遭遇戦 ][
彼女が目を覚ましたら、とにかく絶対怒るつもりだった。
命を救われたのは事実だ。だが文字通り命懸けであのような――あんな、形で。助けられたくなどなかった。
そのつもりで、言葉すらも決めていたと言うのに。顔を見た瞬間、声を聞いた途端――いや、目を覚ましたと聞いた時点で。
事前に用意したものなど、跡形も無く吹き飛んでしまった。
ただ彼女が生きている、息をしている。それだけで、何もかもが。
(どうでも、いい……)
怪我人であることを忘れたわけでは無い。だが常に意識していなければ、力の限り腕の中の身体を抱き潰してしまいそうだった。
――どのくらい、そうしていただろうか。
クロムの腕から、全身から力が抜けていくのを肌越しに感じる。
「ク、クロムさん」
「すまん。だがもう少し……」
このままで、と懇願するような声にそれ以上何が言えただろう。
考えるより先に身体が動いていたことは嘘ではない。だが卑怯な自分は、頭のどこかで自分が死んだら彼が悲しんでくれるであろうことを知っていたのだ。
離れなければならないことはもう覚悟を決めたから――だから、せめて。
クロムの中に自分と言う人間が、という存在があったことを。
絶対に消えない形で残したかったと言う、そんなほの暗い感情があったことも――否定、しない。
単なる自己満足、それも身勝手極まりない理由でしかないのだ。だからクロムが気にする必要は無い――そう伝えるべきだ。言うべきだと分かっているのに、音にできない。それはの弱さでもあり、打算でもある。
だが、クロムの命を第一に考えた故であることだけは真実だから。
「ごめんなさい、クロムさん……」
謝ることしかできない自分を許して欲しい。
「……謝るくらいなら、もう二度としないでくれ。あんなことは……」
哀願と言っていい声に、は迷う。クロムの望む言葉を告げるのは簡単だが、本心を口にしてしまえば画策していることが露見してしまう可能性がある。露見して厭われる位ならまだいい。だが、もし。もし、万が一。
(決心を揺らがされるようなことを言われてしまったら――?)
他の誰の言葉であっても首を縦に振ることはないであろうが唯一、クロムは別だ。自分でも都合の良い――希望的観測だと分かりきっているのに。それをどこか心の隅で望んでいる浅ましい自分が居て、どう答えたらいいのか分からない。
迷い、答えを出さない普段らしからぬを訝しく思ったのだろう。クロムが僅かに拘束を緩め、腕の中を覗き込むように見下ろした。
「?どうし……」
た、との言葉は続かない。抱いたの顔色が、恐ろしく蒼白であることに――今更ながらに、彼女が怪我人であることを思い出したのだ。
視線を合わせていたも自分の体調とクロムの異変に気付いたのだろう。少し、困ったように微笑んだ。
「――すぐ、リズを呼んでくる。すまん、無理をさせた」
囁くように呟き、意志の力を以てゆっくりと身体を剥がす。途中彼女が半裸であることに気付いて叫びそうになったが、その悲鳴は力ずくで飲み込んだ。なるべく見ないようにしながら、それ以上に負担を掛けないように細心の注意を払って寝台の上に横たえる。
「……すいま、せん……」
「馬鹿、それは俺のセリフだ。とにかく今は……ゆっくり、休んでくれ」
うつぶせに下したの髪を手櫛で梳き、頷いたことを僅かに伝った振動で確認しリズを呼ぶべく踵を返す。視線が追ってくるのに、後ろ髪を引かれる思いで戸口まで行きふと、足を止めた。
「」
そして振り返ることなくその名を唇に乗せる。
「はい?」
「……いや、何でも無い。すぐ、戻る」
しかし、結局喉元まで出かかっていた音を言葉にすることは無く。
クロムは何かから逃れるように、天幕を後にしたのだった。
「……さて、皆に集まって貰ったのは他でもない。が目を覚ましたことの報告と――今後の予定を話す為だ」
夕食も終わり、とその彼女の看病の為に残したミリエルを除く全員をクロムは召集した。
「の容体は落ち着いているが――かと言って、すぐ動けるような状態でもない、だったよな。リズ」
「ん。とにかく体力が落ちてるから、回復するまで身体を休めないと――傷口は塞がっちゃったから、出血の心配は無いんだけどね」
「じゃあ、もう少し此処にいるのかい?」
ソールが首を傾げるが、その反対側にいたヴィオールが肩を竦める。
「だが、それではいつ出発できるか分からんよ。確かにフェリアとの同盟で戦力の補強はできたが、時間の余裕はあって無きようなものだ。あまり、現実的な案では無いような気がするが……」
「あぁ?じゃあすぐ出発するってのかよ!?」
「ヴェイク、落ち着けって」
喰ってかかるヴェイクをソワレが諌め、クロムに向き直る。
「まさかここに一人で置いていくわけにもいかないし……」
「当たり前だ」
とは、クロム。
「近隣の村に、お願いすると言うのも一つの手かと思いますが」
「――ならば」
フレデリクの提案に、普段は寡黙なロンクーが珍しく口を挟んだ。
「ここからであれば、国境の長城が近い。そこまでは馬車で運んで、体力が回復次第戻ればいい」
「そ、そうですね。それが一番さんに負担がかからないですよね」
女性であるスミアが同意し、軽くロンクーの腰が引ける。
が。
「――駄目だ」
この場の最高意志決定者であるクロムが、にべも無く却下した。
「目を離した隙に何を仕出かすか分からん――俺の目が届く場所でさえあんな無茶をする奴だ。それさえなければ――フェリアに預けることも考えたんだがな」
「説得力があるんだか無いんだか……」
微妙だ、と難しい表情をするリズは正しく兄の真意を見抜いていた。クロムはとにかくを自分の目の届く範囲内に留めておきたいのだろう、と。ある種の公私混同とも言えなくもないが、総じてそれはイーリスの利になることだ。気付かぬフリをして黙殺する。
「――身から出た錆ですから」
と、突然この場に居るはずの無い人物の声が空気を震わせる。
「それについてどうこうは言いません。ですが、出発に関しては――」
馬鹿な、と全員の視線がそちらに集中した。
「明朝とすることを、推挙します」
青白い顔色のが、いつもの出で立ちで立っていたのだった。
「!?馬鹿な、お前休んでいろと……!ミリエル!」
「申し訳ありません。ですが、どうしてもと仰られて……」
止めきれませんでした、と頭を下げるミリエルは本当に困った表情をしている。その彼女に無理を言った張本人は、クロムの視線を遮るようにその前に立つと首を左右に振った。
「私が無理を言ったんです。ミリエルさんは押し切られただけですから……」
「だからそれを止めるために……ああ、もういい!まだ起き上れるような状態じゃないだろう!?」
一番先に我に返ったクロムが闖入者の元へ駆け寄り、その頬に手を添える。やはり、冷たい。
「やだ、さん!どうして……!!」
「おいおい、大丈夫なのかよ?」
リズやヴェイク、他に未だ面会が許されていなかった面々も唐突に姿を現した軍師の姿に驚愕する。は皆にまず心配を掛けたことを詫び、大丈夫だからと安心させるように薄く微笑んだ。最もその笑みは、普段彼女が見せるものより格段に儚げで仲間の心配を煽っただけだったのだが。
「大丈夫です。まだちょっと……血は、足りていないかもしれませんが。そんなことより」
いや、十分大事だろとそこかしこから突っ込みが入る。
「明日の早朝――朝一番でここを発ちます。私の事をご心配くださっていたようですが、斟酌しなくて大丈夫です。流石にアスランに騎乗はできませんが……馬車の中に放り込んでおいてくだされば」
「馬鹿!体調が悪化したらどうする!?」
「長城までは保ちますよ――と言うか、保たせます。とにかく、明日の朝一でここを発たないと……」
「何かあるのかね?」
の懸念が時間にあると逸早く気付いたヴィオールが尋ねれば、あっさりと彼女は頷いた。
「風の精霊達が騒いでいるので気になったんですが……西から天気が崩れてきているようです。ロンクーさん、この時期のフェリアの天候は一度崩れると急速かつ断続的に悪化するとフラヴィア様から伺っていたのですが」
「……ああ。その通りだ。しかも、西からと言ったな」
「はい」
「だとしたら間違いなく季節風だ。この時季の季節風は雨や雪を運ぶことが多い。――厄介だな」
当該最もフェリアに詳しいだろう男に尋ねれば、肯定の返事が返ってくる。それも、厄介とのお墨付きで。
「同感です。一度荒れ出したら、最低でも二日は足止めを喰らうでしょう。ならばそれまでに国境の長城に――それが無理ならせめて川を越えておきませんと」
今居る場所と長城の間には大河とまではいかないが、そこそこ幅広い川が流れている。この付近一帯の水源ともなっている川が、氾濫でもされたらイーリスに戻るまでに更に日数がかかるだろう。
「私のことは二の次で構いません。とにかく今は一刻も早く川を越えることを考えませんと――お疲れ所を申し訳ありませんが、撤収の準備を……」
「駄目だ」
「……クロムさん」
お前は鸚鵡か、と突っ込まなかったのは偏に体調が思わしくないからだ。大した理由も無く――それが負傷した自分の為だと言うのなら尚更に――出発を延期していては、いつイーリスに戻れるか分からない。
「クロムさん、こんな所で時間を取られる余裕は我々には無い筈です。ユルミール川を越えれば、長城はすぐそこ……」
「天幕からここまで、単に歩いてきただけで軽く息が上がっている奴が何を言う。お前の言う通り馬車に放り込んだところで、長城でまた寝込むのがオチだろう」
「…………」
ばれたか、と思うもここはも引けない。第一、例え長城で潰れたとしてもそれは自分にとって好都合以外の何物でも無い。
――単独で動くのに、願っても無い状況なのだから。
「……だとしても。今は一刻も無駄にできないんです、クロムさん。私の事でしたら本当に心配ありませんから。皆さんも急で申し訳ありませんが、出発のじゅん……っ」
「ッ!!」
準備を、と続けようとしたの視界が急に揺らぐ。しまったと舌打ちする間も無く倒れ込んだ身体を、傍らのクロムがしっかりと抱き留めた。
「馬鹿ッ!だから言っただろうが……!リズ!!」
「分かってる!あぁもう!顔色真っ青!!まだ血が足りてないんだから、無理しないで!」
「貧血ですか」
「うん。だから大人しくしてろって言ったのに。……お兄ちゃん、そのままさん天幕に運んで。せめてあと一日二日は大人しくしてないと」
「……同感だ。貧血だけならまだしも、この状態で風邪でも引いてみろ。最悪命に関わるぞ」
それは幾らなんでも大袈裟だと抗議しようとするが、抱き上げられた身体は鉛のように重く全く言うことを聞かない。馬車に放り込んでおけば大丈夫だと言った主張も、このままでは通りそうになかった。
「ですが、クロム様。そう何日も足止めを食うわけには……」
「駄目なら嵐が去った後、万全の状態で居移送できるように先遣を出す。その際、フェリア長城に世話をかけるが……」
「……問題は無いだろう。ここからなら、東フェリアの首都に戻るより距離的に近いしな」
「すまん、ロンクー。恩に着る」
いや、と礼を不要と言ったロンクーの目からも今のにはどうしたって休養は必要に見えた。あの時誰もが咄嗟の事態に硬直していた中、彼女だけが動き身を挺してクロムを守ったのだ。
守られたクロムの心情だけを汲むつもりは無いが、せめて普通に動けるようになるまで休養を取らせても罰は当たらないだろう。
「それに、嵐が来るなら明日の早朝に発ったところでどこかで足止めは喰らうんだ。なら、それが過ぎ去るまでここで大人しくしていても時間的には変わらんだろう。長城に駆け込めれば、確かにそれに越したことは無いが……」
を不用意に動かせないのは変わらないのだ。それならば連戦を強いられた仲間達のことも考えた上で、休養を取ると決めて何が悪い。その為に生じた数日の遅れくらい許容の範囲内だろう。がたがた抜かす輩が居たらそれこそ王子権限で黙らせてやると、クロムは胸中だけで宣言する。
「お兄ちゃん、今はそれよりさんだよ」
「あ、あぁ。すまん。皆、とりあえず今日は解散してくれ。明日の朝から天幕の補強と……当面の水と燃料だな。フレデリク」
「は」
「すまんが、後を頼む。――リズ、行くぞ」
「ん。分かった」
唯一クロムを説得できるであろうがあの状態では、軍主の裁定は覆らないだろう。
懸念すべきはこの間に状況が動くことだが、こればかりはどうもすることはできない――例えが万全の状態だったとしても。
「嵐、か……」
アカネイア大陸を巻き込むであろう、嵐の到来を懸念してか誰ともなく呟いたのであった。