「……すまなかった。」
どの位、そうしていただろうか。不意に、クロムはそう呟いていた。
抱き締めた身体が僅かに身じろぐ。しかし、何か応えが返るでもなく静かに鼓動が命を刻む音だけが互いの身体越しに響いて。
何に対しての謝罪なのか、と問われればクロムはこう、答えただろう。――全てへの、と。
自分の失われた過去と記憶を探しに行きたい、そう言っていたを何のかんのと理由を付けて傍らに留め置いたのは結局のところクロムなのだ。
自ら組織した自警団に不足していた人材だから、と言うのも勿論理由の一つだったが、結局のところ偶然に拾った――出会った彼女を。
どうしても、どんな詭弁を用いても傍に置いて置きたいとそう、思ってしまったのだ。理由など分からない、だが自分の中の何かがそう叫び、クロムは疑う事など無くその声に従った。それが、彼女にどれほどの不安や負担を掛けるかなど考えもせずに。
軍師としてはとことんクロムに厳しいだが、ほんの少し。ほんの少しだけ、ただのとしては自分に――ただの、クロムには。優しくて、甘いことを本能的に嗅ぎ分けていたせいでも、ある。
今回の行軍に至ってもそうだ。恐らく、は姉と――エメリナと。何事か、密会とまでは言わずとも何らかの形で接触を持ち、話をしたのだろう。あれ程自分の素性を知って関わりを絶とうとしたが、単に義侠心などから同行してくれたなどとは幾らクロムが政事に疎くとも考えていない。
エメリナがと直接接触を持ち、そしてがエメリナに応える形で今回の派遣と相成った。――実に情けない話だが、恐らく真相はこんなところだろう。
記憶を探すための道行を後回しにしたのは、自身の意志でもあるだろう。それは疑ってはいない。だが理屈で納得していても、感情が追い付かないことなどいくらでもある。クロムとて覚えのあるその齟齬は、ある時、不意に訪れるものなのだ。
それに襲われたら、ただひたすら収まるのを待つしかないのも――経験上、知っている。
「……すまない、。」
恐らく同じように知っているからこそ、クロムと同じような方法を取ろうとしたを、だが自分はこうして引き止めている。卑怯だと、呼ばわ呼べ。形振り構わず手に入れたいとそう思う自分を――クロムは、どうしても抑えることができなかったのだ。
「……クロムさんの、せいじゃありませんよ。これは多分、月のせい。月が、とても綺麗で……溶けて、しまえそうに、綺麗だから……」
クロムがを発見した時、確かに彼女は今にも月光に溶け込んでしまいそうに見えた。そうだな、と肯定しながらそんなことは許さないとばかりに華奢な身体を強く抱き締める。
――こうやってはクロムを赦す。甘えていい訳が無いことを知っているのに、それに甘えてしまうのはきっと自分の弱さのせいだ。
けれど、どうしても。クロムは彼女を抱く腕を弛めることができない。そういつだったか、が自分だけにはどうしても弱さを見せてしまうと。そう、彼女が密かに告白したように。
「どうかして、ますね。私。今日は、本当に……」
込められた腕の力に我に返ったのか、先程より僅かに力の入った声が自嘲気味に響く。本当に――どうか、していると。
「……クロムさん。あの、もう本当に大丈夫ですから。広場に戻りませんか?スミアさんやフレデリクさんが……」
「……前々から思っていたんだがな、何でそこでその二人の名前が出てくるんだ?……それに。」
「……クロム、さん?」
やや憮然とした様子で言葉を切ったクロムを、漆黒の双眸が見上げる。
その表情には戸惑いと――僅かに、怯えの色が混じっていて。
「・・・・・・いや。ところで、。お前、俺の生誕祝いなのに、言葉一つで終わらせる気か?」
「は?あ、いや……ですから、それは……し、知らなかったんですから、と、とりあえず急場は、ですね……」
いきなり変わった現実的な話に、が瞳を瞬かせる。これで軍師が務まるんだから不思議な奴だな、と思いつつもクロムは知っていた。
彼女は気付いているだろうか、こんなにも豊かに表情を変えるのは自分の前でだけだと言うことを。自惚れかもしれない、だがクロムはその多彩に変わる表情を誰よりも多く、近くで見てきたのだ。
「却下だな。誕生日すら知らなくて、祝いの席もすっぽかそうとして……何て冷たい軍師なんだ。」
「そ、それを今言いますか!?」
不可抗力だ、と言おうにもその理由を詳しく話せないのだから弁明の余地など無いわけで。前者はともかく、後者に関しては軍略上必要不可欠なことなのだ。この長城に紛れ込んでいるであろう、だが中々尻尾を出さない間者へ提供した最大の隙だったと言うのに。ヴェイクとソールに無理矢理引っ張り出されてしまったのだ。
お陰で少々予定が狂った――とは言え、それを正直に説明しようものならクロムはそれこそを長城内に閉じ込めようとするだろう。軍略的な意味以外でも、正直なところそれは困る。
「し、しょうがないじゃないですか!知らなかったんですし、書類片付けていたら気付かなかったんですから……!」
「おまけに、早く戻れだなんて冷たいことを言うしな。」
「だ、で、ですから、それも!大体、クロムさん貴方主役でしょう!?主役が居なくなったら、皆さん困るんじゃ……」
「もう皆、ほぼ出来上がってるからな。心配は要らんさ。そもそも、ヴェイク辺りは単に騒ぐ口実が欲しかっただけだろうしな。」
「……それについては否定しません。」
主役そっちのけで飲んでいた、某戦士の姿を思い出し神妙な顔で頷く。
「でも。スミアさんやリズさんは、本当にクロムさんの誕生日をお祝いしたかったみたいですよ?ですから、ここは一度……」
戻った方が、と続けようとしたが、全身を硬直させる。
にっこりと、フレデリク張りの笑顔を貼り付けたクロムに見下ろされて。
「冷たい……冷た過ぎる。冷た過ぎて、風邪を引きそうだ。風邪を引いてうっかりとフェリアとの交渉の場で何か口走ってしまうかもしれん。」
「……そうきますか。」
この野郎、とじろりと睨めつければ、珍しくふふん、と強気にクロムが笑う。無論交渉云々は冗談だろうが、これで首を縦に振らなければ後々ネチネチ言われそうだ。
「……何がご希望なんですか。」
呆れ半分で譲歩すれば、途端に表情を輝かせる。子供ですか貴方は、と思う傍らで腰に回されていた腕力一つ取っても子供扱いはし難いと訂正する。むしろ子供より遥かに厄介な生き物だ。
「……折角の誕生日なんだ。居たいところにくらい、居させろ。」
「…………!」
呟きと共にぐい、と引き寄せられた。クロムの胸に押し付けられるように、華奢な身体が拘束される。
何たる幼い言い分かと思いながらも、服越しに伝わる体温にそのまま言葉を飲み込んでしまった。伝わる体温に心音にこれ以上無い程安堵を覚え、身体が言うことを聞かないからだ。
しかし、このままの状態で居たらそれこそスミアやフレデリクに見付かって面倒なことになるだろう。後者なら問題無いようにも思えるが、あの男はクロムとが共に居るのを(軍略上は別として)良くは思わないだろう。――何故なら彼はクロムの臣であり、イーリスの王家に仕える者なのだから。
それをどうこう言うつもりは無いし、むしろ当然のことと自身が思っている。
自分達の間にはある一定の距離が保たれていなければならない――例えそれを、自身がどんなに寂しく思っても。
「クロムさん。」
「戻らんぞ。」
分かってます――何が分かっているかは、敢えて告げず――は右手の人指し指で上空を指した。
「?」
「では、遅ばせながらご生誕のプレゼントをさせていただけませんか。……ちょっと寒いかもしれませんが。」
ますますもって不思議そうな表情をするクロムに、はすぐ分かりますよと悪戯っぽく微笑む。
そんな微笑に一瞬惚けたのは否定しない。
そして――それを直ぐに、後悔したことも。
長城にて V