眼前に広がる光景を見てクロムはふ、と口の端を上げた。

実は全く覚えていなかった誕生日を祝うからと連れ出された時は正直面食らったのだが。
中々どうして。今クロムの眼前で催されている宴は、予想していたものとはかけ離れて質素な――それでいて、どこかほっとさせられるものであった。中庭の中央に赤々と燃える炎が陣取り、それを取り囲んで談笑する者達を照らし出している。国や所属の垣根を越えて繰り広げられているその光景に、自然と表情が緩んでしまう。

最初の邂逅でこそ不幸な勘違いが互いの間に生じてしまったが、それが解ければ彼らはとても良い隣人であった。今広がる光景をイーリスとフェリアそのものにできたら――するつもりでおらねばとクロムは、決意も新たに頷く。

(ん……?)
と、その拍子にある違和感に気付いた。
(人数が足りていない……?)
違和感の正体には直ぐに思い当たることができた。さして広くもない中庭は問題無く一望でき、そこでフェリアの兵に混じって自警団の面々が視認できたからだ。
最も騒がしい場所に目を向ければ、ヴェイクがフェリア兵と腕相撲に勤しんでおり、それをミリエルとソールが(ミリエルはジョッキを片手に)観戦している。 その近くでは酒に酔ったらしく(子供に酒を飲ますな)小トラと化したリズをフレデリクとソワレが必死で宥めているし、こんな時真っ先に存在を忘れがちなカラムはスミアを挟んでヴィオールやフェリア兵達と談笑していて。

?」
やはり、居ない。この細やかな宴が始まった時にも居なかった彼女だったが、途中でヴェイクとソールに文字通り引き摺られてきた女軍師の姿が見当たらなかった。
「さっきまでは確かに居た、よな……?」
型通り、おめでとうございますとだけ伝えてきた後の姿に覚えが無かった。長城内にいる以上、また彼女の実力から言って滅多なことがあるとは思えなかったが、気になったら即行動が常のクロムである。
だが、問題が一つ。

「…………」
本当に何処に居るんだ、と凭れかかっていた身体を起こせばふわり、と濃紺の髪が一房風に踊った。何事かと顔を上げれば、うっすらと宙を泳ぐ人ならざる者達の小さな姿が視界を過る。
(ついてこい、とでも言っているのか?)
生憎、生来魔術士としての適性に欠けるクロムには彼らの言葉を正確に把握はできなかったが、知りたいのは特に風の精霊に愛されている(らしい)彼女の行方だ。 彼らに聞くのが、最も効率的に思えた。

「……まぁ、大丈夫か。」
ここのところフレデリクが常の三割増しで鬱陶しく感じるのだが、を探しに行くだけだから問題無かろうと勝手に結論を出す。そう言えば件の天幕乱入事件の後、もふらふら出歩くなと言っていたななどと他人事のように考えながら。
全く懲りていないとその二人が知ったら、それこそクロムに縄を括りつけかねない。事実を知られずにいたのは、クロムとって僥幸以外の何物でも無かっただろう。
無駄に気配を消すような真似はせず、クロムは先導役の風の精霊を追って踵を返したのだった。


風の精霊達がクロムを導いたのは、長城に隣接して自生する針葉樹の林だった。敷地の境界としての石垣は存在したが、一部破損して(クロムが壊したわけに非ず)いる場所を軽々と跨ぎ越して長城外に出る。

「全く……何を考えてるんだ、あいつは。」
視界の悪い木立の中を全身を使って慎重に進みながら、ぶつぶつと呟く。
彼女のことだから後で石垣の補修は命じるだろうが、そもそも一人でこんな暗く危険な場所に足を踏み入れるなど到底了承できない。
この場にが居たらむしろ人のことは言えないでしょうと反論したであろうが、いまいち自身の立場を理解していないクロムである。何でだ、と尋ね返して火に油を注ぎかねない。

「ぅおっ!?あぶ……」
だが、それはもう少し先の話で。倒木か何かに足を取られ、たたらを踏んだクロムが咄嗟に手近な木の幹に激突した。
「〜〜〜っ!」
強かに打ち付けた鼻を押さえて呻いていると、ふと優しい風が頬を撫でクロムの視線を上方へ誘導した。

「………?」
見上げた先にある、小柄な姿。
大木とは言い難い針葉樹の頂上近くの枝に腰掛けているらしい後姿が、その更に頭上から降り注ぐ月光を全身で受け止めるように佇んでいた。

「…………」
思わず言葉を失う。
北国の気候に近いこの場所では、幽けき月光にさえ温もりを感じる。
その光の中、は何をするでも無くただただその場に佇んでいるだけで。しかし、クロムの思考と言葉を奪うには十分過ぎる程に神秘的な――侵しがたい、空間だった。

「…………」
勢い込んで来たクロムだったが、完全に気勢を削がれてしまう。 まるで一枚の絵画、生きた芸術そのもののような――

『クロムさん?』
と、突然耳元に訝し気な声が響いた。聞き覚えのある、だが遥か上空に居る筈の人物の声に弾かれるように我に返る。
、か?」
『そうですけど……どうかされました?』
独り言めいた呟きにも、やはり紛れも無いの声が返ってきた。何故、と上空を仰ぎ見れば正確な表情までは分からないがこちらを見下ろしている彼女の姿がある。声の聞こえる距離では無く、大声を張り上げている訳でも無い。何故だと目を瞬かせて、視界の端を過った半透明の影に答えを発見する。

風の精霊(ジルフェ)、か?」
『えぇ。伝えて貰っているんですが……クロムさん、すいません。危ないですから、少しそこから離れて頂けますか。』
「ん?あ、あぁ。」
危ないとは何ぞや、と思いながらも木の根元から二、三歩後退する。

『ありがとうございます。』
見通しの悪い場所ながら、まるで見ているようなタイミングだった。恐らく声を届けてもらうのと同時に、視界も保っているのだろう。

「!?」
「あ。大丈夫ですか?」
そんなとりとめの無いことをかんがえた次の瞬間、その答えを持つ当人が唐突にクロムの視界に出現した。
思わず半歩身体を後退させれば、声が普通に届く範囲内に求め人の姿がある。

「だ、大丈夫、だが……、お前、今……」
「上から飛び降りただけですが。」
「飛び降りるなーっ!!」
反射的に突っ込むクロムに、は不思議そうに首を傾げた。何をそんなに驚いているのかと、彼女にしては珍しく顔に書いている。

「でも、降りませんと声が届きませんし……」
「いや、もーいい。分かった。」
クロム、脱力。確かに風の精霊に愛されている彼女ならば、あの程度の高さなど問題にもならないのだろう。クロムの寿命を度外視する、と言う前提でだが。

「で、どうかされたんですか?」
クロムがこの場に居る理由にいまいち――と言うか、全く心当たりの無いが再度疑問を口にした。
あれほど口を酸っぱくして一人で行動するなと言ったにも関わらず、ふらふらこんな人気のない場所へ足を運んだことを咎めるのはその後でも遅くは無い。

「どうかもも何も……お前の姿が見えなかったから、探しに来たんだ。」
「……よくこの場所が分かりましたね。」
誰にも気付かれずに抜け出してきたつもりだったのだが、と言外に言えば、その目論見通り全く気付かなかった張本人がやや不機嫌に口を開いた。

「お前が居ないことに気付いたら、風の精霊(ジルフェ)達がここまで案内してくれたんだ。何かあったのかと心配していたんだが……」
風の精霊(ジルフェ)達が……そう、ですか。」
確かに口止めはしなかったが、何も馬鹿正直にクロムに居所を教えなくてもいいだろうと胸中で呟く。まぁ、見つかってしまったものは仕方ないし、今更どうこう言うつもりも無かったが。

「……どうしたんだ、。何か、あったのか?」
心配そうな表情で尋ねてくるクロムに対し、何と答えるべきかとその視線を受けながら考える。あったと言えばあったし、無いと言えば無い。――ふぅ、とは一つため息を吐いた。

。」
「いえ……少し、考え事をしていたら、止まらなくなってしまったんです。それでちょっと……」
「文字通り頭を冷やしてたわけか。」
樹上で身体を寒風に晒していた様子を思い出し、クロムの眉間に思いっきり皺が寄った。す、と手を伸ばしの頬に触れる。

「ク、クロムさん?」
「……俺にはもう、十分冷え切っているように思えるんだがな。これ以上ここに居たら、風邪を引きかねん。とりあえず、一度……」
「クロムさん。」
戻れ、と言おうとしたクロムをの小さな声が遮った。

「もう少し……もう少ししたら、天幕の方へ戻ります。ですから、クロムさんは先に皆さんの処へ戻って下さい。と、言うか。クロムさんも黙って抜けてこられたんじゃないんですか?」
「……何でそう思う。」
「フレデリクさんがクロムさんをお一人にするとは思えませんので。」
と、言うか。一人にするなと彼に言ったのはなのだが。こっそり『視た』光景には、小トラと化したリズを宥めるのに悪戦苦闘している件の人物の姿があった。他の者も会話や余興に気を取られて、クロムが抜け出したことに気付いている様子は無い。

「子供じゃないんだ。そうそう、一緒に居る訳じゃないぞ。」
その思考力に伴わない行動力は十分子供の証だと思わないでも無かったが、今この場で余計な事を言うだけの気力が無かったのでそれ以上は何も言わずに口を噤む。
クロムはクロムで、件の天幕侵入事件で彼女に何故かフレデリクは一緒では無いのかと聞かれ、何故か無性に腹立ったことを思い出してしまった。

「……そうですか。ともかく、広場まではご一緒しますから戻って下さい。スミアさんが気付いて騒ぎ出すと、また面倒なことに……」
「……何でそこでスミアが出てくる?」
真顔でクロムに尋ねられ、は訝しげな面持ちで頭上を仰いだ。本気で言っているのか、とその顔を凝視すれば本当に心当たりが無いと言った表情にぶちあたり、脱力したがこれ以上は自分の口から言うべきことでもあるまいと口を噤む。

「……いえ。何でもありません。ともかく広場に――」
。」
今度はクロムの声がの声の先を遮った。しまった、と思ってももう遅い。力任せとは程遠い、だが有無を言わせぬ強制力を持ったクロムの指が頤に添えられ、視線を絡め取られてしまった。

「……何が。いや、何を……考えていた?この先の、フェリアとのことか?」
逃れることを許さぬ毅い視線。常であっても逃げることが難しいその視線に晒され、は彼女にしては珍しく早々に白旗を上げた。
――それ程までに、今の自分の精神状態は脆い。襤褸が出ないうちに、適当なことを告げてこの場から立ち去って――立ち去らなければと自覚できる程度には。

「いえ。それについては、もう。……打つべき手は全て打ちましたし、後はフェリアに着いてみないと何とも言えないんです。だとしたら、ここでうじうじ考え込むだけ時間の無駄でしょう?考えていたのはもっと別の事で……」
「……俺が心配するようなことは何も、か?」
いつか言われた言葉をそっくり返せば、その意図は伝わったのだろう。が大きく溜息を吐いた。

「クロムさんだけじゃありません。私自身が心配しても、どうにもならないことです。どうならなくても――不意に、考え出してしまうことがあるんです。本当に、たまにですけど。」
それがたまたま今日、今、この時に来てしまっただけのことだ。ただ一度考え出すと止まらないことも知っていたので、一人になれる場所に居たかった。――それだけなのだ。

「……記憶の、ことか。」
「…………」
即座に思い至ったらしいクロムの言葉に、肯定の意を含めて瞳を閉じる。本当に今夜は自分でもどうにかしていると思う。
もう十分過ぎる程、余計な事を喋っている。――だから、一人になりたかったのに。

「クロムさん、本当にもう大丈夫ですから……広場に、皆さんの所に戻って下さい。それと申し訳ありませんが、私は先に休ませて――」
「……大人しく天幕に戻るなら、と言いたいところだがな。そんな表情(かお)している人間の言葉を、そう簡単に信じると思うか?」
「…………」
どんな表情をしているのだ、と逆に聞きたい。本当に今日は――どうにか、している。


「……私、何も知らないんです。」
沈黙に耐え兼ねたのか、暫くしてがぽつりと呟いた。何も、と僅かに震えながら繰り返す。

「何も知らなかった。クロムさんの誕生日が近いことも、毎年イーリスでは生誕祭が開かれることも。……何も、知らないんです。私。」
、それは……」
「仕方ないことだって、私だって分かっています。分かっていても、ふと、そう考えだしたら止まらなくなってしまって……どうにもならないことだって、分かっているから……だから……」
項垂れるように顔を伏せた彼女のその先の言葉を、しかしクロムは言われずとも理解した。だから、一人になりたかったのだと、恐らくはそう言いたかったのだろう。だが。

「だって、私。自分が、生まれた日すら、知らない……!」

無理にでも。強引にでも。――彼女を一人にしなくて、よかったと。
その言葉を聞いた瞬間、クロムはその華奢な身体を抱き締めたのだった。

 長城にて U

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