかっ!!」
果たしてリズの口から飛び出したのは、怪我人に向けるべきでないことが明らかな声量だった。ぎょっとしたソワレとミリエルが彼女を見遣るが、そんな様子に気付くことなくリズは叫ぶ。綺麗なラインを描く眉がキリキリと音を立てる勢いで上がった。
「馬鹿馬鹿大バカッ!!さんの大馬鹿!!無事だよ元気だよピンピンしてるよっ!」
ソワレとミリエルには聞こえなかったが、その言葉からが何と口にしたのかを察する。顔を見合わせる二人の前で声を張り上げるリズは、反面今にも泣き出しそうだ。
「だからってさんが死にかけて良いわけないじゃん!バカバカバカーッ!……ありがとうぅ……さん……お兄ちゃん……助けてくれて……」
あのタイミングであれば間違いなく致命傷だったはずだ。リズが手を尽くす間も無く、兄の命は喪われていただろう。ぐす、と鼻を啜るリズに罵倒された当の本人がうっすらと微笑んだ。
だが、そこまでが限界だったのだろう。半べそをかいているリズの前で再び夜闇色の瞳は閉じられてしまった。
「リズ」
慰められるように肩に置かれたソワレの手に、うん、とリズが頷く。意識が僅かでも戻った以上、漸く一息つける。楽観はまだできないけれど。
お説教は意識が完全に戻ってから、懇切丁寧にすればいい。ミリエルが身動ぎしたせいで落ちかけた掛布をかけ直す。剥き出しになった肩は、それだけで寒そうだった。
「どうした!?」
と、誰何の言葉と共に、クロムが駆け込んできた。突然の闖入者の登場に、何事と三人が振り返る。無論リズの大声を聞き咎めてのことであろうが。
「無断で淑女の寝室に踏み込むな馬鹿兄っ!!」
だからと言って、許可も得ずに侵入して良い場所でも場合でも無い。リズの冴え渡る突っ込みがクロムの顔面に炸裂する。
正に実に目にも止まらぬ早業、ソワレとミリエルが止める間も無かった。
「ぶっ!?」
「だ、大丈夫ですかクロム様!?」
用途の間違った方法で使われた魔法書を顔面で受け止めたクロムにスミアが駆け寄るが、そんな心配は一顧だにせず投げつけた張本人にじわりと詰め寄る。
「リズ!何が……」
「今、一瞬だけど意識が戻ったんだよ。てゆーか、早く出てけ!!」
「意識が……?!おい、!!」
「一瞬だって言ったでしょ!?騒がないで傷に響く!」
リズの声こそ傷に響かないかと思わないではなかったものの、彼女の主張は実に真っ当なものだったのでソワレとミリエルも黙って頷く。
「意識が完全に戻ったら、呼びに行くから……とにかく、今は」
「さんの風評に関わりますよ、クロムさん」
臥せる身体を守るように立った女性二人にそう諌められては、クロムとてこれ以上粘れない。眉間に皺を寄せながらも、不承不承首を縦に振った。
「……お兄ちゃん」
「なんだ、リズ」
「さんね。言ってたよ。――お兄ちゃんは、大丈夫かって」
「!!」
返しかけていた身を翻し、今もその傍らにいる妹の顔を凝視する。
今にも泣きそうに歪んだ表情をしたリズは、分かってるとばかりに頷いた。
「――目、覚ましたら。こってり絞ってやって」
「……あぁ」
似た者兄妹の企みを、昏々と眠り続ける女軍師が知ることはなく。
幸か不幸か、未だ眠りの森をさ迷うばかりであった。